リビングに戻った八戒は白煙の中にいる三蔵に声を掛けた。 「すみません三蔵さん、お待たせしてしまって」 「…いや、怪我の具合はどうだ?」 「たいした傷ではなくて、本当は絆創膏で十分なんですけど天蓬が包帯まで巻いてくれました」 微苦笑を浮かべた八戒を見兼ねて三蔵は、そうかと言って短くもない煙草をたぬきで揉み消す。今更ながら自分のした事に羞恥を覚えて、なんとなく間が持たない。しかしそんな三蔵を気にする風もなく、八戒はすぐ脇を通り過ぎると窓のロックを外す。 「少し空気を入れ替えますね。窓を開けても良いですか?」 「……あぁ」 まったく態度の変わらない八戒に、いささか拍子抜けしながら三蔵は返事をした。自ら仕掛けておきながら、意識し過ぎている自分が滑稽に思えてくる。 そこへ紫煙の立ち込めた部屋に、八戒が開けた窓から新鮮な空気が入り込んできた。気持ちの切り替えには丁度良いと、平静さを取り戻すため深呼吸したところで八戒と目が合う。 「三蔵さん、まだ着替えてなかったんですね。すぐに洗濯しますので、これに着替えて下さい」 八戒は三蔵がまだ着替えてないのを見咎めて、脇に置いてあったシャツを手に取り目の前に差し出した。両膝を付いて目の前に座る八戒に警戒心はまるでなく、三蔵は僅かに目を瞠る。一方的にキスをされたというのに、すぐにシャツを取らない三蔵を不思議そうな顔で見ている。見つめる瞳に怯えや嫌悪の色がないのは良かったが、こう無警戒だと嬉しい反面どこか淋しい気もする。挨拶程度にしか思われてないのかと、複雑な男心に固まる三蔵を、八戒は柳眉を下げて不安そうな顔で見つめた。 「あの、この着替え気に入りませんでした?」 「いや…」 三蔵は微妙に視線を外しながら答えると、替えのシャツを受け取り、着ているシャツのボタンを外し始める。この至近距離はまずい、と三蔵は目線を合わせないよう注意しながら着替えに集中する。どこかぎこちなくボタンを外し片袖を抜いたその時、凄まじい音がしてリビングの扉が開いた。 何という事でしょう。天蓬が目にしたのは今まさに狼が可愛い赤ずきんちゃんを食べようとしているところだったのです。 「三蔵、今わの際にいう言葉はもう無いですね」 無表情になった天蓬から鬼気迫る殺気が放たれ、三蔵は言われた言葉を理解するのに数秒を要した。そして天蓬から見たこの状況を把握するに至り、いきなり絶対絶命の大ピンチに陥っている事を悟る。 「おい待て天蓬、誤解だ!」 「これ以上の言い訳は見苦しいですよ?問答無用とは正にこの事ですね」 鳶色の瞳に灼熱の怒りを宿して微笑んだ天蓬に聞く耳の持ち合わせはなく、妖刀のような美しさと切れ味でバッサリと斬って落とす。次に斬られるのは自分かと、ゆっくり間合いを詰めてくる天蓬を見上げて三蔵は唾を飲み込む。しかし既成事実ならともかく誤解で斬殺されるのは、甚だ不本意で理不尽である。三蔵も身構え相討ちの覚悟を決めた時、間にいる八戒がその場にそぐわない声を上げた。 「あの、随分と殺気立ってるようですけど、何かありました?」 「あってからじゃ遅いんですよ、八戒。今すぐこの悪い狼を切り裂いて、石をぎゅうぎゅうに詰め込んで池に沈めてやりますから」 「濡れ衣だ!食ってもいないのにどうしてそんな目に会わなきゃならん」 「先にデザートを食べたくせに何言ってるんですか?これからメインディッシュを戴こうって腹づもりでしょうが、そうはいきませんよ。これ以上八戒には指一本触れさせません」 まるでギリギリと刀を合わせているように、互いに睨みあっている二人の間で八戒は困り顔になる。 「お取り込み中のところを申し訳ないんですけど、出来れば僕洗濯をしたいなぁと…」 小さな呟きを聞き取った二人は、飛びのくように離れて八戒を見る。と申し訳なさそうな翠の瞳と目が合った。 「八戒ごめんなさい、僕部屋に忘れてきちゃいました。替わりに今すぐ狼の皮を剥ぎますから」 「ヤメロ、貴様に脱がされるなんざ末代までの恥だ。自分で脱ぐ」 三蔵は何をしでかすか判らない天蓬の手を嫌って、乱暴にシャツを脱いだ。 「お邪魔しちゃってすみませんでした。僕洗濯してきますから、続きをごゆっくりどうぞ」 三蔵のシャツを拾い上げた八戒は、小さく頭を下げるとリビングを出て行く。それを見送った天蓬は、空気の抜けた風船のようにへにゃりとクッションの上に座り込んだ。 「あの様子だと貴方、本当に着替えてただけだったんですね」 「てめぇ、だから誤解だと言ったんだ」 シャツを着ながら青筋を立てた三蔵は天蓬を睨む。が天蓬はまったく意に介さず煙草を取り出した。 「まったくどうしてくれるんですか。僕の寿命が3秒は縮みましたよ」 「俺を河童以下にした報いだな」 「五十歩百歩ですよ。自覚がない分悟浄より質が悪いです。ところでこの窓を開けたの貴方ですか?」 「いや、俺じゃない」 急な話題展開とその内容に三蔵は眉を顰める。 「そうですか、八戒が自分で開けたんですね」 開かれた窓を眺める天蓬に三蔵は、紫暗の瞳を眇めた。 「……もしかしてお前、あいつを飼い殺すつもりだったのか?」 「それは彼次第ですよ。僕は別にそれでも構いませんけどね。でも選択肢があった方が良いでしょう?だから貴方に会わせたんです。後は八戒が決める事です」 三蔵の鋭い視線を無視して天蓬は、窓を見ながら紫煙を吐き出す。舌打ちをした三蔵も傍に置いてあったマルボロに手を伸ばした。 いつも人を煙に巻くような天蓬とは別人のように見える。事情は判らないがどうやら天蓬は、八戒の意思でここに居て欲しいと思っているようだ。そのために面倒くさがり屋の自分を巻き込んだらしい。厄介だなと思う。らしくもないのは自分も同様で、都合の良い当て馬として利用されたのが判っていながら、怒りが湧いてこないのだから。だが天蓬の手の上で踊らされるのは面白くない。 大きな紫煙を吐き出すと、三蔵は煙草の灰を落とした。 「おい、賭けねーか?天蓬」 「何をです?」 「あいつが飼い殺されるか否かだ」 言われた天蓬は鳶色の瞳に険を差して眇めたが、向き合わないで切り返す。 「へぇ、面倒くさがり屋の貴方が首を突っ込むんですか?」 「先に当て馬に選んだのはお前だろう。後悔させてやるよ」 「随分と大きく出ましたね。勝つ自信があるんですか?」 「さぁな、あいつ次第なんだろう?」 三蔵も開かれた窓を見ながら紫煙を吐き出す。天蓬は短くなった煙草を揉み消した。 「随分と貴方も気に入ったようですね。確かに貴方に見せたのは失敗だったかもしれません」 たいして後悔してなさそうな口調で天蓬が言うと、三蔵はフンと言って追加注文のサラダに手を付ける。 暫らくするとリビングの扉が開いて賭けの対象が現れた。静かになっている2人に八戒は終わりましたか?と訊ねてくる。天蓬が見上げてにっこりした。 「もうとっくに」 「ならお茶でもしながら洗濯が終わるのを待ちましょう。飲み物はコーヒーと紅茶どちらにします?」 「紅茶が良いです」 「コーヒー」 天蓬と三蔵それぞれの返答に八戒は笑みを浮かべた。 「はい八戒、あーんして下さいv」 「天蓬、僕一人で食べられますけど?」 「でも八戒、怪我をさせちゃったのは利き手でしょう?心配しなくてもちゃんと僕が責任取りますからね」 目の前にフォークの刺さったレモンパイを差し出され、八戒は戸惑うように三蔵へと視線を泳がせる。 「でも、あのー…」 「この方法が気に入らないのでしたら勿論僕は口移しでも構いませんよ。それとも僕がこうするのはお気に召しませんか?」 潤んだ鳶色の瞳を向けられて、八戒は観念したようにいただきますと言ってからおずおずと口を開ける。その途端天蓬は満面の笑みを浮かべ、雛鳥に餌をやる親鳥よろしく八戒の口の中にレモンパイを入れた。 「美味しいですか?当り前ですよね。だって八戒が僕のために作ってくれたパイなんですから」 咀嚼する八戒を見ながら天蓬は非常に満足そうに微笑み、それを聞いた三蔵は何か違わねぇか?と思いながらコーヒーを一口飲んで渋面になる。 「美味しいですか?三蔵。当り前ですよね。だってそれは僕が貴方のために淹れたコーヒーなんですから」 八戒に見せた笑みに艶を加えて天蓬は微笑む。初対面の人間なら虜にしてしまう美しい笑みだが、とびきり濃いコーヒーを飲まされた三蔵には悪魔の笑みにしか見えなかった。八戒がお茶の用意をしようとするのを、危ないですからと常に側にいてキッチンでいちゃいちゃしていたのにはこんな魂胆があったのかと、三蔵は目の前で優雅に紅茶を飲む天蓬を睨んだ。 「おや、あまりに美味しすぎて言葉になりません?ちゃんとミルまで使った貴方好みのブラックなんですから文句はありませんよね」 言外にミルクや砂糖の使用を禁止し、加えて残したら許しませんと顔に書いて天蓬は美しく微笑む。どうやら先程の賭けの一件も天蓬の怒りに油を注いだようで、墓穴を掘った三蔵はげんなりしてレモンパイを口に入れる。と先程の苦味も逆に引き立てるために必要だったと思うくらいレモンパイは美味しく、三蔵は瞠目して八戒を見た。 「お気に召していただけましたか?」 「あぁ」 「それは良かったです」 ふわりと微笑んだ八戒は先程の天蓬とはまさに対称的で、天使の笑顔を前に三蔵の眉間から皺が消える。 「ちょっと三蔵、レモンパイがあまりに美味しいからってそんなに八戒の事を見つめないで下さい。これ以上減ったらどうしてくれるんですか?」 「天蓬、僕減っちゃったんですか?」 ティーカップを持った八戒が小首を傾げると、天蓬は首を横に振る。 「いいえ、僕の神経が磨り減るんです」 「お前がそんなタマか」 現にやられたら3倍返しどころか5倍返しの報復をしている奴の、どこにそんな殊勝なところがあるのか。三蔵は聞いて呆れると言い返す。 「失礼ですね、ケダモノの貴方に言われたくはありません」 「貉がよく言うな」 「勝手に同じ穴に入れないで下さい」 天蓬と三蔵のやり取りは阿吽の呼吸のように絶妙で、しかも二人は口直しと言わんばかりに同時にレモンパイを食べる。それを見ていた八戒は笑みを湛えて呟いた。 「お二人って本当に仲が良いですね」 「ぐっ」 「ゲホッ」 八戒の爆弾発言の直撃を食らった二人は、レモンパイを喉に詰まらせ咳き込む。 「ど、どうしました?二人共急に咳き込んで…大丈夫ですか?」 知らずに爆弾投下した八戒は急いでタオルを持ってくると二人に手渡す。そして心配そうに天蓬の背中をさすった。 「八戒ひどいです。こんな男と仲が良いなんて貴方に言われたら、僕お天道様に顔を向けて外を歩けません」 「何だそれは」 まるで人道を外れたような言い方に、ようやく咳の収まった三蔵が掠れた声を出す。 「だってそうでしょう。選りによって八戒にそんな誤解をされるなんて、生き恥を晒すようなものじゃないですか。それとも 三蔵、貴方は僕と仲良しのワッペンを付けられても良いんですか?」 「ごめんだな」 「という訳なんですよ、八戒。これで判ったでしょう?僕と三蔵は友人であっても決して仲良しな訳じゃないんです」 天蓬に両手を握られ哀願された八戒は頷くしかなかったが、きっと二人は照れてしまうのだと思った。 「忘れ物ですよ」 洗い終わったシャツを着た三蔵が玄関で靴を履いていると、天蓬が顔を出し何か投げてよこす。片手で受け取って見ればそれは100円ライターで、三蔵はすぐにジーンズのポケットに入れた。 「忘れ物をしたからといって、もう一回取りに来る姑息な手段を使われたら適いませんからね」 「穿ちすぎだ。単に忘れただけだろ」 「昨日までならその言葉、信用できたんですけどねぇ」 「なら、俺があいつの事吹聴すると思ってんのか?」 「その心配じゃありませんよ」 片眉を上げた三蔵に天蓬はにべも無い。どういう意味だと口を開きかけた三蔵の視界に、八戒が顔を覗かせるのが見えた。天蓬もそれに気付いて振り返る。 「どうしました?八戒」 「あの、お邪魔しちゃってすみません。三蔵さんにお土産を渡そうかと思って」 「大丈夫ですよ。その白い箱ですか?」 八戒が持っているケーキ用の箱を見て、天蓬は手招きする。 「ええ、食べきれなかったレモンパイなんですけど、もし良かったらと思って」 控えめに差し出された白い小さな箱を、三蔵は受け取る。 「悪いな」 「いいえ、良かったら又食べに来て下さい」 笑みを浮かべた八戒の言葉に、三蔵は目を瞠り天蓬は目を剥いた。 「だ、そうだ天蓬」 「え?あの、いけなかったでしょうか」 唇の端を吊り上げた三蔵と不安そうにする八戒に見つめられて、天蓬は髪を掻き上げる。 「いえ、良いんですよ八戒。貴方のお願いを聞かない訳にはいきませんから。でもその代り僕のお願いも聞いて貰えますか?」 「はい、何でしょう?」 真剣な顔つきになった天蓬に、八戒も神妙な面持ちになる。 「三蔵を僕の親友だなんて絶対言わないで下さいね。八戒にそんな事言われたら僕、泣いちゃいますから」 「は、はい」 切実に訴える天蓬と、迫る勢いに頷く八戒を見て三蔵は、まだ仲良しと思われているのかと頭を抱えた。 「天蓬」 「はい?」 「今日は楽しかったです」 「良かったですね。僕も八戒の楽しそうな顔が見れて嬉しかったですよ」 「でもさすが天蓬のお友達ですよね、三蔵さんって」 「……どの辺がですか?」 お友達に過剰反応した天蓬だったが、眉を上げるにとどめ八戒を促す。 「初対面でいきなりキスするところと、凄く綺麗なところです。天蓬のお友達の方って皆さんそうなんですか?」 八戒がクスクス笑うと今まで目を閉じていた天蓬は薄目を開ける。 「八戒、類友とか言うのでしたら、僕泣き出しちゃいますよ」 「あ、それは困ります。ならこんなのはどうですか?」 「……う」 八戒の手が僅かに動くと、天蓬の首が竦む。 「ふふ、天蓬ってここ弱いですよね」 楽しげな八戒に天蓬は恨みがましい目を向ける。 「後で憶えておいて下さいね、八戒。この後交代だって分かってます?」 「…そうでした。でもこうしてる時の天蓬ってすごく可愛いんですもん」 「貴方の方がずっと可愛いって事、後でじっくりと教えて差し上げます」 「お手柔らかにお願いします。はい、反対ですよ天蓬」 八戒は動かしていた手を止めると、耳に軽く息を吹きかける。すると天蓬は肩を震わせて息を詰める。こんな仕草が可愛いのにと八戒が目を細めていると、眉根を寄せた鳶色の瞳と目が合った。 「どうしました?天蓬。耳掃除の続きが出来ませんよ」 綿棒を持った八戒が、自分の膝上で仰向けになった天蓬を覗き込んだ。 「だって今日の八戒意地悪です。もしかして怒ってます?」 「何を怒るんですか?」 逆に問い返された天蓬は口を噤んでしまう。その様子に八戒は天蓬の黒茶色の髪を優しく撫でた。 「何か気にしている事があるんですね」 八戒はそのまま髪を梳くようにして撫で続け、責めるのではなく見守るような柔らかさで天蓬を見つめる。翠の瞳の前に天蓬は陥落した。 「ある意味これは拷訊ですよ、八戒。負けました。キスに怒ってるのかと思ったんです」 観念した天蓬が白状すると、八戒は撫でていた手を止めて翠の瞳を大きくした。 「僕が?どうしてです?」 「何となく機嫌が悪いような気がしたんです」 「そんな事ありませんよ、驚きはしましたけどね」 そう言うと八戒は再び天蓬の髪に指を絡ませる。と急にその手を掴まれた。 「それならもう一回しても構いません?」 「ええ、良いですよ」 下から伸ばされた手に頬を撫でられ、八戒はふわりと微笑む。そのまま導かれるように頭を下げた八戒は、ふと思い付いて鳶色の瞳に訊ねた。 「でもどうしてわざわざ訊いたんですか?」 「 ――― 三蔵と同じに思われたくないですから」 八戒の零れた笑みは天蓬の唇へと消えていく。最初の時とは違い、緩やかに開かれた唇から自然と舌が差し出され絡み合う。 いつしかお互いを抱き合うようにして、2人はゆっくりと長いキスをしていた。 |
top/back/next |
2005/05/17