今日もハリセンの快音が、東方随一の大寺院慶雲院に鳴り響く。既に日常化している音なので僧達の動きは止まる事がない。しかし今度は悟空が何をやらかしたのか、という話だけは僧達の間に伝わっていくのだ。ハリセンとは最早セット扱いになっている三蔵の怒声も、己が身に降りかからなければ特に問題の無い寺院だった。
 「お前の分は別に用意してあっただろうが!」
 「だって並べて置いてあったから、それも食べて良いのかと思ったんだよ!」
 「何でも自分の分だと思うな、この猿!」
 再びハリセンで叩かれた悟空だが、甘んじて痛みを受けている。何しろ悪いのは自分である。二つの皿に乗ったお菓子を食べ尽くしてから気付いたのだ。もしかして一つは八戒用の砂糖菓子だったのかもしれないと。案の定、山盛り桃まんだけが悟空用のおやつだった。三蔵が八戒を呼びに行っているほんの僅かな時間の出来事だった。
 「ごめん。本当にごめんな、八戒」
 肩を落としてしょげ返る悟空は勢いよく頭を下げる。すると八戒は悟空の手を取り、にこりと微笑み怒っていない事を伝える。顔を上げた悟空は八戒の表情にほっとして三蔵を振り返った。
 「なぁ三蔵!これからすぐ天ちゃんの店に行こうぜ。そんで八戒に砂糖菓子を食べさせてやろうよ。俺が行って買ってくるのでもいいけど、時間かかっちゃうしさ」
 「だめだ」
 「え、何で?」
 「俺はこれから斜陽殿に行かなけりゃならねぇんだよ。それから行ったら夜になっちまう」
 「じゃあ俺が八戒連れてくからさ、2人で行ってくるよ」
 「だめだ」
 「えー、何でだよ。八戒のこと連れてくようなヤツがいたら、俺ぶっ飛ばしてやるからさ。俺が強いの三蔵だって知ってるじゃん」
 「食い物に滅法弱い猿が何言ってやがる。それに八戒はお前と違って別に今日でなくとも大丈夫だ」
 「でもさぁ三蔵、この前三仏神とこに行ってすぐ帰って来なかったじゃん。もし又すぐに帰って来なかったら、八戒ずっと食べられなくてかわいそうじゃん」
 「そうした張本人のお前が何言ってやがる」
 「だから俺が八戒連れて天ちゃんのとこに行けばいいんだろ?」
 ここまで言い張る悟空は、どうやら挽回を図っているのだと三蔵は気付いた。確かに八戒の護衛として力は問題ない。しかし知能で言えば悟空は見かけ以上に子供で、仏典や天蓬から借りたあらゆるジャンルの本を読みこなす八戒の方が余程大人である。せがむ悟空に、不安要素の大きい三蔵は一向に首を縦に振らない。そんな中ふと視線を感じてそちらを向くと、じっと見上げてくる物言う翠の瞳があった。そこで三蔵は当時者に聞いてみる事にした。
 「八戒、お前はどうしたいんだ?」
 三蔵の声に悟空も振り返り八戒を見つめる。すると翠の瞳は、悟空と一緒に出掛けたいと訴えてきた。
 「ほら三蔵!たまには八戒も俺と出掛けたいんだよ。だっていっつも三蔵と一緒だもんな」
 得意げに胸を張る悟空の横を、八戒はするりと抜けて隣の部屋へと移動する。そしてすぐに戻って来るとショックで動けなくなっている三蔵の前に立った。手に数冊の本を持って見つめてくる八戒に三蔵は正気を取り戻す。
 「……そうか、もう読んじまったのか。……分かった」
 読み終わった本を返却したいのと、悟空の気持ちを汲み取ってやりたい八戒の気持ちを察して三蔵は溜息を吐いた。
 (ったく、どっちが世話を焼いてるんだか)
 煙草を吸いだした三蔵の向こうで、悟空は八戒の手を取りお出かけお出かけとはしゃいでいる。
 その後三蔵と八戒と悟空の三人は一緒に楼門を出て、途中の道で二手に分かれた。その時悟空は、日が落ちるまでに必ず帰る事と八戒から目を離さない事を、耳にタコとイカが出来るくらい繰り返し言われ続けた。





 「おや珍しいですね、貴方達2人だけなんて。というか初めてじゃありません?よくあの三蔵が許可しましたね」
 店に入ってきた二人に意外そうな顔をしたものの、天蓬はすぐに笑顔で迎え入れた。
 「うん、俺が間違って八戒の砂糖菓子を食べちゃったんだ。だから早く八戒に食べさせたくてさ。でも三蔵は三仏神んとこに行かなくちゃいけないから、俺が連れてきたんだ」
 得意げに話す悟空に天蓬はお茶と茶菓子を用意する。今日は金銭餅と呼ばれる縁起菓子を用意した天蓬だがそれが偶然なのか、それとも三蔵がいない事への当て付けなのか、まったく関知しないで食べられる悟空は幸せ者である。先ずは渇いた喉を美味しいお茶で潤した後、悟空は今日も山盛りになった茶菓子を食べ始めた。そして天蓬は、隣に座る八戒には砂糖菓子を出した。
 「さぁ八戒もどうぞ。お腹空いてるでしょう?」
 食べ終わったら私と一局打って下さいね、と言われて八戒は嬉しそうに頷く。二人の子供がお菓子を食べるのを眺めて、天蓬も優雅にお茶を飲む。これに三蔵が加わるとどこか殺伐とした雰囲気があるのだが、本日は穏やかでほのぼのとした空気が流れていた。


 やがて天蓬と八戒が碁を打ち始めると、食べ終わった悟空は満腹感も手伝って船を漕ぎはじめる。
 「クスクス、悟空お昼寝時間ですか?」
 「う〜〜、俺そのいごって苦手でさ。見てるだけで眠くなる」
 「じゃあこっちの奥へどうぞ。横になれる長椅子がありますから」
 「ん〜、ありがと」
 天蓬は今にもくっつきそうな瞼をこする悟空を店の奥、屏風の向こうへと連れて行く。そこには仮眠用の大きな長椅子があり、悟空は横になるとすぐ眠りに落ちた。
 「おやおや、八戒の護衛で疲れちゃったんですかね」
 気持ちよさそうに眠る悟空に上掛けをかけてやった天蓬は、店の表へと戻り八戒との碁を再開した。
 「八戒、最近碁を覚えたばかりとは思えないくらい筋がいいですね」
 捨石を使った打ち欠けに天蓬が呟くと、八戒は微笑みを浮べる。
 「三蔵が貴方との対局を悉く阻止してくれたのは、こういう意図があったんですねぇ。毎日打ってたんですか?」
 頷く八戒に天蓬も微笑む。
 「筋がいい上に、三蔵と僕を相手にしていればあっという間に上達しますね」
 「天……」
 「え?」
 「天…」
 聞こえた声に呆然とした天蓬は、八戒を見つめる。どうやら自分の名前を呼ぼうとしているらしいが、何故か天までで引っ掛かっているらしい。
 「八戒、もしかして僕の名前を呼ぼうとしてくれてます?」
 こっくりと頷いた八戒はもう一度天、と言ってその後が続かない。困り顔で続きを言おうとしているのだが、どうしても言えないらしい。その原因を思い付いた天蓬は、ふわりと微笑み鳶色の瞳を細めた。
 「天蓬、でいいですよ」
 「天蓬…」
 やっと言えた名前に八戒は嬉しそうに微笑む。さらさらと流れるこげ茶髪は丹念に磨かれた黒檀のように艶めき、透明感をもった白い肌は真珠のようで、惹きこまれるような翠の瞳は煌めく宝石の如きである。見る者を虜にする美しさと微笑みは、店に来てから一段と輝きを増している。
 (本当に、綺麗になりましたよねぇ)
 感嘆の溜息を吐きながら天蓬も幸福の笑みを浮べる。そしてふと、八戒が途中までしか呼べなかった原因を思い付いた。悟空は天ちゃんと呼び、三蔵は天蓬と呼ぶ。恐らく八戒はどちらで呼べばいいのか迷ったのだろう。動かない天蓬に八戒は再び桜桃のような唇を開く。
 「天蓬」
 「あ、あぁ…確かに僕の手番ですね」
 幸せのあまりすっかり囲碁の事など忘れていた天蓬は、思い出したように碁笥に手を入れる。しかし花が咲き乱れ蝶が舞い飛ぶ頭で集中するのは難しい。
 (まさかこれも三蔵の手立てじゃないでしょうねぇ)
 碁石を見つめた天蓬は、かなりの時間をかけて漸く一手を打った。


 「すみません八戒、打ち掛けです。ちょっと待ってて下さい」
 割打ちしたところで天蓬が小声で話すと、八戒は頷いた。直後に店の扉が開いて客が入ってきたのを見て、天蓬は立ち上がり花咲く笑顔から営業スマイルへと一瞬で変えてみせた。
 「いらっしゃいませ。本日お客様はどのようなタイプをお求めで?」
 「あ、いや人形じゃなくて。その、お茶が欲しいんだが…」
 「左様でございましたか。種類がございますが、どちらをお求めですか?」
 「いや種類は何でもいいんだ。まぁ贈答品に使いたいんだが…。その、お薦めとかは……」
 「左様でございますねぇ。でしたら……」
 天蓬が店の奥にある戸棚から幾つか選んでいる間、客は物珍しそうに店内をキョロキョロと見回している。それぞれ個性的な椅子に座り目を閉じて待つ、綺麗な人形達を見て回っていると一体だけ目の開いた人形がいた。碁盤の前に座りじっと見つめる瞳は、吸い込まれそうな程美しい翠色をしていた。
 「ちょ、ちょっと、ちょっと。あれ!あれも人形かい?」
 「え、あぁ、そうですよ。ただあちらは、既に売れてしまったものでして…」
 卓の上に幾つかの茶缶を並べながら天蓬が説明すると、客は茶缶を全く省みず人形だけを見つめていた。
 「じゃあ、どうしてここにあるんだい?中古品?」
 「いえいえ、あちらの人形は大変デリケートな最上級品ですので、時々こうしてメンテナンスに来ているのでございますよ」
 「メンテンナンスって…、もしかして囲碁をする事がかい?」
 「えぇ、あちらは観用少女ではなく大変数の少ない観用少年ですので、持主の方が大変気遣っておいでなのです。遊び一つも違うものですから、こうしてお相手をしている次第なんですよ」
 「へぇ〜、確かに観用少年なんて初めて聞いたよ!面白いなぁ、観用少年は遊びに囲碁を打つのかぁ」
 「この人形がたまたまそうだった、という事でございますね。観用少女も個性がありますので、歌うプランツというのもございます。お気に召されましたか?」
 「いやぁ〜、大変高額だと聞いてるからねぇ。とてもじゃないが高嶺の花だよ。……でもちょっと見てもいいかい?」
 「えぇ、どうぞ」
 客は天蓬の許可を得ると他の人形には目もくれず、真っ直ぐ八戒に近付く。そうして横からじっくり眺めた後、八戒が見つめる碁盤を目で追った。
 「ええっ!こんなすごい碁をこの人形が打つのかい?本当に人形なのかい?いや、その前に本当に男の子?すごい綺麗じゃないか!」
 あまりの驚愕に瞬きするのを忘れるくらいに目を見開いた客は、天蓬を省みる。と天蓬は優美な顔に営業スマイルを張り付かせて答えた。
 「そうでございます。お客様も最上級品をお求めいただいて、素晴らしい愛情で育てていただければ、このようにそれは美しい人形になる事請け合いでございますよ。それに美しさは人間であっても男女は関係ないと思われますが」
 「いや、まぁ確かにそれはそうだが……ところで参考までに、この人形はどの位なの?」
 「そうでございますね。現在はお売り出来ませんので、この人形をお買い上げいただいた時の値段なら…」
 天蓬はおもむろに筆と札を取り出すと、さらさらと書き付けて客の眼前に突きつけた。それを見た客はあまりの値段に心配に成る程目を突き出し、跳び退った拍子にカーテンにしがみ付く。
 「いやぁ高い高いと聞いてはいたが、これ程とは……。値段を見ただけで目玉が落ちるどころか心臓も止まりかけたよ。いやいや、健康のためにも庶民には無理な代物だね」
 そう天蓬に言い訳しつつも客の目は八戒から離れない。しかし肩を落として大きな溜息を吐くと、そのままふらふらと店の出口へと向かった。
 「あ、お客様。お茶はいかがなさいますか?」
 「…あ?あぁ、そうだった、そうだったお茶だよ君。うん、じゃこれでいいよ。そうだね、その紙で包んでくれ。いや、リボンは結構だよ」
 目当てのお茶を購入したにも拘らず、しょんぼりと会計を済ませた客は帰り際、もう一度八戒を振り返り嘆息を洩らして出て行った。
 丸くなった背中を見送った天蓬はくるりと振り返り、先程とはまったく違う華やいだ笑みを浮べて碁盤の前に座った。
 「さぁお待たせしましたね、八戒。続きを打ちましょうか」
 今まで固い顔をしていた八戒は、天蓬の言葉に頷き花のように微笑んでから碁を打った。
 「三蔵のいない間に又記録更新ですね、八戒。まぁ今日のお客様はすんなり帰ってくれましたけど」
 言いながら天蓬も碁を打つ。サバキを長考している八戒は真剣に碁盤を見つめていて、天蓬は微笑んだ。
 (三蔵がいなくて本当に良かったですねぇ)
 八戒を購入したいという客が来た時の不機嫌さと言ったら、空気が悪い事この上ない。のんびりとした午後の昼下がり、天蓬は八戒との碁を楽しんだ。


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2007/09/19