三蔵は自宅のマンションに帰り着くなり安堵の溜息を吐いた。窓から見えるどんよりと垂れ込めた灰色の雲からぽつぽつと雨が落ち始め、ガラスに透明な雫が付き始めていたからだ。
 (ったく、最近の天気予報は当てにならねぇな)
 30%の確率で降り出した雨を見つめて、濡れずに済んだ筈の三蔵は舌打ちをする。本日傘を持って出掛けなかったため、急ぎ足で帰って来たせいである。余計な労力を使ってしまった体を労うために先ずは一服と、三蔵はインスタントコーヒーを淹れてソファに沈んだ。2本目の煙草が半分位になった頃、着信音が鳴り、三蔵は緩慢な動作でバッグから携帯電話を取り出す。ディスプレイには天蓬の名前が表示されており、三蔵が通話ボタンを押すなり、スピーカーからはいつもと違う声が聞こえてきた。
 「三蔵!!八戒そっちに行ってませんか?」
 大音量と切羽詰った口調はいつもの天蓬の声とは思えないものだった。一度耳を抑えて耳鳴りをやり過ごした三蔵は、内容を反芻して眉を顰める。
 「来てねぇよ。大体場所を教えたのか?」
 「いえ、知らない筈です。僕も教えてませんから。でも万が一って事もありますから」
 「おかしくねぇか?そもそも外には出られねぇんじゃなかったのか?」
 「正確には出たがらない、ですね。でも今日家に帰ったら何処にも八戒が居ないんです」
 ひたすら動揺を押し隠そうとする天蓬の硬い声は、逆に非常事態である事を三蔵に悟らせた。受話器越しに膨らむ不安が押し寄せて来て、三蔵の胸の内にも広がっていく。
 「あいつが自分で出て行った可能性は?」
 「それも否定出来ません。でもそれなら一言あっても良いかと思うんです。八戒の性格を考えれば」
 「確かにな」
 八戒が天蓬の所に居るようになった詳しい経緯は知らないが、何度か会った程度に八戒の性格は知っている。用であれ事情であれ、あれほど懐いていた天蓬に一言もなく出て行くとは確かに考えにくい。しかし、もしそうだとすれば…
 「出たいとも言ってなかったし、今までまったく出られなかったんですよ?もしかして攫われたのかもしれないと思うと…。だから貴方も八戒を探して下さい!彼の顔を知っているのは僕以外、貴方しかいないんです」
 「分かった。先ずそっちに行く」
 即答して電話を切った三蔵が顔を上げると、窓から見える雨は先ほどより強くなっていた。



 三蔵と天蓬の住むマンションは歩いて行ける距離ではあったが、互いに使う最寄り駅は違う程度に離れている。携帯電話をジーンズのポケットに突っ込んだ三蔵は、駅には向かわず、天蓬のいるマンションへと徒歩で向かった。行き交う人々は傘を持っていない者も多く、皆一様に早足で屋根のある所を目指している。その中で傘を差した三蔵は、透明なビニール越しに紫の瞳を眇めて急ぎ足の人々を見つめる。睨むような鋭い視線で辺りを見回していた三蔵は、ふと気付く。どんな服装だったか、という基本的な事すら聞いていなかった自分に。冷静なようでいて自分も平静ではなかったらしい。
 (くそっ)
 ビニール傘に当たる雨は時が経つにつれて煩くなり、ただでさえ探しにくい状況を益々困難にしている。思わず舌打ちをした三蔵は、目に付いたコンビニの軒下に入り同じく雨宿りをしている人々と並んだ。その中に八戒がいない事を確認してから、携帯電話を取り出した。コールを鳴らせばすぐに電話は繋がる。
 「見つかりましたか?」
 「いや、八戒が着ていた服を教えろ」
 「ああ、そうですね。上は白シャツで下は薄いベージュのチノパンだったと思います。ところで貴方、今何処にいるんですか?」
 「角のコンビニだ。お前は何処だ?」
 「商店街に向かってます。あそこなら常に人がいるので、お店の人が八戒を見てないか聞き込みをするつもりです。買い物に出た可能性も考えて、スーパーにも行ってみますけど」
 「それで居なかったら捲廉や悟浄も呼び出せ。お前なら一声かけりゃもっと集まるだろ」
 「そのつもりでしたよ。人海戦術の方がこの場合効率的ですからね。あ〜、こんな事なら勿体ぶらずに八戒見せびらかしとくんでした」
 「俺に見せた事すら後悔してるヤツの言葉とも思えんな」
 「八戒が傍にいてくれるなら手段は選びませんよ。じゃ、何かあったら連絡下さい」
 「……分かった」
 電話を切った三蔵は、すぐに傘を開いて再び降りしきる雨の中へと足を踏み出した。
 天蓬が探す方向とは別のエリアを頭の中で描きながら歩いていると、住宅地の中に自分が立っているのに気付く。この辺りは店などもなく、人家では雨宿りするのに不向きである。八戒がいつ居なくなったか聞いてなかったが、天蓬が家に帰った時間は恐らく自分と同じ位だろうと思われる。だとすれば傘は持っていないだろう。人通りも少ないこの辺りは可能性が低いだろうと考えた三蔵は、住宅地を抜けるために再び歩き出す。少しくらいなら問題ないが、ずっとこの雨に打たれ続ければ風邪をひくかもしれない。何しろ先日も熱を出したばかりだ。ずぶ濡れでも早く見つけ出さなければと焦る一方、天蓬が言っていた言葉がランダムに浮かぶ。出たがらない八戒、攫われたかもしれない、そして拾ったという尋常でない言葉。考えてみれば八戒が何者なのか自分は全く知らない。何処から来たのか、何故天蓬と一緒に住んでいるのか、天蓬とどういう関係なのか…。不安と焦りからきた筈の気持ちは、今まで考えてもみなかった事にいきあたり、三蔵の歩みもいつしか止まる。他人に対してあまり興味が持てず考えた事もなかったが、正直ここまで深入りしているのは八戒だけである。姿が見えない不安だけではない、苛立つ気持ちが底に見えて三蔵はポケットに手を突っ込んだが、生憎煙草は家に置いてきてしまった。舌打ちをした三蔵はいつの間にか下がっていた顔を上げて辺りを見回す。兎にも角にも八戒を探す事が最優先である。この苛立ちや不安を取り除くためには、八戒を探しださなければ治まらない事だけは分かっている。会えばまた違う気持ちも現れるのだが、それを考えるのは後回しだ。気持ちを切り替えて三蔵は、今立っているT字路から右に行くか左に行くか考えた。左に行けば少し大きな通りへと行ける筈で、右に行けば更に住宅地の中へと入る事になる。左に足を向けた三蔵だが、少し考えてから右の方向へ踵を返した。


 早くなる雨足の中、一人も行き会わない住宅地を三蔵は右に折れ左に折れ、路地を奥へ奥へと進む。やがて常緑樹の長い生垣が見え始め、三蔵はそこに向かって足を速める。そして車両進入禁止のパイプをすり抜けて、住宅地の端にあった公園へと入っていった。雨に打たれるジャングルジムやぶらんこ、シーソー等の遊具は寂しそうに建つオブジェのようである。東屋もなくそれ程広くもないこの公園に人影はない。大きな期待を抱いていた訳ではないが、やはり小さな溜息が漏れる。踵を返して出て行こうとしたその時、小さな白が視界の隅を過ぎった気がした。
 (何だ?)
 不思議に思い振り返り、辺りを見回し目を凝らすと鉄棒が立ち並ぶその奥、木が生い茂る根元にその白い塊があった。何故か胸の鼓動が早く鳴る。もしやと疑いつつも足は速度を増し、溜まった水溜りが跳ねて足元を濡らすのも意に介さない。近づいてみれば白い塊は白シャツで、雨に濡れて寒そうに蹲っていた者が人の気配に顔を上げた。こげ茶色の髪は濡れて黒い艶を増し、整った顔は雨の冷気で白くなっていたが、見上げてくる湖水のような翠は間違いなく八戒だった。初めて会った時と同じ位その美しい瞳を丸くしている。
 「
――――― 三蔵…さん?」
 「こんの馬鹿が!こんな所で何してやがる!!」
 一呼吸置いた後の大音量に驚いて、八戒の瞳は更に大きくなった。
 「すみません。あの、僕、帰り道が分からなくなってしまって…」
 「あぁ?」
 「僕、目が悪いんです。家にいた時はそれほど不自由を感じなかったんですけど、初めてこの辺りを歩いて帰り道の目印を見間違えたみたいで、迷ってたら雨に降られてしまって…」
 この公園にいた経緯を八戒から聞いている内に、三蔵の体の力が抜けてくる。
 「……まぁ無事だったならいい。行くぞ。また熱でも出されたら敵わねぇからな」
 最初の怒鳴り声に萎縮していた八戒は、差し出された手を見つめて顔を上げる。濡れた髪からは雫が滴り、不安に揺れていた翠の瞳が安堵の色へと変わる。雨を浴びた白シャツは半透明となり細身の体に張り付いていた。
 (まるで捨てられた猫だな。いや、迷い猫か…)
 三蔵の手を取った八戒が立ち上がると、繋がった手は強い力をもたらし、八戒の体は三蔵の腕の中へと引き込まれた。両腕で抱き締められて、傘が上を向いて落ちる。そこに音を立てて降る雨は、生い茂る葉では防ぎきれない二人をも濡らした。
 「あの……三蔵さん、貴方まで濡れちゃいます」
 「うるせぇよ、敬称は取れと言ったろ」
 更に強い力で抱竦められて、八戒は身じろぎも出来ない。驚きが遠ざかれば冷え切った体に三蔵の体温が暖かく感じて、八戒は瞳を閉じて肩に頭を乗せた。
 「すみませんでした。貴方までこんなに心配して来てくれるなんて、思ってませんでした。ありがとうございます、三蔵」
 抱き返す腕を背中に感じて三蔵は、腕の力を少しだけ緩める。そして息の触れ合う距離で見つめる翠の瞳に唇の端を上げた。
 「それでいい、八戒」
 その言葉に微笑んだ八戒の唇に、褒美と言わんばかりの熱が届けられた。




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2008/05/28