「八戒〜、お待ちかねのボジョレーヌーボーですよ〜」 嬉々として天蓬がキッチンを覗くと、八戒は手を休めずに振り向いた。 「ありがとうございます、天蓬。すみませんけどワインセラーに入れておいて貰えますか?」 「判りました。じゃあ八戒、足元に気を付けて下さいね」 天蓬は座り込むと床下を開けてワインを置く。そして顔を上げると八戒の黒いしっぽが目の前で揺れた。 「大変です。僕とした事が狼に子羊ならぬ子猫を提供するところでした。八戒ちょっとそのまま動かないで下さいね。……八戒?」 動きを止めてくれたまでは良かったが、返事のない八戒に天蓬は不審に思い立ち上がる。と視線の先には着替えてきた三蔵が、同じ様に動きを止めて立っていた。Swallowtailに黒マントを羽織った三蔵は、格式ばった礼装を完璧に着こなしており、黙って立っていれば貴族の風格が漂っている。但しその見事な金髪からは真っ赤な角が生えていた。 「うわぁ、三蔵さん凄く素敵です。三蔵さんもHalloweenを楽しむつもりだったんですね。僕の料理で見合うか判りませんが、頑張って作りますのでお菓子でも食べて待ってて貰えませんか?」 しばし時間を忘れて見惚れていた八戒は、うっとりとした笑みを浮かべる。片や三蔵も八戒の猫耳メイド服姿に魅入ったまま言葉を失っていた。 今までメイドなるものを知ってはいたが、別段興味をそそるものではなかった。が今目の前にいる八戒のメイド姿は明らかに違う。なんだってそんなに似合うのか、それでご奉仕するのか、いやされるのか、その猫耳は何なんだ、本当は今まで生えていたのを隠していたのか、嵌りすぎるにもほどがある。不自然さの欠片も見当たらないその姿にどうしてこれ程までに高揚するのか、三蔵は新しい自分とご対面して混乱していた。もしかして天蓬が作り出した幻術かもしれない、と疑った三蔵だが何度瞬きしても八戒の姿は変わらずそこにある。どうやら都合の良い夢でもないらしいと三蔵が現実を受け入れ出したその時、八戒がうっとりとはにかむように微笑んだ。男の本能に火を点けるその微笑みに三蔵は、己の理性が遠く彼方に走り去る音を聞いた。行動に移るカウントダウン導火線を走る火花の勢いは凄まじく、三蔵は無意識に八戒へと近付き本能の花火を上げる、筈の一歩手前でそれは踏み消された。冷や水を浴びせられた三蔵が見たのは、ブリザードを放つwitchだ。2人の間にブラックホールが発生する。 「あの、そのお菓子じゃだめですか?生憎今はそれしか無くて…ちゃんとしたデザートはこれから作るんですけど」 黙ったまま動かずにいる三蔵を誤解して不安気な顔になった八戒は、翠の瞳を揺らめかせ、あろうことか猫耳を寝かせた。 抱き締めてやらなければいけない、という新たな本能に訴えられた三蔵は頭の隅で、自分が低血圧である事を非常に幸運に思った。でなければ自分は出血多量で失血死していたかもれない。しかしその難局を乗り越えても尚、殺人光線が自分にロックオンされているのを感じた三蔵は、一体自分のどこに隠れていたのかと思われる忍耐を総動員して、何とか目の前の八戒に手を出さず理性を持ちこたえさせる。 「……………いや、これでいい」 「良かった、じゃあリビングで待ってて下さい。今コーヒーを淹れますから。あ、もし宜しければ天蓬と一緒にJack-o’-lanternを作って貰えませんか?」 そう言って八戒はもう1つ、それは大きなオレンジ色のかぼちゃを取り出して、三蔵の理性の限界を測るような笑みを見せた。 「貴方、よく持ちこたえましたねぇ」 「………」 「短気な貴方とは思えませでしたよ。一体何処にその忍耐を隠し持ってたんですか?人間やれば出来るもんですね」 「…………」 命が掛かってたからな、と三蔵は無言で答える。 「でも折角貴方を蛙に変えられるチャンスを逃してしまって、本当に残念です」 「……おい」 黙々とかぼちゃの中身を穿っていた三蔵は持ち前の短気を取り戻し、青筋を立てながら顔を上げた。 「おや?やっと反論ですか。僕が使った魔法が効き過ぎて性格改造までしちゃったかと思いましたよ」 「そんな訳あるか。それに貴様が俺を蛙にしやがったら八戒に元に戻してもらうからな」 「そんなに都合よくいく訳ないじゃないですか。大体魔法をかけたのは僕なんですから」 「で、その魔法とやらで八戒にあの格好をさせたのか?」 「耳としっぽだけですよ。衣装は貴方と同じで用意したんです。以前から絶対八戒に似合うと思ってたんですけど、Halloweenという絶好の機会を本日得られたわけです。僕だけで楽しむつもりだったのに、どうして貴方にまで見せる羽目になったのか」 重い溜息を吐いた天蓬は、面白くなさそうに手を休めてアークロイヤルを取り出す。 「貴様が出来るだけ早く持って来いと言ったんだろうが。言わば自業自得だな」 ざまーみろと三蔵も手を休め、マルボロ赤を取り出す。煙草休憩に入った2人は同時に大きな紫煙を吐き出すと、witchが口を開いた。 「だって仕方ないじゃないですか。八戒が喜ぶ顔を一刻も早くに見たかったんですから。なのに貴方ときたらまったく空気も読まず選りによってHalloweenに来るなんて、悪霊も同然ですよ。もっと早くにこのJack-o’-lanternを玄関に飾っておくべきでした」 既に出来上がっている通常サイズのオレンジかぼちゃを見つめて天蓬は、再び大きな溜息を吐く。 「店で解禁前のボジョレーヌーボーを持ってくる悪霊がどこにいる」 「僕の目の前に」 「てめぇ…」 青筋を立てる三蔵に天蓬はそ知らぬ顔で紫煙を吐き出す。 「だから特別大サービスで家に上げてあげたでしょう。あんなに可愛い八戒を拝めてしかも蛙にされないなんてVIP待遇ですよ。僕に感謝して欲しいですね」 「本気で蛙にしようとしていたヤツにだけは言われたくねぇな」 「猫耳にしっぽ付きで見せて貰ってるくせによく言いますね」 「それは単にお前が見てたいからだろうが」 「貴方に見せたくないのと、八戒のあの愛らしい姿を見てたいのを天秤にかけたら当然の傾きをみせたまでですよ。仕方ないじゃないですか。まぁ貴方があの八戒に手を出さずに耐え切った事も一因してますけど。ていうか貴方本当に男ですか?よくあの八戒に手を出さずにいられましたよね」 と天蓬が視線を流した先には素敵に無敵なメイド八戒が、コーヒーポットを片手にしっぽを揺らめかせながらやって来た。 「コーヒーのお替りはいかがですか?ご主人様」 言われて2人は同時に煙草を取り落とす。 「……八戒、一体どこでそんな言葉を覚えてきたんです?」 天蓬が人差し指でこめかみを押さえれば、三蔵は額を手で覆う。八戒はそんな2人を楽しそうに見ながら、落ちた煙草を灰皿に置いた。 「お気に召しませんでしたか。申し訳ありません。それでしたらこれでいかがでしょうか」 そう言って八戒が両膝を付いて座ると、スカートは円く広がりふわりと落ちる。そして上目遣いで2人を見つめた。 「コーヒーのお替りはいかがですか?ご主人様」 にっこりと微笑んだ八戒の猫耳は心持伏せられ、黒いしっぽがパタリと大きく揺れる。サッカリンを脳にぶち込まれた天蓬と三蔵は、互いの存在がなければ恐らく狼に、いや完全無欠なご主人様に変身していたが、残念ながら抑止力として働いてしまった。そのため2人して言葉もなくフリーズしていると、更に八戒は小首を傾げる。 「よろしいですか?」 小悪魔のように楽しむ翠の瞳を見つめて天蓬は大きな溜息を吐くと、襲ってくる煩悩を心の木魚で乱れ打ちしつつ眉間を押さえる。 「………いえ、貰います。八戒、ちょっと過剰サービスし過ぎです。流石の僕もかなりきました」 「だって困らないと悪戯が成立しない、て天蓬が言ったんですよ?僕ばかり悪戯されちゃいましたから。でもそんなに困ると思いませんでした」 くすくすと笑いながら天蓬のカップにコーヒーを注ぐと、八戒はくるりと振り返り同じく眉間を押さえている三蔵を見つめた。 「三蔵さんもそんなに困ると思いませんでしたよ。いかがですか?ご主人様」 「……貰おう。何だtreatはあったのに悪戯されたのか?」 なるべく八戒を直視しないように、先程天蓬から押し付けられたテーブルの上のお菓子を見ながら問うと、予想外の反応が返ってきた。 「あっ」 小さな声と共に真っ赤になった八戒は、失礼しますと言って脱兎のごとくリビングから逃げ出した。呆気に取られた三蔵だが、目の前のwitchが悠然と煙草を吹かすので我に返る。 「……お前、八戒に何をしたんだ?」 「trickですよ。だってtreatを貰えなかったので」 「ここにあるじゃねぇか」 まったく腑に落ちず、三蔵がテーブルの上にあるお菓子を指すと天蓬は艶然と微笑んだ。 「だって八戒が僕には手作りのお菓子を食べさせたいからって、それを出してくれなかったんです」 「じゃあこれは何だ?」 「それは僕が悪戯されたら困るから、と言って八戒が出してくれたんです」 事実ではあるが真実を語らず天蓬が紫煙を吐き出せば、三蔵は非常に深い皺を眉間に刻み、紫暗の瞳を鋭く眇めた。 「…そうか、邪魔をしたな」 まだ残っているマルボロに手を伸ばす事もなく三蔵は立ち上がると、黒いマントを翻し自分の服が置いてある部屋へと向かう。天蓬はそれを止める事もせず八戒の淹れてくれたコーヒーをゆっくりと飲んだ。 八戒が自分の部屋から出てくると廊下で三蔵と出会した。 「どうしたんですか?三蔵さん。トイレはこちらじゃありませんけど」 「帰るから着替える」 「え?どうしてです?だって折角持ってきて貰ったボジョレーも開けてないですし、料理もまだ出来上がってないですし…。何か急用でも出来たんですか?」 猫耳をへにゃりと寝かせて不安気な瞳になった八戒の顎を三蔵は取る。と翠の瞳は丸くなり猫耳がピンと立つ。 「天蓬にはtrickで俺にはtreatなんだな」 険のある紫暗の瞳に八戒は息を呑む。が先程天蓬にされた悪戯を思い出して頬を朱に染めて俯いた。 「三蔵さんもtrickの方が良かったんですか?」 言われて三蔵は今度こそ本能に従って八戒を抱き寄せる。そして先程天蓬には言わなかった言葉を告げた。 「trick or treat?俺にはどっちをくれるんだ?」 「お菓子はまだ作ってる最中なので、もう少し待って貰えませんか?」 「そんなに待てんな」 「貴方も天蓬と同じ事を言うんですね」 伏せていた瞳を上げて八戒は困ったように微笑んだ。翡翠の瞳は知らない自分を暴くようで、全てを映し出される錯覚に陥る。三蔵はこの瞳に抗う術を未だ見出せない。 「それなら俺はtreatを貰おう」 そう言って三蔵が唇を塞ぐと八戒は見開いた目をすぐに閉じた。抱き締められる腕は強く、触れ合ったまま角度の変わる口付けは性急に熱を求めるようで、天蓬とはまったく違う。開かない唇に焦れるように舌で撫でられ、八戒は喘ぐように口を開く。次の瞬間八戒は強い拘束から急に解き放たれ、驚いて目を開けた。 「………三蔵…さん?」 熱くなった吐息を吐き出し呟くような声を出す。が今まで自分を抱き締めていた三蔵の姿はない。忽然と消えた三蔵に呆然としていると、足元に何かが触れた。 「ぴぃ」 驚いて足元を見るとそこには小さな可愛らしい姿が、自分を見上げて鳴いていた。 |
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2006/05/23