不快感に三蔵は瞼を無理やりこじ開ける。と木目の天井があり、最後に見た雨雲ではない事を徐々に認識していく。何故だろうとぼんやり見つめていると、傍らに温もりがあり、人形がくっついて眠っている。安らかな寝顔はとても穏やかで、三蔵は知らずに安堵の溜息を吐く。そして自分は屋根のある部屋で、ベッドの上で寝ている現状にようやく気付いた。折れた右腕には添え木がしてあり、他の怪我も手当てされてるのを確認してから、目覚めた原因へと視線を移す。実際には見えないのだが、吐き気すらもよおすほどの悪臭に顔を顰めて臭いの元を探す。と小さな食卓の向こうに庖厨が見えて、そこで作業している男の後ろ姿があった。 (誰だ?) 三蔵がそう思うのと同時に男が振り返り目が合う。 「漸く一人お目覚めだな。丸一日寝てたぞ」 聞き覚えのあるこの声は、文句を言いたかった相手だと気付いたが、同時に助けてくれたのだろうと思い反論を控える。黒づくめの服に長い髪を一つに束ね、顔の右側に三本の派手な傷痕があり、隻眼の琥珀の瞳は隙なく自分を見つめている。紫暗の瞳を胡乱なものに変えて三蔵は口を開いた。 「あんたは?」 「それじゃ何が知りたいか分からないだろ?俺の名前か?年齢か?女の好みか?それともスリーサイズか?」 口元に笑みを浮べ揶揄した口調に三蔵はムッとして体を起こす。痛みはあったが何とか上半身を起こすと男はちょうどいいと言って、何と吐き気をもよおす臭いの元を持ってきた。あまりに強烈な悪臭に三蔵はこれ以上ないくらいの顰め面をしたが、男は器に入った毒液のような怪しげな液体を差し出した。器を持たされて三蔵は嫌な予感を覚える。 「何だ?」 「薬」 「何のだ?」 「滋養強壮」 嫌な事ほど当たるらしく、これはどうやら飲み物だと判明した。そして好ましくない結末を避けようと三蔵は試みる。 「外傷には必要ないものだろう」 「傷の手当てをしてやったのは俺だ。腹の辺り大分殴る蹴るされただろ?男なら潔く飲め」 「………」 「自分で飲むのと俺に無理やり飲まされるのと、どっちがいい?」 「他の選択肢は?」 「無理やりの場合、鼻を摘んでこじ開けさせる方法と、口移しの二通りあるがどうする?」 楽しんでいるとしか思えない口調に三蔵はうんざりした。もうこれ以上この男と暖簾に腕押しの会話をするのも、この臭いを嗅いでいるのにも限界がきて、三蔵は元より一択しかない方法を実行し、息を止めて一気に薬を喉に流し込む。 「よし、飲んだな」 満足そうに頷く男に殺意を覚えたが、今の三蔵には味もすごい薬を意地でも戻さないようにするのが精一杯である。この薬を飲んだのだから義理は果たした、とばかりに三蔵は口を開いた。 「俺とこいつの着物と荷物は?」 三蔵と人形が着ているのは、この男の物らしいサイズの合わない寝間着である。このままでは流石に旅をするのは不便だ。 「着物は血塗れの泥塗れだから、これから洗う」 「荷物は?」 「ちゃんと預かってある。だが金冠に小銃に経文っていう異様な組み合わせはともかく、ガキの持ち物じゃないだろ」 どっかから盗んできたのか、と問われて三蔵が無言で睨み返すと男は破顔した。 「いい眼だ。人の一人や二人は殺せそうだな」 揶揄するような口調に苛立つ三蔵を、男はまぁまぁと宥める。 「お前がただのガキじゃないって事は認める。だが着物と荷物を渡したらどうする気だ?」 「出て行く」 「その傷でか?腕折れてんだぞ」 「足は折れてない」 「まぁ、それもそうだが…」 頑な三蔵の態度に男は、髪の毛を一房指に絡めてから人形を見た。 「そっちの子が何も食べてないのにか?」 三蔵も釣られるように傍らで眠る人形を見つめると、男は続けた。 「昨日着替えさせた後、お前にくっついて眠ったまま一回も起きてない」 「怪我は?」 「してない。ただ妖怪に襲われそうになってたのを俺が助けた」 その言葉に三蔵の肩があからさまに下がる。安堵の様子に男は、先程までの態度の違いにオヤと片眉を上げた。と人形の瞼がぴくぴくと動き、ゆっくりと目が開く。長い睫毛で何度か瞬きをすると、起きている三蔵の姿を認めて極上の笑みを浮べる。嬉しさと安心したような美しくも柔らかな花を表情に咲かせて、人形は三蔵にそっと寄り添う。三蔵も包帯だらけの左腕を動かし人形の体に添えた。 「無事だったか」 改めて三蔵が呟くと人形は、花弁を震わす可憐な花のように微笑む。そこに甲高い口笛が響いた。 「笑うとまた一段と別嬪さんだな。序に何が好みか教えて欲しいんだが。昨日から一言も喋らないんだ」 「あぁ。こいつは温めたミルクしか飲まないんだ」 「ミルクだけ?」 「そうだ」 三蔵の不親切で不可解端的な答えに男は驚いたようだが、意外にも真剣な面持ちで人形を見つめた。 「もしかして、その子プランツドールか?」 隻眼の琥珀の瞳を大きく見開いた男に、三蔵も驚いた声を上げる。 「知ってるのか?」 「噂だけな。実物見たのは初めてだ。成る程なぁ、それだけ別嬪なのも頷ける。じゃあお前の薬は終わったから、そっちの別嬪のミルクを温めるとするか。ところで名前は?」 「無い」 三蔵のあまりの即答ぶりに、男は再び目を丸くする。 「お前の名前が?それともそっちの子か?」 「両方だ」 自分は玄奘三蔵という法名を名乗る資格がまだ無いし、人形に至っては「死を呼ぶ人形」という浮名のみだ。喋らない人形が自分を呼ぶことはないし、自分も人形の名を呼ばなくても応答に不便を感じなかったので思いも寄らなかった。固まった三蔵に、どうしたのかと見つめる人形を見比べた男は、やがて面白そうに唇の端を上げた。 「じゃあ勝手に呼ぶぞ」 「その必要はない。すぐに出て行く」 「格好からしてどっかの寺の小坊主だろうが、礼儀を知らないようだな」 「世話になった事には礼を言う」 警戒を解かない三蔵との押し問答に男は肩を竦めると、庖厨へと足を向ける。 「どっちにしろ別嬪のミルクが先だ。大事なものは自分で探せ」 「どういうつもりだ?」 「別に横取りする気はないさ。お前の怪我が治ったら返してやるよ」 「すぐに出て行ってやる」 楽しそうに会話を終えた男は、最後に叶と名乗った。機嫌が下降線を辿る会話を終えた後、言い忘れた事があったのを三蔵が思い出したのは、温められたミルクが差し出された時だった。今までこの人形は、自分以外の人間が温めたミルクを飲んだ事がない。不自由な左腕を動かして三蔵が遮ろうとする前に、人形は予想に反して叶から茶碗を受け取り、コクコクと飲み始める。そして全て飲み干すと三蔵の時ほどではないが、柔らかな表情を浮べた。 「よし、こっちの別嬪は素直だな」 隣で紫暗の瞳を丸くしていた三蔵に、叶は唇の端を上げてニッと笑う。そして空になった茶碗を受け取った叶は、仕事をすると言って外へと出て行ってしまった。家の中には二人だけが残される。どこもかしこも傷だらけの三蔵を見つめた人形は、先ず左腕の包帯の上に手を当てた。そして目を閉じ一心不乱に手を当てる人形を、三蔵は黙ったままじっと見つめていた。 常に三蔵の傍にいて、手を当てている人形の行動は叶も気になったようだ。 「それは何をしているんだ?」 「こいつがこうしてくれると痛みが和らぐし、傷も綺麗に治る」 「へぇ〜、正に手当てか。変わったプランツドールだな。尤も観用少年ってだけでも充分だが」 「他に何か知ってるのか?」 「そうだなぁ、俺が聞いたのは観用少女だが、色々種類があるってのは聞いた事がある。歌ったり羽根が生えたりするのもあるらしいな。あ、それと目ん玉が飛び出るくらい高価なものらしいな。何だ、お前知らずに育ててるのか?」 「育てる?」 「生きてる人形なんだから当然だろ?上手く育てられないと枯れちまうそうだぞ。人間で言えば死ぬってとこか」 「………」 「今んとこ上手く育ててるんじゃないのか?俺も詳しくは知らんが、上手く育てればどんどん綺麗になるらしいからな、その別嬪さんは。それから気に入ったやつにしか懐かないとも聞いたかな」 話終えた叶は食卓の上を布巾で拭くと、庖厨に向かう。どうやらこれから食事のようで、良い匂いが漂ってくる。先程から話題のプランツは、わき目も振らず三蔵の腕にずっと手を当てている。目を閉じた人形を三蔵は見つめる。今の話の通りなら、この人形は叶の事を気に入っているのだろう。何しろあれからずっと、叶が温めたミルクを飲み続けているくらいだ。その叶が食事を運んできた。食卓の上に皿が並べられる間に三蔵はベッドから下りる。動き回るのはまだ辛いが、食卓の席に着く程度には回復していた。すると人形も目を開けて倣うようにベッドから下りて席に着いた。普段この家にはそれ程来訪者がないらしく、最初は椅子が二つだけだったのだが叶が自作した椅子が増え、真新しい椅子に人形が座っている。(因みに叶が別嬪用と指定した)食卓には粥とミルクと水餃子と野菜炒めが並び、美味しそうな匂いと湯気が立っている。しかし三蔵は、自分の前にもミルクが置かれているのを見て瞳を眇めた。 「何で俺にもミルクだ」 「早く治りたいんだろ?ミルクは骨を丈夫にするからな。あの薬を飲むより簡単だろ。ちゃんと飲めよ」 未だに出される最悪な薬を思い出して三蔵は嫌な顔をし、叶はそれを見て笑う。 「残さず食べろよ。食べるのも治療だからな」 子供扱いされたようでムッとしたが、結局黙って三蔵は箸を持つ。そして隣に座る人形は、今日も叶が温めたミルクを飲んでいた。 |
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2007/04/12