「あれがそうか…」
 霧が晴れ渡った青い空へと攫われ、雨水を含んだ山は生き生きとした緑を成している。軽やかな風を受けて、突き出た崖の上に立った三蔵の袖が膨らみ棚引く。手を翳して向こうの山を眺めやる三蔵の目に、深い緑に埋もれるようにして建つ小さな寺の屋根が映る。そして山裾には這うように街並みが広がっている。
 「行くぞ、もう少しだ」
 挫いた足でも今日中には辿り着けそうだと目算した三蔵は、途中で拾った枯れ木を杖代わりにして歩き始める。声を掛けられた人形は微笑みで返答すると、すぐに後を付いて歩き出す。途中山賊や妖怪とも出会さず、二人はまだ日のあるうちに寺へと辿り着いた。
 「これはこれは三蔵法師様、このような辺鄙な寺へようこそお出で下さいました」
 小僧からの報せを受けた住持が自ら山門まで出て歓迎する。そして中へと案内され見渡すと、こぢんまりとした寺で人もそう多くはないようだ。しかし土塀の周りに高くそびえる常緑樹の大木が見るものに威圧感を与えていた。そして方丈へと通された二人は住持から、食事と風呂の用意をさせていると告げられた。
 「有り難いが、こいつにはミルクを用意してほしい」
 「ミルク、で御座いますか?」
 不思議そうな顔をした住持に三蔵は仕方なく説明する。
 「プランツドールというのは知っているか?」
 「聞いた事はございます。確か生きている人形で大変高価なものだとか。もしやこちらが…」
 「そうだ、そのプランツドールだ。訳あって託された」
 「左様でございましたか。成る程、それでミルクと言われたのは頷けます。確かミルクを与えるだけでいい、と言う話を聞いた事がございます」
 「他に知っている事はないか?」
 「申し訳ありませんが、その程度でございます。何しろこうして実物を見るのも初めてなものですから」
 「そうか」
 それは三蔵も同じだったのですぐに納得する。住持は控えていた小僧にその旨を伝えすぐにミルクを準備させると、改まった顔つきになった。
 「して三蔵様、こちらの寺で説法をしていただけるのでしょうか?それとも何か御用の向きがおありでしょうか?」
 そこで三蔵は本来の用件である経文と妖怪の事を尋ねたが、残念ながらここでも有力な情報は得られなかった。急ぎの旅であるが一泊を願うと住持は快く受けてくれた。そして話が終わった後、小僧が湯の用意が出来ましたと告げに来た。
 湯殿に行くと小僧が背中を流すと言ったのを体よく断り、三蔵は人形と二人で入湯した。先ずは体の汚れを落としてから湯に浸かる。こうして風呂にちゃんと入れたのは人形が見つけてくれた天然温泉以来である。肩まで浸かるとそれだけで全身の疲労が癒されて、自然と長い吐息が出る。一度閉じた目を開くと、正面に座る人形がこちらを見ていた。すっかり汚れの落ちた人形は、珠のような肌をほんのり桜色に染めあげ濡れて艶めくこげ茶髪から雫を垂らし、静かに引き込むような翠の瞳を柔らかく細めてはんなりと微笑んでいる。頬に熱が集中するのは湯気が当たるせいかもしれない、と思いながら三蔵はふと気付く。この寺院に入ってから人形がこんな風に笑うのを初めて見たと。二人だけで旅している時はいつも目にしているので気にも止めず、プランツドールとはこういうものかと思っていたが、どうも違うらしい。
 「お前、人見知りするのか?」
 小首を傾げて更に華やいだ笑みを浮べた人形に、三蔵は紫暗の瞳を大きくする。しかし自分も人の事は言えないので、三蔵は腕を伸ばして人形の髪をくしゃりと撫ぜた。
 湯から上がると泥だらけの墨染めと長衣は無く、用意されていた新しい僧衣を三蔵は纏い、人形には白い単を着せようとしたが腰紐が足りない。すると小僧が慌ててやってきて、申し訳ありませんでしたと謝りながら差し出した。その後食堂ではなく客殿へと案内された二人に精進料理とミルクが用意されていた。住持の言伝のお陰でちゃんと温められたミルクが用意されていたのだが、人形は膳の前に座っても碗をじっと見つめたまま動かない。その様子に給仕のために控えていた小僧が、何か粗相があったのかと不安な顔つきになる。
 「あの、ミルクが熱かったのでしょうか?」
 「いや、違うがこのミルクを下げてくれ。それから俺を庫裏に案内しろ」
 「え、あの、そのミルクに何か問題でも…」
 「どうやらこいつは俺が温めたミルクしか飲まないようだ。だから俺がミルクを温める」
 「は?」
 訳が分からず目を丸くした小僧だが、三蔵の言い付けに背けず恐縮しながら庫裏へと案内する。その途中、渡り廊下で住持と行き会った。
 「おや、どうされました三蔵様。もうお食事は御済みですか」
 「実はその……」
 案内していた小僧が事のいきさつを話すと、耳を傾けていた住持がそう言えばと切り出した。
 「確かプランツドールは、目覚めた時に傍にいた人にしか懐かないというのも聞いた気がします。だとしたら貴方の責任 ではないでしょう」
 「あ、そうなのですか」
 心底ほっとした表情になった小僧とは対照的に、三蔵は紫暗の瞳を鋭くする。
 「それは本当か?」
 「えぇ、ただ噂ですから真意のほどは分かりませんでしたが、今のお話を伺うと本当だったようですね」
 「そうか。もし又思い出す事があれば教えて欲しい」
 「御意に」
 「では三蔵様、こちらでございます」
 住持が一礼して下がったので、表情を明るくした小僧が歩き出す。暫らく後渡り廊下には、緊張した面持ちで盆を持つ小僧とその後ろを歩く三蔵が歩いていった。
 客殿に戻ると人形が三蔵の顔を認めてぱっと明るい表情になる。そして三蔵の手から蓋碗を渡されると人形は、翠の瞳を輝かせてこくこくとミルクを飲む。飲み終えた人形は一息つくと三蔵に満面の微笑みを向ける。風呂上りのせいか、いつもよりも輝きを増した笑みを見つめてから三蔵も箸を動かす。冷めてしまった食事を無言で食べる三蔵と微笑を浮べる人形を、控えていた小僧が呆然として見ていた。



 「あれが最高僧サマとは恐れ入るね」
 庫裏で野菜を刻みながら年若い僧徒がぼやくと、その場にいたもう一人の僧徒も頷いた。
 「まったく。しかも最初入ってきた時は、どこの女の子が迷い込んだのかと思ったぜ。しかもあの髪と目だろ?最高僧サマは見た目も違うってか」
 二人でミルクを温めに来た金髪の最高僧の話で盛り上がっていると、風呂焚きの薪を取りに来た小僧が通りかかりそれに加わる。
 「驚きましたよ。最高僧になるとなんでもありなんですね。二人で風呂に入ってるんですから」
 「そりゃ人形だろ?若年の最高僧サマは人形遊びが必要なんだろ」
 下卑た笑いをした僧徒にもう一人が訊ねる。
 「それにしてもプランツドールは目玉が飛び出るくらい高い物だと聞いたが、なんでそんなの持ってるんだ?」
 「さぁてね。さっきこいつが言ってたみたいに、最高僧サマだと何でもありなんじゃないのか?」
 そこへ寺の者達の膳をもらいにきた小僧が庫裏に入ってきた。
 「最高僧様とプランツドールなんて初めて見ましたよ。どちらもあんまり綺麗で驚きました」
 興奮冷めやらぬ口調で話した小僧に、僧徒が目を向ける。
 「そうだな。ところでお前、どっちが最高僧さまでどっちがプランツドールだと思った?」
 年長の僧徒達と風呂焚き係りの小僧三人に注目されて、小僧はもじもじと口を開く。
 「え?あの…こげ茶髪が最高僧様で、金の髪がプランツドールじゃないんですか?」
 一瞬の沈黙の後、庫裏には笑いの渦が巻き起こった。
 「あっはっはっ、そりゃいいや」
 「確かにそうかもしれん、くっくっ」
 「え?あの、違うんですか?」
 二人の僧徒が笑い転げる中、一人おどおどする小僧に風呂焚き係りの小僧が笑いをかみ殺しながら言う。
 「お前、遠くからしか見てないんだろ?金の髪の方にチャクラがあったぞ」
 「ええっ!そう何ですか?あんな髪色見た事がないので、てっきり金の髪の方が人形だと…」
 「まぁ確かに俺もあんな髪は初めて見たな」
 「人形も形無しだな。いやある意味凄いのか。でそっちの人形の方はお前見たんだろ?」
 庫裏に篭っていたため人形を見ていない僧徒達は、風呂焚き係りの小僧に目線を移す。
 「ちらと見ただけですけど、とても綺麗でした。特にあんな翠の瞳なんて見た事ないですよ」
 ひゅーと僧徒が口笛を吹くと、いつまでも膳が来ないのを心配した小僧が庫裏にやってきた。すると庫裏に人が集まっていたので目を丸くした。
 「何かあったんですか?」
 「いや、今日来たお嬢ちゃん達の話で盛り上がってたんだよ」
 「あぁ、最高僧様とプランツドールの事ですね。でも人形も男の子のようでしたけど」
 「えぇっ!だってあんな綺麗な顔してて男?」
 「観用少女は聞いた事あるが、観用少年なんて聞いた事ねぇぞ」
 「本当か?それ」
 風呂焚き係りの小僧と庫裏にいた僧徒達に詰め寄られて、最後に来た小僧は訳を話した。
 「お二人が入湯している間、私はお二人が着ていた着物を洗おうと替えの着物を用意したんですけど、腰紐を一本置き忘れたのに暫らくしてから気付いて、慌てて持っていったんです。そうしたらお二人は丁度湯から上がられた時でして、三蔵様が人形の体を拭いている時ちらと見えたんです。私も驚きましたよ」
 その話を聞いて、盛り上がっていた庫裏の空気が急速に萎んだ。
 「なぁんだ、二人とも男だったのか」
 「しっかし何でこんなにがっくり来るかね」
 「訳ありって三蔵様が言ってたのは、そういう事だったんですね」
 そこへ件の二人の給仕をしていた小僧が、膳を下げて戻って来た。
 「ご苦労様。でお前の感想はどうなんだい?」
 「え?なにって、何が?」
 「今お前が給仕してきた三蔵様とプランツドールの事だよ」
 「あ、あぁ………えっと…」
 「あぁって、お前変だぞ。何かあったのか?」
 入り口付近に固まっていた小僧達の質問にも上の空な反応に、僧徒は溜息を吐いた。
 「大方見慣れないものを見て当てられたんだろ?ほらお前らが用意しないと、俺達も飯が食えないぞ」
 喋りながらも手を動かしている僧徒達に言われて、我に帰った小僧達は蜘蛛の子を散らすように一斉に仕事を始めた。しかし給仕していた小僧だけがまだ呆としていたため、他の小僧からぺしっと頬を叩かれやっと正気を取り戻して手伝いにまわる。慌しく動く中、僧徒が溜息混じりに呟く。
 「しっかしただでさえ高いプランツドールなのに、聞いたこともない観用少年なんてどのくらいするのやら」
 「そりゃ目玉が飛び出て落ちちまうんじゃないか?」
 それを聞いていた僧徒が料理を器に盛り付けながら答えた。






 「はぁはぁはぁ……」
 まだ夜も明けない暗い山道を二つの影が駆け下りる。その息遣いが静まり返った山に響く。先を行く者が手を引いて、後ろにいる者の足を少しでも速めようとしている。しかしあまりに急かされ足がもつれて転びそうになるのを、前の者が支えながら転がるように走っていく。麓まできた二人は長い石段の上まで来ると足を止めた。これを下りれば里であり、その先は街へと道が続いている。ほとんど一気に駆け下りてきた二人は、肩で息をして言葉も出せない。暫らくして呼吸が整ってくると、いつの間にか空の色が変わり始めているのに気付いた。闇から藍、そして紫色へと変化していて遠くの地平は水色になっている。夜明けは近い。先を行く者が額の汗を袖で拭い、後ろを振り返ってもう一人の手を取る。そして階段に足を踏み出そうとした時異変が起きた。鈍い音がするのと同時に声もなく体がくの字に曲がり、階段を一歩も下りることなく地面に倒れ臥す。横たわった体はそのまま起き上がる気配もない。そしてもう一人はかくんと膝を折り力なく座り込む。動かなくなった二人とは対照的に、空はますます忙しく色を変えていく。辺りはにわかに明るくなり、白み始めた空の向こうに日が顔を出す。光は溢れやがて全てに注ぎ、夜が明け始めた。




 「いない?」
 「はぁ、初めは雪隠かと思ったんですが、暫らくしても戻って来ないので他の者に聞いてみたのですが、今朝は誰も見ていないそうです。それで何か御用でも言い付かったのかと、こうして伺ったのですが…」
 「いや、俺も聞いてない」
 僧房の大部屋で寝ている小僧達だが起床した時、布団が一つだけ畳まれていて既に冷たかったと言う。それを不審に思った小僧がこうして僧徒に報告に来たのだ。
 「探したのか?」
 「いえ、これからすぐに勤行ですから」
 「どうしました?」
 小僧と僧徒が立ち話をしているところへ、住持がやって来た。事の次第を小僧が話すと、住持も用を言い付けていないと言って首を捻る。
 「修行が辛くて逃げ出したのでしょうか?」
 僧徒が眉を顰めて呟くと小僧が勢いよく首を横に振る。
 「でもあいつ、そんな事一言も言ってませんでした。それにそんな素振りもなかったですし」
 「確かに、私にもそうは見えませんでした。ところでここ最近何か変わった様子はありませんでしたか?」
 住持の言葉に僧徒は腕を組み、小僧は首を捻って考え込む。と暫らくして小僧があっと声を上げた。
 「そう言えば昨日、三蔵様とプランツドールの給仕をした後何やら様子が変でした」
 「あぁ、言われて見れば。受け答えも上の空と言った感じで浮ついた様子でした」
 小僧と僧徒がそれぞれ報告していると、渡り廊下を小僧が大慌てで走ってきた。騒がしいぞと僧徒が注意するのも聞こえない様子の慌てぶりに、住持が落ち着いて話し掛ける。
 「どうしました?」
 「た、大変です。住持職様。三蔵様のプランツドールがいなくなったそうで、今三蔵様が探しに行かれて…」
 息せき切った知らせに、その場にいた全員が顔を見合わせる。その後朝の勤行が取り止めになり、寺の者総出で探した結果、二人は山の麓で発見された。


 小僧に連れられて寺院に戻った人形は、三蔵の姿を見つけた途端走り出す。そして同じくらいの身長の三蔵に勢いよく抱きついた。予想外の行動に目を丸くした三蔵だが、あまりに強くしがみ付くので、引き離すのを諦めて小さく溜息を吐く。
 「一体何処にいたんだ」
 「里に下りる山道の石段におりました」
 「どうしてそんな所にいたんだ?」
 「それが、その……」
 三蔵は喋らない人形の代わりに付き添っていた小僧を質問攻めにする。しかしどうも歯切れが悪いので眉を顰めると、山門から僧徒や小僧達が数人固まって入ってきた。皆で戸板の端を持ち、戸板の上には小僧が一人横たわっていた。それを見た小僧は俯き、暗い顔になって話し出す。
 「実は人形の傍にいた者が、あの状態だったので……」
 無言で帰ってきた小僧の姿に三蔵は片目を眇める。戸板を持ったまま僧徒達が近付いてきて、石段の上にいた事、体を貫くような傷があり大量出血していた事、けれど辺りに武器は落ちていなかった事などを三蔵に報告する。息絶えた小僧の目は見開いたまま、驚愕と恐怖に満ちた顔で固まっていた。そこへ住持もやって来て、変わり果てた小僧の姿に言葉を失っていた。

 室内には重い空気が立ち込めている。床にのべられ清められた小僧を見ながら住持が重い口を開いた。
 「どのような理由でこの者が人形と一緒にいたのかは正直分かりません。なれどどうか、この者を赦してはいただけないでしょうか?」
 昨日自分と人形の給仕をしていた小僧を三蔵も見つめる。人形を連れ出したのは、売ろうしたのか、又は自分のものにしようとしたのか、もはや動かない小僧は答えるべくもない。
 「この者の命が尽きてしまった。それだけではありませぬか」
 罪など問うて何の意味があるのか、という答えに住持は拝礼する。と三蔵も黙って返礼をして立ち上がった。
 「出立します」
 山門には住持と三蔵と人形が立っている。見送りを断った三蔵だが、どうしてもと言われて住持だけが二人を見送る事になった。
 「これをお持ち下さい」
 そう言って住持は錫杖を差し出した。足がまだ完治していないのを気遣った計らいに、三蔵も黙って受け取る。地面に軽く突くと金属環が揺れてしゃらりと音がする。隣には、三蔵と同じ墨染めを着て笠を被った人形がいる。今まで来ていた長衣があまりにも傷んでいたため、代わりの衣である。
 「世話になった」
 「お気をつけて。旅のご無事をお祈り申し上げます」
 住持に見送られて三蔵は、人形と共に山門を出る。少し怪しい足取りを補うために錫杖を突くと、金属環が力強い音を響かせる。振り返らず歩いていく二人の姿が、木々の間に隠れて見えなくなるまで、住持は山門に佇みずっと見守っていた。


top/back/next

2007/04/02