暫らく一緒に旅をしていると、人形が不思議な力を持っているのに三蔵は気付いた。例えば湧き水を見つけてみたり、怪我した所に手を当ててもらうと傷の痛みが和らいだり、また傷痕も綺麗に治ったりする。しかしそれ以上に三蔵を驚かす出来事があった。 その日も二人は山道を歩いていた。幸か不幸か人形と出会ってから妖怪と遭遇していない。次の街には寺があると聞いて、そこで経文の情報が得られるかもしれないと期待を胸に、可能な限り足早で移動している。人形も最初に比べれば足取りもしっかりしてきて、休憩の回数も少しは減っていた。今日は結構な距離が稼げそうだと内心思いながら、晴れていてもどこか薄暗い変化の乏しい山道を三蔵は見据える。そんな中、先を歩いていた三蔵の袖が急に後ろへと引かれた。 「疲れたか?」 休みたい時や、何かあった時は袖を引くように言ってあるので三蔵は、足を止めて訊ねると人形は首を横に振る。そうして袖を持ったまま、木々の間を指差してそちらへ行こうと促す。 「……判った」 こういった一見気紛れとも取れる人形の行動には意味がある。それに大分慣れてきた三蔵は大人しく付いて行く。後を歩きながら枝を折って迷わないよう気を付けながら、人形に引かれるまま歩いていくと少し開けた所に出た。唐突に岩一つがあり、その前にある池からは湯気が出ている。注意深く池の周りを見てみると、土には動物の足跡が幾つか残っていて、どうやらここを利用しているようだ。これならば毒の心配はなさそうである。三蔵が池に手を入れてみると温かく、どうやら温泉らしい。試しに掬って一口飲んでみたが、癖のある味もしない。歩き詰めの二人には最高の休み処である。 「お手柄だな」 振り返った三蔵が唇の端を上げると、人形も嬉しそうに微笑んだ。 早速三蔵は粉末を温泉水で溶いてミルクを作り始める。しかし作っているうちに冷めてしまいカップを温泉に浸けようとして、自分達も入って温まってしまった方が効率的だと気付いた。そこで三蔵はカップを脇に置くと、墨染めの衣を手早く脱いでその下に金冠と経文を隠し、銃は手近に置いた。そして足でもう一度温度を確かめながらゆっくり入湯する。湯加減は程よく肌に当たる湯は柔らかい。全身の力を抜いた三蔵は、脇にあったカップを手に取り温泉に浸けてから気付く。 「湯加減はちょうどいいぞ。入らないのか?」 そう声をかけても立ったままの人形を見て三蔵は思い当る。人間と同じ姿だが、こいつはミルクを自分で温めることも出来ない人形だったと。今まで野宿の時は風呂に入らなかったし、家に泊めてもらった時は家人が人形を風呂に入れてくれていた。つまりここまで自分が風呂に入れてやってなかったと、三蔵は改めて気付いたのだ。 「ちっ、仕方ねぇな」 舌打ちをした三蔵は温泉から上がると、立ったままの人形に歩み寄る。すると人形は綺麗な翠の瞳を細めてにこりと微笑む。瞳に見合った綺麗な顔立ちで花のようのに微笑まれて三蔵は、これから自分がしようとしていることを再認識して赤くなって俯いてしまう。 (―― でも俺がやらなかったら、こいつはいつまでも埃塗れなままだ) 意を決した三蔵は、紐釦に手を掛け可能な限り早く動いた。筈なのだが照れと焦りで中々思う通りに動いてくれない。間近から注がれる人形の視線を感じながら、とてもではないが目を合わせられない。必死で奮闘して全ての衣服を脱がせた時、三蔵の手が止まる。 「………お前、男だったのか」 見慣れた自分と同じ物を発見した三蔵は、心底驚いて人形の顔を見つめた。はっきり言って棚上げなのだが、何しろその顔立ちと笑みからして、観用少女だと頭から信じて疑わなかったのだ。あまりの衝撃に息すら忘れ、垂れている筈の目を真ん丸くさせた三蔵の顔を見て、人形はもう一度花のように微笑んだ。 旅の疲れ以上の疲労を感じた三蔵は、全身を脱力させて再び温泉に身を委ねる。そして機械的にカップを湯に浸けていると、段々と頭が働いてきた。そう言えば自分も、女の子に間違えられてムッとしていた嫌な記憶をなんとか思い出す。 「まぁとにかく、付き合いやすくなったって事だな」 漸くその結論まで辿り着いた三蔵は、大きく息を吐き出して隣の人形にカップを渡した。受け取った人形は両手でカップを持ちこくこくとミルクを飲み、ほうっと溜息を吐く。そしてほんのりと桜色に染めた頬で翠の瞳をうっとりと細め、満開の花のように微笑む。三蔵は真っ直ぐなこげ茶髪に手を置きくしゃりと撫でてやりながら、髪も洗ってやるかと考える。そんな三蔵の口元も自然と笑みが浮かんでいた。その時、微かな音が聞こえて三蔵は手近の銃を取り構える。そのまま動かず暫し音と気配を探っていたが、特有の匂いがして三蔵は銃を下ろした。見えたのは鹿の親子で、そう言えば温泉の周りに蹄の跡があったのを思い出した。鹿達は少しづつ近付いているが、やはり警戒していて池からすこし離れたところで歩みが止まる。と 「すまない、少し借りている」 あまり大きくない声で三蔵が鹿達に話しかける。すると敵意がないのが通じたのか鹿の親子は更に近付き、三蔵達がいるのとは反対側の淵で温泉の水を飲み始めた。小鹿はともかく親鹿は、下から見上げればひと蹴りで殺されそうな迫力がある。恐いだろうかと三蔵が隣の人形を見ると、そこにはいつもの笑みがあった。しかも目が合ったのが嬉しいのか、更に笑みを深めて身を寄せ腕を絡めてきた。何となく気恥ずかしくなった三蔵は、ふいと顔を背けたが腕は払えない。そのままどんどん顔が火照ってきたので三蔵は、湯の温度が上がってきたのかもしれないと思った。 そしていつの間にか鹿の親子はいなくなっていた。 あと一山越えればというところで、ぽつぽつと雨が落ちてきた。 「くそっ、こんなところで」 三蔵は人形の手を取ると足を速める。最初はためらいがちだった行為だが、日が経つにつれて戸惑いがなくなり、今は自然と人形に触れる事が出来ていた。急ぎながら辺りを見回し、雨宿り出来そうな場所を探す。空を見上げれば、暗く垂れ込めた雲が今にも山に触れそうである。靄も掛かり始めていて、視界があるうちにせめて大きな木の下にでも入りたい。辺りを見回すのに懸命だった三蔵は、枯葉の下に隠れていた木の根に躓いてしまう。咄嗟にバランスを取ろうとしたのだが、そこは運悪く急傾斜だったため踏ん張りが利かずに草履が枯葉の上を滑る。転がると思った瞬間、三蔵は迷わず人形の手を離す。そして頭を庇うように体を丸め、枯葉に塗れて急傾斜を転がり落ちていった。 あちこちぶつけながらも三蔵は、木に掴まって止まろうとするが滑って上手くいかない。しかし傾斜が緩やかになってきため、速度が少し落ちたところを見計らって、太めの木にわざと体をぶつけてなんとか止まるのに成功する。 「………ぅ……くそっ……」 木にぶつかった衝撃で一瞬息が止まったが、なんとか息を吐き出し両手を付いて体を起こす。痛みはあるがそれ程ひどくなく、骨も折れてないようだ。三蔵は自分を止めてくれた木に背を預けて無意識に懐を探る。とその手が止まった。銃と経文の感触はあるのだが、金冠だけがない。思わず共衿をはだけて懐を覗くが、やはり無い。 「ちっ、落としたか……」 三蔵は片膝を付いて立ち上がり、転げ落ちてきた斜面を再び登ろうとして足が止まる。右足首がひどく痛む。どうやら折れてはいないようだが捻挫したらしい。見れば赤く腫れ上がって熱を持っている。しかし折れていないのであれば歩けると、三蔵は右足を引き摺るようにして左足を踏み出す。とその時、ざざーという盛大に滑る音が近付いてきた。条件反射で銃を向けた先にはなんと、斜面に両手を付いて足元を見ながら滑り落ちてくる人形の姿があった。すぐに銃を仕舞った三蔵は、足の痛みも忘れて駆け上がり人形を受け止める。が勢いはすぐには止まらず三蔵は、人形を抱きかかえたまま先程の木に再び体当たりした。 「…………っ……」 鈍い音と共に二人は止まったが、背中に固い木の衝撃を受け、正面からは人形の勢いと体重に圧迫されて三蔵は声すら出せない。暫らく二人は重なるように倒れていたが、やがて動き出した人形が心配そうに三蔵の顔を覗き込む。金髪に絡んだ枯葉を払い落とし、頬に付いた泥を拭うように撫でて、目を閉じたままの三蔵に声なく呼びかける。やがて眉間に皺を刻んで目を開けた三蔵は、不安そうな翠の瞳に出会う。 「大…丈夫だ。お前は…平気か?」 苦しそうに息を吐きながら話す三蔵に、人形は何度も頷きそして抱きついた。背中を軽く叩いてやりながら三蔵は、人形を抱きよせたまま上半身を起こす。しかし何か違和感がある。背中を叩いていた手を止めると、人形も気付いたのか少し離れた。そして紐釦を一つ外して胸元から金冠を取り出し三蔵に差し出す。そして呆気に取られて丸くなった紫暗の瞳に、誇らしげに微笑んだ。 金冠を受け取りながら三蔵は、もう一度人形を見つめる。推測だがきっと人形は、この金冠を拾い届けるために自分を追って滑り落ちてきたのではないだろうか。傷はないようだが上等な繻子織の長袍は所々擦り切れ、手も足も枯葉をくっつけ泥まみれになっている。なのにその笑顔だけはくすむ事なく、寧ろ輝いて自分に向けられている。三蔵はこげ茶の髪に付いた枯葉を払い、手足の泥を拭ってやると無言で人形を抱き締める。ありがとうの言葉を告げられない三蔵の無言の行為に人形は、より一層美しい笑顔で答えた。 悪い事と良い事は交互にやってくるらしい。怪我の功名とはよく言ったもので、右足を挫いてしまった三蔵だが、滑り落ちた場所の近くに岩屋を見つける事が出来た。そこで雨宿りをする事にした二人は、雨が本降りになる前に枯葉と枯れ木を集め、雨の降る今は焚き火をして暖をとっている。しとしとと、時にざあっと降る雨は止む気配が無い。岩屋の入り口に木の根が下がり、そこから伝い落ちる雨水で手拭いを濡らした人形が、火の傍に座る三蔵の元へと戻る。そうして手拭いを軽く絞り、普段してもらっているように三蔵の顔や手に付いた泥を拭い始めた。 (成る程、手拭いをせがんだのはこういう事か…) 人形の行為に驚いて成すがままになっていた三蔵だが、足の泥を拭おうとした人形の手を掴んだ。 「お前のほうが汚れてるぞ」 そう言って手拭いを人形から奪うと、折り返してまだ綺麗なところで人形の泥を拭ってやる。すると珠のように輝く肌が現れ人形が微笑む。しかしすぐに手拭いは泥まみれになってしまう。三蔵は汚れた手拭いを持って立ち上がり、入り口までびっこをひきながら歩くと、人形が支えようとして手を添え体を寄せてきた。 「この程度の距離なら大丈夫だ」 心配するなとこげ茶髪を撫でたが人形は離れない。三蔵は苦笑を浮べて落ちる雨水で手拭いを洗うと、出来るだけ人形を綺麗にしてやった。 ぱちぱちと小さな焚き火から木の爆ぜる音がする。日が落ちた山は月も星もなく真っ暗闇になる。幸い枯れ木をたくさん集められたので、今夜の薪は不自由しないだろう。しかし自分の分は勿論、僅かに残っていた人形の粉ミルクも転がった拍子に袋が破けて飛散してしまい、今夜は二人とも夕飯抜きである。それでもこうして雨を凌げて暖も取れるのは御の字だな、と三蔵は新たな枯れ木を火にくべる。炎は少しの火の粉を舞わせて大きくなったが、すぐに治まり安定した揺らめきを取り戻す。その炎の色を白い肌に映した人形は、挫いた三蔵の足首に手を当てて目を閉じている。まるで一心に祈りを捧げているかのように身動き一つしないで、三蔵の負傷した足を癒している。その姿に炎の揺らぎが顔に陰影を与えて、いつもより大人びたように見える。それにしても不思議な人形だな、と三蔵は思う。腫れている箇所に触れている手が、うっすらと光っているように見えるのだ。その人形の手当てのお陰で今は痛みが和らいでいる。こうした触れ合いに嫌悪を抱かないのは今のところ、この人形だけである。三蔵は自分から人形の手の上に手の平を置いた。 「大丈夫だ。大分痛みが治まってきた」 しかしまだ腫れている足首を見つめて人形は、心配そうに三蔵を見つめる。 「お前のお陰でかなり楽になった。後は冷やしておけば大丈夫だろう」 その言葉を聞くなり人形は、傍にあった手拭いを持って急いで入り口に行き雨水で手拭いを冷やすと、すぐに戻ってきて三蔵の腫れた足首の上に置いた。そして顔を上げると優しく微笑む。 (これは早く治って欲しい、だな) 最初は何も出来なかった人形だが、最近は自発的な行動も多くなってきた。と同時に三蔵も、言葉はなくとも人形の言いたい事が大分理解出来るようになっていた。 「……もう寝ろ。明日雨が上がれば出発するぞ」 そう言って三蔵は艶めくこげ茶髪をくしゃりと撫でたが人形は、首を横に振って寄り添ってきた。 「どうした?疲れてるだろ。明日も歩くぞ」 いつもなら疲れで目を擦るような時間なのに、今日に限って寝るのを拒んでいるようだ。どうしたのだろうと三蔵が首を傾げると、人形がおもむろに顔を上げた。その表情に三蔵は息を呑む。まるで雨が苦手な自分の心を映し出したように、翠の瞳は哀しみに沈んだ憂いた色をしていたのだ。いや、自分の怪我を心配しているだけだと思ったが、それ以上の感情を汲み取れるくらい人形とは共に過している。すっと筆で書いたような柳眉を下げ、耐えるように赤い唇をぎゅっと結び、いつもは花のように微笑む顔はどこか哀しみに耐えているように見える。いつもより深い色になった翠の瞳とその表情は、見ているこちらが胸を突かれる。ぎしりと音を立てて軋み痛む胸を隠すように三蔵は、人形の背に手を回して壊れ物に触れるように抱き締める。すると人形も答えるようにぎゅっと抱きついてくる。痛いみがどちらか判らないくらい二人は固く抱き合う。 (そう言えば、初めてだったな……) 目を閉じて人形の温もりを感じながら三蔵は、雨の夜を人形と過すのは初めてだと気が付いた。いつもは繰り返し訪れる記憶が悪夢のようにやって来て、眠れぬ夜を過す。今も尚その気配はあるのだが、こいつのお陰で今夜は少し眠れるかもしれない。三蔵はぼんやりそう思うと抱き締める腕にほんの少し力を入れる。爆ぜる焚き火は、雨に怯えて抱き合う子供達を守るように赤々と燃える。その向こうで闇に降る雨はまだ止みそうもなかった。 |
top/back/next |
2007/03/27