「三蔵様」
 執務室で仕事をしていた三蔵はおもむろに顔を上げる。そして筆を止めるときょろきょろ辺りを見回した。しかし僧の姿は見当たらない。気のせいかと思い、再び筆を走らせると又しても声が聞こえてきた。
 「三蔵様」
 まさかと思って三蔵が目を向けた先には、八戒が椅子に座りこちらに向かって微笑んでいる。
 バンッという激しい音と共に執務室の扉が開き、近くを歩いていた僧は驚きのあまり持っていた巻物を落としてしまう。それが長い廊下を転がるのを嘆くよりも早く、近付いてきた三蔵に鬼の形相で睨まれて、年若い僧は生きた心地もなく硬直した。まさに蛇に睨まれた蛙のごとくで、命ばかりはお助けをと心の中で釈明している僧に三蔵が近付く。
 「おい、この長安に人形を扱っている店があるか?」
 「は?」
 まったく予想だにしない問いに、訊かれた僧の頭は真っ白になる。
 「だから、プランツドールのだ」
 苛立ちを募らせる三蔵の迫力はみるみる乗算され、命の危険を感じた僧はせめてもの慈悲をと必死になった。
 「あ、あると聞いておりますが…」
 「何処だ?それは」
 言わないと殺す必殺紫暗の瞳にロックオンされた僧は、心の中で辞世の句を詠み始める代わりに言葉を繋げる。
 「そ、それは知りませんが…いっ、いえ!詳しく知ってる者がいると思いますので、暫しお待ち下さい!」
 お助けを〜と自己防衛本能を全開にさせた僧は、その場を全力疾走で逃げ出す。やがて短気な三蔵の性格を知り過ぎた僧達の、命が掛かった迅速な行動のお陰で店の位置を示した地図が超特急で出来上がる。それを受け取った三蔵は八戒を伴い、砂塵舞い上がる疾風の勢いで寺院を出て行った。そして後には呆然とした僧達が残される。
 「で、人形が何だって?」
 「さぁ……」
 なんと言っても人形の世話は全て三蔵が行なっているため、触れたことすらなく、さっぱり事情が判らない。それは勿論三蔵の言い付けが守られているせいではあるが、それとは別にもう一つの理由があった。
 「あの人形は、お主達では荷が勝ちすぎるからの」
 亡くなった大僧正持覚がそう言ったのを聞いた僧がいたのだ。そんなに世話が大変なのか、そうではなくて大変高価だからか、などと憶測が飛び交ったのだが、結局決め手となったのは三蔵の『訳あり』という言葉だった。それに加えて三蔵の連れた人形のせいで坊主が一人死んだらしい、という噂が外から来た僧より持ち込まれ、呪いの人形という不文律が出来上がった。そのため誰も人形に近寄らない。人形の話をすると三蔵の機嫌が下降するのも一因となって、慶雲院の僧達は誰も訳ありの真実を知らなかったし、人形の事も知らなかった。ただ一つ言えるのは、実はこの後三蔵に多難が降りかかる、とは誰も予想出来ない事だった。



 白の僧衣を着た金髪美人が、小脇にこれまた綺麗な子供を抱えて歩いている図。というのは大変人目を引く光景ではあったが、尋常でない速さで歩いていたためうまく砂塵が舞い上がり、図らずも隠遁の術として通用していた。これにより賑わいをみせる長安の都は大変迷惑を被っていたのだが、ただならぬ気配に人々は文句を言うよりも避難を優先した。その砂煙はある店の前まで来ると自然消滅し、都を歩く人々はすぐに平穏な日常を取り戻した。
 店に入り、仁王立ちで肩で息する最高僧三蔵法師様を待ち受けていたのは、いらっしゃいませと愛想よく迎えてくれる店の対応ではなかった。
 「翠緑!!」
 長い黒茶髪をなびかせて長衣の裾を踏む事無く走ってきた店主は、最高僧三蔵法師様を吹っ飛ばす勢いで八戒に抱きついた。
 「翠緑、よく無事で!本当に良かった。しかもこんなに綺麗になって……」
 掛けていた眼鏡を外すと飛び切りの美貌が露わになり、潤んだ鳶色の瞳の縁を大仰に擦る。まったく予想しなかった対応と勢いに押されて三蔵は、置いてきた僧達と同じ様に呆気にとられていた。しかし徐々に自分を取り戻すと、べったりと八戒に抱きついているどうやら店の者らしきヤツの対応に、くっきりと青筋を立てて不機嫌なオーラをどっと放出した。
 「オイ」
 「何ですか?翠緑との感動的な再会を邪魔するなんて、どこの無粋な最高僧ですか。少しは空気ってものを読んだらどうです?」
 三蔵が発する殺気をまったく物ともせずに跳ね返したばかりか、三倍ほどのおまけを付けて言い返され、三蔵の機嫌は下降の一途を辿る。思わず懐の銃に手を伸ばそうとした矢先、件の人物は八戒の肩に手を置いて一分の隙なく優雅に立ち上がった。
 「それで今日はどういったものをご入用ですか?」
 先程までの剣呑さを見事なまでに翻し、完璧な営業スマイルで微笑んだ者は、この店の店主で天蓬と名乗った。その笑みから発せられる無言の圧力を感じ取った三蔵は、天敵と出会ったらしいと本能で悟る。しかしここに来た本来の目的を果たさねばならず、三蔵は臥薪嘗胆と心に書いて踏み止まり、何故ここに来たかを短い言葉で説明した。

 「言葉を?」
 「そうだ」
 「そんな風に育てたんですか?貴方は」
 「違う。周りの奴らが言うのを勝手に覚えたらしい。別に喋っても問題ないんだな?」
 「大有りです。因みに何て言うんですか?」
 「それは……」
 まさか自分の名前に敬称を付けねばならない状況に陥ると思っていなかった三蔵は、さすがに言い淀む。
 「もしかして、言えないような言葉なんですか?」
 言葉尻をクレッシェンドされて眉間に皺を刻むが、それでも口は結んだまま。と、そこに助け舟が現れた。
 「三蔵様」
 「…………」
 「…………」
 思いがけずに八戒の口から問題となっている言葉が発せられた結果、店内の温度がすっと下がる。
 「……貴方、自分の名前に敬称付けて教え込んだんですか?流石に最高僧様はやる事が違いますねぇ」
 痛い沈黙の後に絶対零度の声音で言われて三蔵は、耐え切れずに懐から煙草を取り出した。成る程、こういった場合にも使えるのかと思いながら、紫煙を吐き出し明後日の方を向く。それを見た鳶色の瞳が据わる。序に眼鏡を光らせると店主天蓬は人形に向き直った。
 「可哀想な翠緑、さぞや苦労したのでしょうね…」
 今度は言葉を詰まらせながらデクレッシェンドに台詞を吐かれ、三蔵に弁解の余地はない。実際ずっと危険な旅の共をさせてきたし、更には二回も手離そうとした。まるで見てきたように痛いところを衝かれて、三蔵の顔が苦虫を噛み潰したように歪む。しかし言い訳をせずに、気になる事を訊ねた。
 「それで…、何が問題なんだ?」
 「僕が声を聞いてなかったという事です。でも今聞けましたので、この問題は無事解決しました」
 極上の笑みでしれっと言われて三蔵は、自分のこめかみから何かが切れる音を聞いた。
 「貴様、さっきから大人しく聞いていれば翠緑、翠緑と言いやがって。こいつの名前は八戒だ!」
 「今初めて聞いたんですからその名前を呼べる訳ないでしょう?良かったですね、はっかい。名前を付けて貰ったんですね」
 一瞬で厳寒から麗かへと声を変えた天蓬は、飛び切りの笑顔で八戒の髪を撫でる。すると八戒もふわりと微笑み返した。それを傍から見ていた三蔵は驚いて、紫煙でむせ返りゲホゲホと苦しそうに咳き込んだ。
 「因みにどんな字ですか?」
 「…八つの戒めと書く」
 「戒めの名を付けるなんて相当な破戒僧ですね、貴方」
 いちいち棘で刺されて針の筵とされていた三蔵だが、今の台詞だけは微妙な言い回しの違いを感じて片眉を上げる。店主に視線を向けると、相変わらず冷ややかな視線なのだがその中に怒りの色を見つけてまさか、と思うと同時に氷の微笑が浮かんだ。
 「ご自分の胸に手を当ててみたら如何ですか?いくら大事な人形を護るためとはいえ悪趣味じゃありませんか。あんなモノをこの子につけるなんて」
 「貴様……視えるのか?」
 「一つは知った顔ですからね…」
 憮然とした表情で言われて三蔵は返す言葉もない。無言のままの三蔵に何を思ったのか、店主は店の奥へと引っ込むと間もなく手に茶器一式を持って現れた。
 「賛成はしかねますが、この子と感動の再会を果たせましたからね。お茶でも如何ですか?」
 程なくして店内にお茶の芳香が漂った。



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2007/07/18