翌日の夕暮れ時、一山越えてなんとか麓に辿り着けた二人だが、出てきた村からはまだそれほど遠くない。考えた三蔵は、人目を避けて再び山で野宿するのがいいだろうと結論した。しかしミルクも含めて食料も必要なため、自分一人で街の店まで行って人形には待っていてもらう事にした。だが道の近くでは人目に付きやすいし、昨日泊まったような洞穴もないため、何処か待っているのに良い場所はないかと探し歩いていると、枯葉の上を滑る音がした。 「おい!」 足を滑らせ身体が斜面を転がっていきそうな人形を、三蔵が咄嗟に手首を掴む。 「大丈夫か?しっかりしろ」 片手で人形を支えた三蔵はもう片方の手を差し出す。と人形も腕を伸ばしてきて両手で掴まる。そして人形も三蔵が支えてくれている手を頼りに、枯葉の上を滑らないよう気を付けながらゆっくりと足を蹴って、三蔵の元まで辿り着いた。そんな些細な事だったが、二人は疲れて座り込んでしまう。 「ったく、気を付けろよ」 大きな安堵の溜息を吐いた三蔵が呟くと、まだ繋がれていた手がぎゅっと握られる。驚いて人形を見ればひどく嬉しそうに微笑んでいた。日の光を浴びた翠は、生き生きとした森の緑にも似て鮮やかだ。三蔵は悪態を吐く事も出来ずに握られた手に力を込める。この人形は今までずっと眠っていて、目覚めたらすぐに山越えをするため、ずっと歩かなければならなかったのだ。随分とお腹も空いているだろう。人間と違ってミルクだけでいい、という話らしいがそれでも活動するためのエネルギーは必要だ。 追われる身でもある自分とあまり変わりない身の上の人形を見つめて、さてどうしたものかと三蔵が思案していると、ざあっと風が吹いた。その音に振り返った三蔵は、風を孕んで大きく揺れる竹の葉を見つける。今いる道からは外れているが、もう少し下れば竹林の一群があり、今も風を受けて竹の葉がざあざあと大きな音をさせている。その様子を眺めていた三蔵は立ち上がり、人形を連れて竹林へと足を進めた。思った通り竹林の中は、今までいた雑木林よりも暗く、ここなら目立たないだろうと三蔵は足を止める。そして人形を待たせて、今度は何本かの折れた竹を集めてくると、並べて座れる場所を作る。 「いいか、俺はこれから街に行って食料を調達してくる。勿論お前のミルクもだ。だからここで待っていろ、必ず戻って来る」 そう言って肩に手を置いて座らせると、柳眉を下げて人形は寂しげな顔になる。雄弁な翠の瞳は離れたくないと言っていたが、肩に置いた手に力を込めると儚げに微笑んだ。ここなら暗く山道からも外れているため人には見つかりにくいし、寄せ集めの折れた竹が目印になってくれる筈だ。三蔵は見つめる翠の瞳に見送られて竹林を抜けて、街へと向かった。 この街には寺がなかったため買い物をした序でに、妖怪の夜盗の話を聞いたが特に有益な情報は得られなかった。それが判れば長居は無用である。三蔵はなるべく急いで竹林に戻ると、薄暗い斜面を登っていった。落ちた竹の葉は層になって滑りやすく、たまに足を取られながらも竹に掴まったりしながら三蔵は、息せき切って竹の寄せ集めた場所まで戻る。しかしそこに人形の姿はどこにもなかった。 「おいっ!何処に行った?」 呼びかけても返事はなく大きな声は竹林に空しく吸い込まれていく。辺りを見回してもやはり姿は見えない。三蔵は荒い息を整えるために大きく息を吐き出すと、寄せ集めの竹の上にどっかりと腰を下ろす。そして買ってきた粽を取り出し食べ始めた。腹が減っては戦は出来ない、というのはこの旅で学んだ教訓だ。時間を惜しんで戻ってきたが、人形がいないのでは仕方ない。先ずは自分の空腹を満たすことを優先させながら、三蔵はこの後どうするかを考える。人形がいたため昨日はあまり移動距離を稼げなかったし、今食べたばかりなのでまだ自分の体力に余裕もある。ならば少しでも進もうと決めて、食事を終えた三蔵は水を飲んだ。買ってきたミルクを見つめて、もし見つからなかったら自分が飲んでしまえばいいだけだと思った。 三蔵は竹林と周辺の雑木林を隈なく探したが結局人形は見つからなかった。いないのであれば仕方が無い。体のいい厄介払いが出来たと三蔵は山を下りるが先程とは違うルートを選ぶと小さな小屋があった。天窓があるくらいの小さな小屋だったため、中を覗く事が出来ない。気配はなさそうだが念のため扉を叩いてみるが返事はない。三蔵は警戒を解かずにそっと扉を開けてみると、やはり中には誰もいなかった。割られた竹が何本もあり、その一本が細かく裂かれている。空席の粗末な椅子がぽつんと置いてあり、どうやら作業場のようで、隅には作りかけの籠も置いてあった。溜息を吐いて三蔵が小屋を出ると、直ぐに人の気配がして身構える。 「おや、こんな所に何か御用ですか?お坊様」 そこにいたのは驚いた顔をした老女で、精一杯目を丸くしていた。そのうち瞼を下げて皺の中に目を埋没させると、少し首を傾げて三蔵をしげしげと見ながら何度か瞬きをする。 「……もしかして、誰かをお探しですか?」 「あ、あぁ。翠の目をした自分と同じくらいの…」 「あぁ、そうでしたか。そうでしたか。やっぱりあの子は誰かを待ってたんでしたか。その子なら拙宅におりますので、こちらへどうぞ」 笑みを浮べた皺くちゃの顔で何度か頷くと、老女は先を歩き始める。どうするか迷ったのは一瞬で、結局後ろを歩き始めた三蔵は早々に前言撤回した。その小屋から暫らく歩くと木々の間にぽつんと小さな家が見えてくる。老女はその家までゆったり歩き、扉を開けると声を上げた。 「お前さんの待ち人を連れて来ましたよ」 老女に招かれて家に入った三蔵は、食卓の椅子に座っている子供を見つける。顔を上げた子供は、忘れようもない綺麗な翠の瞳をきらきらと輝かせて口元に笑みを浮べると、椅子から立ち上がり小走りで三蔵に向かう。そして勢いよく抱きつくと、まるで久し振りに会ったかのような嬉しさに満ちた笑みを浮べた。人形の行動に驚いて最初は硬直していた三蔵だが、やがて肩の力を抜いて小さく溜息を吐くと、そっと抱き返す。 「お前、どうしたんだ?あそこを動くなと言ったろ」 咎めるような口調ではなく、安堵した声で呟くと代わりに老女が答えた。 「その子を責めないでやって下さい。私がその子を竹林から連れ出してしまったんですよ」 老女は申し訳なさそうに言いながらもほっとした表情をして、二人に椅子を勧めた。 「竹林の中にこんな綺麗な子が一人で座っていたからびっくりして、迷子かと思って家に連れてきたんですよ。でも悲しそうな顔をして口もきかないもんだから、きっと親御さんも心配して探してるだろうと思って、私も探しに出たんですよ。そうしたらお坊様がいて、もしかしたらと思って聞いてみたんですよ」 でもあんまり綺麗なお坊様だからまた驚いたと言いながら、老女はお茶を淹れて三蔵と人形の前に蓋碗を置く。それを見て三蔵は自分がミルクを買ってきたのを思い出した。 「すまんがこいつはミルクしか飲まないんだ。この蓋碗だけ貸してもらえないか?」 「え?あぁ、お茶が飲めないんですね。いいですよ、じゃあコップを持ってきましょう」 三蔵が持っていたミルク瓶を見せると、老女はすぐにコップを持ってきてくれる。それに三蔵がミルクを注いで前に置いたが、人形はコップを持とうとしない。 「?お前ミルクしかだめなんじゃなかったのか?」 「温めると飲みやすくなりますから、温めてきましょうか」 「……すまんが、頼む」 老女は快く引き受けると、ミルクの入ったコップと三蔵の持っていたミルク瓶を持って庖厨へと消える。老女がミルクを温めている間、三蔵は人形を見つめた。正直観用少女の事は噂程度しか知らない。生きている人形、大変高価なものである事、そしてミルクを与えればいい、その程度の知識だ。勿論見たのは初めてだし、どうやって取り扱ってよいものやらさっぱり判らない。早速最初の関門に引っ掛かっているわけで、どうやったらこの人形が飲んでくれるのか思案に沈む。いくら人形とはいえ生きている以上、エネルギーを摂取しなければ死んでしまうだろう。先が思いやられると思いながら、三蔵は人形を見つめた。 「お前、腹減ってないのか?」 直接聞いてみると人形は首を横に振って否定してから、また三蔵をじっと見つめる。やがて老女が蓋碗を持ってやってきた。 「さぁどうぞ。今度は飲めるかしらね」 食卓の上に置いて蓋を取ると、碗のミルクからふわりと湯気が立つ。しかし人形は白い表面をじっと見つめたまま手に取ろうとはしなかった。 「おや。ちょっと熱そうだったかしら」 困り顔になった老女が向かいの椅子に座ると、人形は顔を上げて又三蔵の顔をじっと見つめる。相変わらず美しい瞳だが、物言いたげな憂いた色を見て三蔵ははっとする。 「もしかして、お前……」 翠の瞳を見たまま次の言葉を言うよりも早く、家の扉が勢いよく開いた。 「大変だ婆さん!山火事だ。もしかしたら隣村かもしれん」 「えぇっ!?本当かい?うちの娘が…」 「だから知らせに来た。あれ、お客さんかい?」 勢いよく飛び込んできた男は食卓の椅子に座る二人の子供に気付いて、また驚きの声を上げる。それを老女は上の空で聞きながら男へと寄って行く。 「あ、あぁそうだよ。ところで本当に山火事なのかい?」 「あぁ、山仕事で使う煙の量じゃねぇし、焼ける匂いがこっちの方までしてくる。俺はこれから村の皆と一緒に隣村まで行ってくる」 「気を付けて行っとくれよ。あとうちの娘の無事も頼んだよ」 「判ったらすぐに知らせる。じゃあ今から行ってくるから」 それだけ言うと男はすぐに出て行く。老女は男を見送った後、三蔵達を振り返ると気もそぞろに言った。 「危ないから外には出ない方がいいよ。この家にいてくれて構わないから。私はちょっと様子を見てきますから」 落ち着かない様子で扉も閉めずに老女が出て行くと、三蔵は扉を閉めてやってから窓に近付き外の様子を窺う。先程通って来た小屋がちらと見えて、その辺りに人が集まっていた。山を仰ぐと霧のような灰色の煙が立ち昇り、雲のように現れては空へと上がっていく。風向きのせいか、先程の男が言った通り焼ける匂いが微かにする。山向こうの火事は何が原因かは判らないが、隣村まで行った者がこの人形の事を聞いてくる可能性は大である。人々が火事に気を取られている隙に出発するか、もしくは日が落ちるのを待って出るか三蔵が逡巡していると、視線を感じた。振り返ると座ったままの人形が、じっとこちらを見ている。 「あ、あぁ判った。ちょっと待ってろ」 三蔵は窓から離れるとミルクの入った蓋碗を持って庖厨へと入る。そこには先程老女が使った鍋とミルクの瓶が置いてあった。三蔵は冷めてしまった蓋碗のミルクを鍋に入れ、瓶からのミルクを少し足して火を点ける。そして鍋の内側に白い小さな泡が現れると、すぐに火を消して蓋碗に移し替える。温めたミルクの入った蓋碗を持って庖厨を出ると、人形がきらきらと輝かせた期待の眼差しで待っていた。食卓の上に置いて蓋を取ってやると、人形は碗に両手を添えてゆっくりと口付ける。そしてコクコクと一息にミルクを飲み干してから下皿の上に碗を置く。そして呆然と見ていた三蔵と目が合うと、輝く花のような笑みを浮べた。 「お前な……」 どうやら先程からずっと見ていたのは、自分にミルクを温めて欲しいと訴えていたのだと判って、三蔵は気が抜けて椅子に座り込む。しかしこれ以上美味しいものはない、といった笑みを見せられて何も言えない。再び向けられた翠の瞳に三蔵は、もう一杯ミルクを温め飲ませると人形も満足の笑顔になるが、満腹になって眠くなったのか目を擦り始める。大きな溜息を吐いた三蔵は、その後昼寝を始めた人形に文句一つ言わずに付き合った。 |
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2007/03/23