葡萄酒も3本目になると三蔵の白皙の顔にうっすらと朱が差してくる。が他二人の顔色は依然として変わらない。
 「これは今年の新酒だそうですよ」
 そう言ってにこやかに葡萄酒を注ぐ八戒の顔を三蔵はじっと見つめた。
 「やはり枠か底なしなんだな」
 「どうでしょう?とことんまで飲んだ事ないので判りませんが、記憶を失った事はないですね」
 「僕と八戒が飲み比べたら、それこそ樽が必要なんじゃないですか?」
 普段とまったく変わらない天蓬も三蔵に同意する。
 「樽酒ですか?お美味しそうですね。僕飲んだことないんですけど」
 「じゃあそれは花見の季節にでもしましょうか?取り敢えず今はこちらで」
 天蓬がグラスを掲げたので、合わせるように二人もグラスを上げる。
と思ったより酔いが回っていたのか、三蔵のグラスが揺れて赤い飛沫が自分のシャツに付いてしまい、見るみるうちに滲んでいく。それに真っ先に反応したのは本人ではなく八戒だった。
 「大変!天蓬白ワインありましたよね?すみませんけど、すぐに持ってきて貰えますか?」
 「え、えぇ良いですよ」
 白ワインが何故必要なのか訊かずに、天蓬は八戒の言葉に従ってすぐにキッチンへと向かう。八戒は三蔵の腕を取ると、すぐにティッシュを当てた。
 「三蔵さん、これから応急処置として白ワインで染み抜きしますけど、すぐに洗った方がいいので、シャツを脱いで貰えませんか?」
 八戒の心配そうな顔に、三蔵は別に構わないという言葉を置き忘れる。
 
 酔っていたのだろうか
 三蔵の視界から自分だけを映す、翠の瞳以外の物が消える
 大きく瞠られる翠の瞳はまるで深い森にある湖のようで、そこに波が浮き立つのは判ったが、引き込まれる感覚に抗う事が出来なかった。

 「………え」
 八戒は驚きで瞳を閉じる事も出来ず、三蔵に口付けられていた。天蓬とは違う綺麗な顔立ちと、あまり見ない紫の瞳に見惚れていた矢先の事。唇に吐息がかかり塞がれるのを、八戒はまるで夢の中の出来事のように感じていた。
 「何してるんですか!三蔵」
 天蓬の怒声と共にガラスの砕ける音がして、三蔵は我に返り八戒から離れる。
 「いい度胸です、三蔵。馬に蹴られる覚悟は出来てますね?」
 ひどく柔らかい丁寧な口調は却って凄みが増し、天蓬はゆっくりと割れたボトルの欠片を拾い上げる。そして見た者全てが凍りそうな凄艶な笑みを浮かべると、三蔵に歩み寄る。とそれまで呆然としていた八戒が我に返った。
 「危ないです天蓬!ガラスが割れて落ちているんですよ。動かないで下さい」
 八戒の言葉はまるで呪法のように天蓬の歩みをピタリと止めた。
 「そのままでいて下さい。すぐに片付けますから」
 これも危ないですから、と言って去り際に天蓬の持つ凶器も没収すると、八戒は急いでリビングを出ていく。気勢を削がれた天蓬だったが、三蔵と目が合った途端怒りが瞬間沸騰し、ラグの上は四角いリングと化してゴングが鳴った。
 「ちょっと三蔵、どういうつもりですか?馬に蹴られるのはご免被ると言ったのは確か貴方でしたよね。今更思い出しても無駄ですけど、レポートが遺書になるのは当然覚悟の上ですよね。もし忘れたと言うんでしたら、貴方本当は悟浄なんじゃありません?その背中に見えないジッパーがあって、実は三蔵の着ぐるみを着てるんでしょう?あ、でもそれは悟浄に対して失礼でしたね。だって悟浄は電光石火であっても、ちゃんと口説き落とした合意の上ですから。誰かさんみたいに口下手を理由に、口より先にあんな手を出す人じゃありませんからね。まさか出したのは手じゃなくて口だとでも言うんじゃないでしょうねぇ。僕の心は宇宙並に広いですから、辞世の句ぐらいは聞いて差し上げますよ?」
 八戒の言葉を守ってその場を一歩も動かないまま、天蓬は怒涛のラッシュ口撃を浴びせる。しかも三蔵とは馬の合わない悟浄まで引き合いに出した痛烈なパンチだ。沈黙のガードを強いられた三蔵は、隙をついて一撃を放ってみる。
 「シャツを洗うと言ったから礼をしただけじゃねぇか」
 「へぇ、随分と変わった辞世の句ですね。まさかこの期に及んで弁解してる訳じゃないですよね?そんな悟浄のような習慣が貴方にあったなんて、今の今まで知りませんでした。つまりは貴方の汚れたシャツを洗えばもれなく貴方のキスがついてくる、とそういう訳ですね。初対面の人間に対する感謝のキスは頬ではなく唇にするのが貴方流だと、そう言いたい訳ですね。成程、今後が貴方にあるか甚だ疑問ではありますが、もしあるとするならば、じっくりと経過観察してみたいですねぇ」
 「そんなに言うんならお前はそうした事は絶対ない、と言い切れるんだな?」
 「……同じ穴の貉とでも言いたいんですか?」
 咄嗟に放った一撃が意外にもカウンターで決まり、三蔵は立て直しを図る。一方予想外の反撃に驚いたものの、ダメージの少ない天蓬は再び三蔵をコーナーに追い詰めようと鳶色の瞳を眇める。
 とその時扉が開いてタオルを持った八戒が戻ってきた。
 「天蓬、三蔵さん。替えを用意しましたから、着替えて貰えませんか?すぐに洗わないと染みになっちゃいますので」
 零れたワインを拭き取るためタオルが使われ、試合は決着のつかないまま強制終了となってしまう。レフリーならぬ八戒は、三蔵にはシャツを、天蓬にはパンツの替えを渡すと、足元に砕けたガラスを拾い始める。天蓬は受け取ったパンツを見てから足元を見た。
 「八戒、僕もですか?」
 「ええ、裾に跳ねちゃってますから穿き替えて下さい。すぐに洗いますから」
 「本当に八戒ってよく気が付きますよね」
 すぐに着替えると思っていた天蓬が逆に自分の前にしゃがみ込んだので、八戒は不思議に思って顔を上げる。すると何故か天蓬は眼鏡を外し、もう一方の手が伸びてきて指に顎を取られたかと思う間もなく口付けられた。流れるような速さに八戒は再び目を開けたまま、固まってしまう。しかもいつもならすぐに離れる唇が、角度が変わり舌をなぞられ驚いた拍子に、舌を絡め取られてしまう。そのまま舌を撫でられ軽く吸われると、体が震えて八戒は思わず目を閉じる。と反射的に体に力が入り、指先に固い物が触れた。
 「
――― おい」
 地の底から響いてくるような不機嫌極まりない声がして、天蓬はようやく八戒から離れる。見ればいつもは澄んだ湖のような緑の瞳がとろりと甘く溶けていて、天蓬は満足そうな笑みを浮かべると、もう一度八戒に触れるだけのキスをした。するとそれ以上の行為を遮るように、再び三蔵の声がする。
 「ガラスで指を切ったんじゃないか?」
 「え!?大変、八戒見せて下さい」
 まだぼうっとしている八戒の手を慌てて取ると、確かに白い綺麗な指からは赤い血が流れていた。八戒を傷つけたガラスの破片を取り上げた天蓬は、人差し指に出来た傷口をじっと見つめる。
 「そんなに深くはないみたいですけど、一応消毒しときましょうか」
 そう言って手首の方まで流れた血に天蓬は唇を寄せた。
 「天…蓬?」
 キスの余韻で八戒は、手首に口付けられるのをただ眺める。天蓬は伝い流れる血を舌で丁寧に舐め取ると、手の平に口付けてから傷のある指をそのまま口に含んだ。指の間から傷口に向かって舌を使い血を拭い、それ以上洩らさぬよう吸い上げる。
 「……あ」
 感触に思わず声を上げた八戒の頬にほんのりと朱が差して、天蓬は指を咥えたまま視線を合わせる。と八戒の頬が一層赤くなった。
 「あの…天蓬、くすぐったいです」
 指の付け根を舌で撫でられ八戒の手が震えて、天蓬はようやく唇を離した。
 「すみません八戒、僕の不注意で貴方に怪我をさせてしまって。今のは応急処置ですから、ちゃんと手当てしましょうね。救急箱はどこでしたっけ?」
 「えっと、クロークの中です」
 天蓬は怪我した手を持ったまま、八戒を伴いリビングを出る。去り際に三蔵を一瞥して。

 ――― あの野郎 ―――
 悪意にみち満ちた視線を受けた三蔵は、眉間に皺を作り煙草を取り出して大きな紫煙を吐き出す。
礼と言ったのを逆手に取った天蓬は、自分の目の前で実践してみせたのだ。しかもディープキスに指フェラ付きという3倍返しで。天蓬を怒らせると後が怖いと捲廉が言っていたのを実体験する羽目になり、三蔵はようやくその意味を理解した。あの様子では八戒に怪我をさせたのも計算の内かもしれないと、三蔵はあっという間に短くなった煙草を揉み消し、2本目の煙草を咥える。勢いに任せて紫煙を吐いた三蔵は、自らその可能性を否定した。凍てつくような視線を思い越せば、天蓬の執着と過保護ぶりが窺えて、わざと傷つけたとは考えにくい。
 ――― らしくねーな ―――
 本気の瞳をした天蓬と自分の思考に呆れて三蔵は、煙草を唇から離して灰を落とす。
何故とっさに礼と言ったのか、それよりもどうして口付けてしまったのか。
三蔵は目の前にあるサラダを見ながら、わざわざ作ってくれた人間を思い浮かべる。
 
 あの瞳に酔わされたとしか言いようがない
 引力のように惹かれ気付いたら口付けていた
 本当は理由などないに等しい
礼と言ったのは言い訳に過ぎず、天蓬には見透かされていた気がする。
更には自分すら判らない理由を天蓬は掴んでいる節があり、三蔵は不機嫌に輪をかけて煙草を消費する。何故こんなにも早く煙草が灰になるかは気付かないまま。



 一方その頃、天蓬は自室で八戒の指の手当てをしていた。傷口を消毒すると化膿止めの薬を塗り、ガーゼと包帯を手に取る。
 「天蓬、そんなにしなくても大丈夫ですよ。絆創膏で十分です」
 「だめです。八戒の大丈夫は当てになりませんから、この位で丁度いいんです」
 天蓬は譲らず八戒の手にガーゼを当て包帯を巻き始める。
 「すみません天蓬。でも包帯巻くの上手ですね。指とかって難しいのに」
 「僕のせいですからね、ちゃんと責任取らないと。本当にすみませでした」
 天蓬は包帯を巻き終えると八戒の頬にキスをした。すると八戒がくすくすと笑い出す。
 「どうしたんですか?天蓬。今日はやけにキス魔ですね。さっき舌が入ってきた時は、流石に僕もびっくりしました」
 「あれは三蔵が悪いんです。貴方にキスしたのを礼だなんて言ったんですから。それならいつも貴方といる僕が、もっとたくさんのお礼をするのは当然でしょう?」
 少し剥れたように言う天蓬に八戒は目を細める。
 「感謝しているのは僕の方ですよ、天蓬。貴方に出会ってからずっと今まで、それこそ数え切れないくらいです。こうしてここに居られるのは貴方のお陰なんですから」
 「僕が好きでしている事ですよ」
 そう言って天蓬は八戒の頬を両手で包むと額に口付ける。
 「さっきのキスは指と同じで消毒の意味も含めて、という事で。あのままなんて業腹ですから」
 「はい。でも結果的に天蓬は三蔵さんと間接キスした事になりますよね」
 「う。嫌なとこ突いてきますねぇ八戒。でもそのままにしとくよりはよっぽどマシですよ。ところで貴方は三蔵にされて嫌じゃありませんでした?」
 頬を両手で包まれたまま天蓬に覗き込まれて、八戒はハタと思い返す。
 「天蓬とは又違う綺麗な人だなぁ、と思って顔を見ていたらキスされてたので嫌だと思う間もなかったです。そう言えばこれって貴方の時と同じパターンですよね。最初にここで目覚めた時、既にキスされてましたから。眠り姫の気分でした」
 「ええ、僕も王子様の気分でした。だって本当にキスして目覚めるとは思いませんでしたから。おとぎ話も侮れないですね」
 そう言って天蓬は八戒の鼻先にキスを落としてから、頬を包んでいた両手を離した。
 「天蓬、手当てありがとうございました。三蔵さんをお待たせしちゃってますから、早く戻ってデザートを食べましょう」
 「三蔵なんて待たせておけば良いんです。もうデザートは食べちゃってますからね」
 「え?三蔵さんって断りもなく勝手に食べちゃう方なんですか?」
 「……ある意味そうですね。但し食べたのはパイじゃなかったですけど」
 天蓬が唇に人差し指を当てると、八戒はきょとんとした顔になる。
 「こんなのデザートになりますか?折角パイも焼いたので、食べていただきたいんですけど」
 「大丈夫です。それは別腹ですから、三蔵はちゃんと食べてくれると思いますよ。あれで割と甘いものが好きなんですから」
 「天蓬って三蔵さんの事良く判ってるんですね。仲が良くて羨ましいです」
 「え?」
 意表を突かれた天蓬は、突っ込み所が満載すぎて逆に迷い、すぐに次の言葉が出てこない。
 「じゃあ、僕飲み物の用意をしますから、天蓬も着替えたらリビングに来て下さいね」
 笑みを残して部屋を出た八戒を、天蓬は呆然と見送る。
 
 羨ましいは一体どちらにかかるのか
 自分かそれとも三蔵か
 どちらにしろ八戒の心情が吐露されて、動揺している自分に驚く。
 「ただのお気に入りじゃなくなってますかねぇ。それにしても僕と三蔵が…」
 その先のセリフを反復した天蓬は一瞬で顔色を変えると、目にも止まらぬ速さで着替えてから部屋を飛び出す。
三蔵と仲が良いという誤解を早急に解かねばならず、その上あんな事があったばかりの三蔵と八戒を二人きりにさせる危険性に気付いたのだ。
  矢のような勢いでリビングの扉を開けた天蓬は仁王立ちのまま絶句した。



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2005/05/04