「あやうく貴方と関節キスですよ」
 「ゲホッ…」
 リビングで煙草を吸っていた三蔵は、入ってくるなり浴びせられた天蓬の一言でむせ返った。
 「…なっ……天…」
 「未遂です。でも僕としては、八戒に口直しをしてもらいたかったですけどね」
 向かいの椅子に乱暴に座ると、天蓬も煙草を取り出す。勢いよく紫煙を吐き出す天蓬は不機嫌で、こんなにもあからさまなのも珍しいと三蔵は煙に目を眇める。
 「まったく大誤算ですよ。貴方がこれ程八戒を気に入るなんてね」
 「人のせいにするな」
 その言葉に天蓬は、眼鏡の奥で鳶色の瞳を細める。
 「どういう事です?」
 「とぼけるな。それだけなら俺を締め出せば済むはずだ」
 「八戒が貴方を気に入ったとでも?」
 「さぁな。それは判らんが、お前の態度には腹が立つ」
 「嫌ですねぇ三蔵、嫉妬ですか?見苦しいですよ」
 「誤魔化すな、八戒に対する今日の態度だ。腫れ物でも扱うようだった。何かあったのは明白だ。案外あいつの体調が悪いのもそのせいじゃねぇのか?」
 八戒の様子がおかしいと気付けば、天蓬も又そうであるとすぐに判った。以前と比べて八戒に触れる回数が極端に減っていて、視線も微妙にずらしている。どこか一歩置いたような態度は不自然で違和感を覚えた。そのためなのだろう。八戒に対してあれだけ過敏に反応していた天蓬が、体調不良になった八戒に気付くのが遅れていた。
 「……驚きました。貴方、八戒の事かなり本気なんですね」
 目を丸くした天蓬は、たぬきの灰皿に灰を落として三蔵に向き直る。
 「実は先日八戒にお願いをされて断っちゃったんです。やっぱりもったいなかったかなぁ、と」
 今度は三蔵が目を瞠る番だった。指に挟んだ煙草の先端が知らずに落ちる。
 「鴨葱を食わなかったのか、お前。……それであの態度か」
 腑に落ちた三蔵は呆れ顔をしたが、笑い飛ばさなかった。何しろここまで自分を曝け出す天蓬を初めて見るのだ。いかに八戒の事を大事に思っているか、そして余裕がないかが判る。しかし、よくよく反芻して三蔵は眉間に深い皺を刻んだ。
 「貴様、自慢してやがるな」
 「やっと判ってもらえました?貴方も結構盲目タイプですねぇ」
 人の悪い笑みを浮かべた天蓬は、いつもの食えない態度を復活させている。一瞬見せた落ち込んだ様子は、演出のように思えてきて三蔵は舌打ちをした。しかし吐露された内容に騙されるつもりはない。
 「俺は恥をかくタイプじゃねぇからな。据え膳は食う主義だ」
 「そういう事は八戒にお願いされてから言って下さい。僕は貴方みたいなケダモノじゃありませんからね」
 「なら、もしそうなったら文句はねぇな」
 「あるに決まってますよ。手放すなんて冗談じゃありません」
 「おまえ矛盾してねぇか?だったら何で…」
 「僕は全部欲しいんですよ。何もかも、です」
 見たことのない鳶色の瞳に三蔵は息を呑む。強く鋭利な視線は鋼鉄さえも焼き尽くすような温度を感じさせ、その美貌と相俟って危険な色を帯びている。度を越した美しさにそのまま見惚れることが出来ないのは、怒りというよりも苛立ちを感じたからだ。それは自分に向けられたものだろうが、それだけではないように三蔵には思えた。天蓬自身へと向かうものなのか、それとも八戒をも含んでいるのかは判らない。けれど八戒に拘ると自分の中に不可解な衝動が走るように、天蓬にも制御出来ない感情が起こるのだろうかとぼんやり思う。
 いつの間にか長くなっていた煙草の灰に気付いて、三蔵はたぬきの灰皿の端を叩く。
 「おまえ、人の事言えねぇな」
 「同じだなんて冗談じゃありませんよ。僕はケダモノじゃありませんから」
 「いつ丸呑みしようと構えているヤツが何言ってやがる」
 「貴方には判りませんよ。だって八戒はすごく可愛くて本当に綺麗なんです。流石の僕も理性が切れそうになるくらいにね」
 そう言って天蓬は二本目の煙草に火を点ける。三蔵もそれに倣うよう短くなった煙草を押し潰すと、新たな煙草を咥える。吐き出された紫煙は天井に昇るが、どこか重く室内に漂う。
 「らしくねぇな」
 「……かもしれませんね」
 二本目の煙草をあっという間に吸い終えた三蔵が立ち上がる。
 「次はパフェだな」
 「そうですね。メインのリクエストがあれば聞いておきますけど?」
 「考えておく」
 三蔵はリビングを出ると、そのまま玄関へと向かった。




 コンコンと小さな音が扉から聞こえる。
 「八戒、入りますよ」
 ほうろうの洗面器とトレイを持って天蓬は部屋へと入る。歩くたびに水の中でカラカラと氷の踊る音が涼やかに小さく響く。ナイトテーブルの上に持ってきた物を置くと、ベッド脇に椅子を持ってきた天蓬は、そっと八戒の様子を窺う。
 「天蓬……」
 八戒は眠っていなかったようで、閉じていた瞼がゆっくりと開かれた。翠の瞳は熱のせいか涙を湛えてうっすらと潤み、頬は赤味を帯びている。天蓬は前髪を分けると、額の上に手の平を置いた。
 「まだ高いようですね」
 天蓬は眉を曇らせ洗面器の中にあったタオルを絞ると、八戒の額にそっと乗せる。
 「気持ちいいです、天蓬」
 うっとりと目を閉じた八戒の乱れた髪を直した天蓬は、氷水を手に浸しそのまま火照る頬を包むように触れる。八戒は自分の手を布団の中から出すと、天蓬の冷たい手の上に重ねて頬を寄せる。冷えた手は八戒の熱い頬と手に挟まれてすぐに温まったが、重なった手はそのまま動かない。今まですれ違っていた時間を取り戻すように手だけ触れ合う静かな時間が過ぎてから、やっと天蓬が口を開いた。
 「八戒、さっき食事をしましたから薬を飲みましょう。起きられますか?」
 「…はい」
 「無理ならそのままでもいいですよ。口移しで飲ませてあげます」
 「大丈夫ですよ」
 笑みを零した八戒がゆっくり上体を起すと、天蓬は残念ですと言いながら手を添えて手伝う。そして氷水と一緒に持ってきたものを天蓬が手渡すと、八戒の翠の瞳が丸くなった。
 「天蓬、これって…」
 「風邪薬の特効薬といったらこれでしょう。速攻温まりますよ」
 そう言って天蓬は片目を瞑り、マドラーをゆっくりと回して耐熱ガラスのコップに浮かんでいたバターを溶かす。ホット・バタード・ラムにはかすかなシナモンの香りが漂っていて、手渡された八戒は初めて飲む風邪薬にそっと口を付けた。甘みのあるアルコールの味にバターが溶けてコクの増した味が口の中に広がり、飲み込んだ液体は八戒の体に温かさを染み渡らせる。
 「美味しい…です」
 「でしょう?おかわりが欲しかったら遠慮なく言って下さいね。たくさん飲んで、汗をたくさんかけばすぐに治りますよ」
 微笑んだ天蓬は八戒の肩に上着を掛ける。間近にあるいつもの優しい鳶色の瞳を見つめて、八戒は手の中のホットカクテルを両手で包むようにしてゆっくりと飲んだ。
 「敢えて難点を上げるとしたら色ですか。美味しい良薬なんですけどねぇ」
 わざとらしくも瞳を眇めた天蓬に八戒が微笑む。何故ならそれは琥珀のような金色をしていたからだ。天蓬が作ってくれた金色に輝く薬は、八戒の体の芯から指先までゆっくりと広がり更に熱を高めていく。やがて空になったコップを天蓬が受け取る頃には、八戒の頬は火照って真っ赤になっていた。
 「後は睡眠ですね」
 子供のような林檎の頬の八戒に微笑んで、天蓬は再び横たえさせて上掛けを掛ける。
 「寒くないですか?毛布もこの上に掛けましょうか?」
 「僕は大丈夫ですから、天蓬も寝てください」
 「貴方が寝るのを見届けたらそうします。それとも一緒に寝ちゃったほうが眠れます?」
 「今日はダメです。だってもし風邪ならうつっちゃいますし」
 「あ、寂しい」
 「ね?天蓬お願いです」
 「判りました。今日は我慢します。そうだ、三蔵がパフェを食べに又来るそうです。その時までにメインを考えておく、と言ってましたよ」
 「聞いておいてくれたんですね。ありがとうございます、天蓬」
 真っ赤な頬のまま熱で潤んだ瞳を細めて、子供のように嬉しそうに微笑んだ八戒に、天蓬は汗ばんだこげ茶色の髪を梳くようにして撫でた。
 「何かこう…悔しいですねぇ。八戒、もう一回おまじないしていいですか?」
 天蓬は熱い頬を両手で包むと、八戒の返事を待たずに口付けた。熱でぼうっとした八戒は啄むようなキスを受けているうちに、風邪という単語を思い出して天蓬の肩に手を置いた。けれど逆に強い力で抱き込まれて唇を舐められる。
 「…んっ………」
 驚いた時には舌を絡め取られて深いキスになっていた。熱に浮かされて頭も働かず、天蓬に促されるままキスを続けるうちに、八戒はこうして深いキスをするのは月見以来だと気付いた。合わさる唇、息遣い、匂い、触れ合う体温を全身で感じて、八戒はゆるゆると手を上げて天蓬にしがみ付く。もう、どうしようもない。離れることなど頭から消え去り、息が続かなくなるまで、キスは長く続いた。
 「……大丈夫、です?」
 ぐったりとさせた張本人のくせに、八戒の頭に絞りなおしたタオルを乗せながら天蓬は心配そうに呟いた。目を閉じて荒い呼吸を続ける八戒の目尻に涙の雫を見つけた天蓬は、指でそっと拭う。すると濡れた翠の瞳が現れた。
 「天ぽぅ…こそ…風邪…うつ……ら…すみま、せん」
 「いいんですよ。僕にうつったら貴方が早く治って、おまじないが効いた事になりますから」
 まだ苦しそうな息をする八戒の鼻先にキスをした天蓬は、再び手を冷やして真っ赤な頬に触れた。冷たい手に目を閉じた八戒は頬を寄せてもう一度手を重ねる。と天蓬は優しく微笑んで緩く指を絡めた。
 「お休みなさい八戒、良い夢を」
 触れ合う手に安心したように八戒は眠りに落ちていく。

 その晩、天蓬は自分のベッドに戻らなかった。





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2008/03/15