ぼろぼろになった僧衣を着た者が二人、東方一の慶雲院へ訪れた。三蔵法師様の来訪という事で出迎えた僧侶達は、一様に喜色を浮べ手厚い歓迎をした。しかしすぐにその隣にいる者に目を向ける。僧侶が居並び読経する廊下を過ぎて、案内する僧が言いにくそうに口を開いた。
 「三蔵様、あの、この者は付き人でしょうか?」
 「いや、人形だ。訳あって託された。世話は俺がするから着替えを頼む」
 「は?人形ですか?」
 「プランツドールと言って生きている人形の事だ」
 「それで、その…大変申し上げにくいのですが、あの…一応お尋ねしますが……」
 「心配するな、男だ」
 僧が聞きたがっている事を察して三蔵が先回りして答える。
 「左様ですか。では、こちらへどうぞ。ご案内いたします」
 心底ほっとした様子で案内する後に付いて、二人は広大な境内へと足を踏み入れる。まるで生き神様のような扱いに三蔵は皮肉めいた笑みを浮べ、逆に八戒は一度も笑みを見せなかった。



 夜になって別々の部屋を用意されて三蔵は、久々に一人で眠った。しかし人形と出会う前の出来事が、悪夢のように次々とやってきて寝ていられない。結局三蔵は眠るのを諦めて廊下へと出た。そして八戒はどうしているのか気になり、部屋へと足を向ける。気配を殺して音も立てずに扉を開けると、果たして八戒も起きていた。連子窓から夜空を見上げて月華を浴び、まるでそこへと帰りたいように月を見上げている。その姿は月の下で一晩だけ咲く花のようだ。しかし三蔵の気配に気付いて振り返ると、花弁を震わせ香気を漂わせる花のように微笑み、三蔵に向かって手を伸ばしてきた。まるで磁石のように自然と身を寄せてきた八戒を、三蔵は抱き留める。出逢った頃より時は経ち、三蔵の身長は伸びたが八戒の姿は変わらない。今では三蔵の胸の内に入るくらいの身長差になっていた。
 いつも抱き締めて眠っているわけではないが、この温もりが常に傍らにあった。そのせいで自分の事を省みる余裕がなく、いつも自分と八戒を守るのに精一杯で、悪夢を見る暇がなかった。久々に見た悪夢のせいで三蔵は、悪夢を遠ざけてくれていた八戒の存在を改めて思い知った。
 「お前も眠れなかったのか?」
 囁くように訊ねると、今は月光に染まったこげ茶髪がこくんと頷く。三蔵も八戒がこの寺院に入ってから一度も笑顔を見せていない事に気付いていた。一人にされて不安だったのだろうか、そう思えるくらい八戒はしっかりと三蔵に抱きついている。三蔵は小さな溜息を吐くとこげ茶髪をさらりと撫でる。
 「行くぞ、散歩だ」
 眠気が飛んでしまった三蔵は、同じく眠る様子のない八戒を連れて寺院内を歩くことにした。別に夜通し歩くことも二人にとって特別ではなく、むしろ日常である。下弦の月を頼りに長い廊下を歩き、序に顔でも洗おうと思い立つ。そのすぐ後ろを歩く八戒は微笑みを浮べて付いてくる。表情の柔和な八戒にほっとすると、自分の気持ちも落ち着いてきたのが判る。水飲み場で顔を洗い、水も飲んで帰ろうかと思った丁度その時、ふと煙草の匂いがした。こんな夜更けの寺院にまさか、と思いつつも匂いのする方向へ確かめるように歩いていくと、窓を開けて煙草を吸っている老僧がいた。
 「……ほほう、月夜の魔魅かいの」
 その言葉に三蔵は紫暗の瞳を眇め、あんたの方が妖怪に見えると正直に答えると笑い返され、煙草を勧められた。当然断ったのだが、思い出すのは煙管で煙草を吸っていた師匠の面影。胸が痛む前に、八戒に袖を引かれて我に返る。自分を見つめる翠の瞳は月明かりの下いつもより深い。先程老僧が言った魔魅という言葉が思い出される。引き込むような光差す翠に向かって大丈夫だと言い聞かせると、八戒は月の華のように微笑んだ。
 「そちらも一本どうじゃ?」
 老僧が八戒にも話し掛けると、何と八戒は笑みで答えた。
 「ほほ、笑って断るとは。こちらも変わった魔物じゃの」
 楽しそうに笑う老僧に三蔵は驚いた。笑っている場合は普通肯定と受け取るが、いつも一緒にいる自分ならいざ知らず、そこまで八戒の心情を正確に読み取った心眼に紫暗の瞳が大きくなる。
 「酒も煙草もやらんとは、これまた変わった魔物達じゃの」
 そう言って紫煙を吐き出す老僧を、今日着いた時にはいなかったなと三蔵は眺める。しかしそれ以上引き止めるつもりもないらしく、三蔵は来た廊下を八戒と2人で戻る。
 翌日、昨日外出していた大僧正持覚だと挨拶され、三蔵は妖怪の正体を知って紫暗の瞳を丸くした。



 この広大な寺院の中なら差し当たり、命にかかわるほどの危険はない。その事を理由に三蔵は、その後も八戒と別室で寝ていた。一人で眠る三蔵に悪夢は尽きることなく訪れたが、初日以外は八戒の部屋へは行かなかった。久し振りに自覚した孤独と狂気に三蔵は、もしかして八戒を守るという名目で、自分の方が八戒に依存していたのではないか、と思えてきたからだ。三蔵が距離を置いたのは八戒にも分かったらしく、経も読まずに座禅をすれば離れて座り、食事も取らずに篭った時も部屋に訪ねては来なかった。勿論ミルクや風呂の世話を三蔵が怠ることはなかったが、八戒はじっと翠の瞳を向けるだけで触れようとはせず、笑いかける事もなくなっていた。
 そうしてじりじりと三仏神からの連絡を待つ間に、三蔵には昼と夜の区別がなくなり、月すらも見れなくなったある日のことだった。世話をしていた小坊主が心配のあまり近付いたその時、三蔵は無意識に銃口を向けた。勿論撃ち殺しはしなかったが、それは火種となって大寺院はすぐに騒然となった。どちらかと言えば人に疎まれる事に慣れている三蔵は、元々長居をするつもりがなかったためその夜、寺院を出る事にした。

 一人で。


 その晩、廊下を歩いていると呼び止められる。
 「……ほほう、月にでも帰るつもりかの?」
 振り返るまでもなく煙草と気配、そして極めつけの声で持覚だと分かり三蔵は、後姿のまま手を上げる。
 「…帰る場所なんざねぇよ。邪魔したな」
 そのまま行こうとする三蔵の背中に持覚が死んだ眼だと投げつければ、三蔵は自嘲の笑みで振り返り、血腥い人間の最高僧と答えた。結局持覚からは引き止めの言葉は出ず、代わりに餞別の煙草が投げられた。
 「ところでもう一人の魔魅の姿が見えんようじゃが?」
 「あいつはあんたからのミルクは飲むだろう。名前も好きに付けてやってくれ」
 「それがお前さんの餞別か?あの子に挨拶はしたかの?」
 「……いや」
 一度、やはり山に住んでいた鍛治師に懐いて手離そうとした時があった。あの時はそれでも目を見る事は出来たが、結局離れられなかった。又あの翠の瞳を見たら離れられる自信がない。否、今は顔を合わせることすら出来ない。
 「………引き受けましょうぞ」
 持覚の言葉に三蔵は、自分の体が硬直するのが分かった。一度だけ見た八戒の泣きそうな顔が過ぎる。しかし軋むような痛みを蔑ろにすると、三蔵はそのまま振り向きもせず慶雲院を後にした。



 三蔵を見送った後、持覚は足音も立てずに長い廊下を歩き、プランツドールの部屋の前で足を止めた。静かに引き戸を少しだけ開けて中を覗くと、人形は眠っておらず窓辺に座って闇を見ていた。この場所からは見えない筈だが、まるで三蔵を見送っているような姿だ。持覚は引き戸を開けて部屋の中に入ると、人形の近くに立った。
 「大丈夫じゃ。玄奘殿は必ず戻って来られる」
 その言葉に八戒はやっと反応を示し、振り返る。
 「聖と魔を併せ持つ光明の秘蔵っ子じゃ。決して弱くはない。今は迷うておられるだけじゃ」
 八戒は持覚を静かに見上げていた。臥待の月が光を投げ込み、受けて翠の瞳は湖面のような静けさと美しさを湛えている。けれど月の欠片が入ったように、その輝きはどこか水の冷たさを感じさせる。そしてその表情は子供のように可愛らしい、というよりは凛と立つ野生の白い花を思わせ、美しくも近寄りがたい張り詰めた顔をしていた。子供でもなく、また大人でもない。
 「……お前さんもやはり魔魅じゃの。しかしここにおる者共よりもずっと聡明じゃ。もう床に就かれたほうが良かろう」
 持覚が優しく頭に手を置くと、八戒は小さく頷いてから寝台へと上がりそして目を閉じた。連子窓の向こうにまだ見える月に向かって持覚は小さく呟く。
 「この人形が涙を流せばまた一つ、罪が増えますぞ。玄奘殿」


 いつものように木々の中へと入り焚き火をする。そして今や日常と化した眠れぬ体を持て余し、炎の揺らめきを見るとはなしに眺める。その向こうに夢うつつのように師匠の最後を思い出す。一人旅を経て、次に現れたのは八戒だった。
 八戒と旅をするようになってからは、過去よりも八戒の身の安全が最優先だった。一人旅でもニ人になっても行く手を阻む者は殺してきた。これからも変わりはしないだろう。ただ八戒といる時は守るためという大義名分が立つためか、罪の意識が軽減されていたような気がする。しかし同じ事だ。自分のためでも八戒のためでも、屍の上に立って生きていく事には変わりない。もしかしたら自分は、単に楽になりたいから手を離したのではないだろうか?悪夢から守ってくれていた八戒を。どんなに血塗れても、八戒が自分を見つめる澄んだ瞳はいつも変わらなかったのに。そして思い出す。叶の所へ置いていこうとした時の瞳の色を。誰もいない深い森を映したような湖から水が溢れ、秀麗な顔は耐えるように歪み、唇は赤くなるほど固く結ばれた。そしてその時感じた、心臓が抉られるような痛みも同時に三蔵は思い出した。
 急に夢から覚めたように、いても立ってもいられなくなり立ち上がろうとした丁度その時、高く鋭い半鐘の音が辺りにこだました。
 急いで戻った三蔵の見たものは、刀に串刺された持覚の姿と、相討ちで絶命した妖怪の姿だった。そしてまだ残る妖怪達の群れ。持覚の命は救えなかったが、最後に話すことは出来た。どうやら光明師匠の師匠だったらしい事、そして光明師匠とまったく同じ台詞を言いやがった。どいつもこいつも俺に背負わせ先に逝く。残ったのは……
 火の始末をする前に三蔵は、残った妖怪達を皆殺しにした。



 翌日、持覚の葬儀の最中に慶雲院へと戻り、三仏神から寺院を取り仕切る許可を得た事を一方的に告げると、近くにいた僧に訊ねる。
 「おい、八戒はどこだ?」
 「は?」
 「人形のことだ。部屋か?」
 「は、はい。恐らく…」
 それだけ聞くと三蔵は、八戒がいた部屋へと真っ直ぐ歩いていく。そして部屋の扉を開けると、俯き座っていた八戒が顔を上げた。久し振りにまともに見た八戒は、少し艶が失せてしまっていた。昨夜思い出した痛みは、今また鋭い痛みとなって体を走る。しかし自分のした事に目を背けず、そのまま翠の瞳を見続ける。と八戒は驚いて大きくなった翠の瞳をはんなりと細める。今までモノクロだった世界を急に色鮮やかな世界へと変えて、失った輝きを一瞬にして美しい微笑みへと昇華させた。天上に咲く花が咲き零れるような美しい笑みは三蔵に、初めて会った時の笑顔を思い出させる。久し振りに見た笑顔に安堵の溜息を吐いて三蔵は、座っている八戒に歩み寄る。
 最初に自分に名を与えてくれた師匠である光明三蔵と、再びその名を呼んでくれた大僧正持覚は既に亡い。けれど自身すら否定していた三蔵を、ずっと見続け傍にいてくれた八戒に、この正装した姿を見て欲しかった。それで置いていこうとした自分を許してくれとは言えないが
―――
 「八戒」
 名を呼び手を伸べると八戒は、見ているこちらが泣きたくなるような笑みを浮べて立ち上がる。三蔵は八戒がしがみつくよりも早く、胸の内におさめてしっかりと抱き締めた。目を閉じて温もりと匂いを感じていると、八戒の手が背中に回ったのが分かってよりいっそう抱き竦める。そうして寄り添い一つとなった影は、そのまま暫らく動かなかった。
 
 その後喪服に着替えた八戒は、三蔵と共に大僧正持覚の葬儀に参列し、夜になって三蔵が手向けに酒と煙草をのむ時も、傍らにいて見守るような笑みを浮べていた。



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2007/07/04