ある日の事、三蔵は八戒ともう一人の子供を連れて店にやって来た。
 「おや、いらっしゃい三蔵。漸く僕に八戒を譲る気になったんですね」
 「何寝惚けたこと言ってやがる」
 「だってその子、八戒の後釜なんでしょう?」
 上機嫌な笑みを浮べた天蓬が初めて見る子供へと視線を落とす。とまん丸な珍しい金晴眼と目が合った。
 「おじさん誰?」
 「
―――――― 、僕はこの店の店主で天蓬と言います。天ちゃんと呼んでください」
 「わかった、天ちゃんだな。俺悟空。よろしくな」
 天ちゃん天ちゃん、と繰り返す悟空という子供を見る天蓬の笑みは張り付いている。三蔵が心の中でガッツポーズをしていると、氷を纏った声が聞こえてきた。
 「貴方、仕込みましたね」
 「そんなの覚える頭がねぇよ」
 「ところであの子、貴方が生ませた隠し子です?」
 「……貴様、分かってて言ってやがるな」
 「何の事です?僕のことを第一声でおじさん呼ばわりするのが仕込みでないなら、血の繋がりを疑って当然でしょう?」
 どうやら復讐のターゲットを保護者である自分に合わせてきたと悟った三蔵は、げんなりしながら答えた。
 「あんまりうるせぇから拾っただけだ」
 「つまらない男ですねぇ、ここは話を合わせておくものですよ」
 「肯定したら既成事実として流布するつもりだろうが」
 「空気は読めないくせに、変なところで勘が良いんですね。こんなひねくれた破戒僧をどうして八戒が選んだのか、僕にはさっぱり分かりませんね」
 「お前にだけは言われたくねぇな…」
 護法が視えるほど気配に敏いヤツが、悟空が妖怪だと分からない筈ないのだ。完璧な営業スマイルを浮べたままの天蓬に、三蔵の眉間の皺が深くなる。いつもの不穏な空気を漂わせる二人の向こうで、悟空と八戒は楽しそうに店の中を見て回っていた。

 その後、今日も店内には碁を打つ音が響いていた。対局する二人の間に座り八戒が碁盤を眺めるのもいつもの光景である。新たなメンバーとなった悟空は、堆く積まれた脆麻花という茶菓子を嬉々として食べていた。
 「この一局に勝ったら、今度こそ八戒と打たせてもらいますからね」
 「まだ覚えたばかりだ」
 「時間は関係ありませんよ。八戒はとても賢いですし、覚えが早いに決まってます。貴方も熱心に指導してるんでしょ?」
 「たまにな」
 「三ぞー、たまにって毎日のこと?」
 思わぬ声に三蔵は容赦なくハリセンを振り落とす。素晴らしい快音の後に悟空のいてぇという大声が響いた後、天蓬の笑い声がそれに重なった。
 「成る程、天然ですね悟空は」
 「猿だ」
 きっぱりと言い切った三蔵に悟空はひでぇと文句を言ったが、目の前にある茶菓子に目を移すと、すっかり忘れたように食べ始める。
 「喉が渇くでしょう。悟空、お茶を淹れましょうか?」
 「うん!天ちゃん、このお菓子すげぇ美味ぇな!」
 「ふふ、嬉しいですね。じゃ三蔵、打ち掛けで。悟空ちょっと待って下さい」
 天蓬は立ち上がりお茶の用意を始める。手番は丁度三蔵だったため、袖に腕を入れて組み長考の構えである。二人の間に座る八戒も、同じように碁盤を見つめて考えているようだ。悟空にお茶を出した天蓬はその様子に柔らかい笑みを零す。そして三蔵にも茶杯を差し出しながら八戒に話し掛けた。
 「八戒、貴方ならどこに打つか決めました?」
 頷く八戒に天蓬は笑みを返してから、三蔵に向き直る。
 「だ、そうですよ。三蔵」
 「打ってるのは俺だ」
 「えぇ、そうですよ。だからさっさと投了しちゃって下さい。なんなら中押しでも構いませんよ」
 「今俺の方が優勢だから焦ってやがるのか?」
 三蔵は言いながら袖から手を出して打つ。対局以外の戦いの空気に悟空が気付いて顔を上げる。と火花散る向こうにはにこやかな八戒がいて、綺麗な翠の瞳と目が合った。ふわりとした微笑みにほっとした悟空は、つつと八戒の傍へと移動した。
 「八戒、この二人どうしたの?けんか?」
 すると八戒は首を横に振り、またにこりと微笑んだ。
 「ふーん。けんかじゃないんだ。あぁ、この白い石と黒い石のせい?遊びなんだ。でも二人とも遊びにしてはやけに真剣だよな」
 悟空の問いかけに八戒は笑みで答える。
 「へぇ、そんなに面白いんだ。この遊び。でも俺にはさっぱりだなぁ。体動かしてる方がいいや」
 頭の後ろに両手を組んで顔を上げると、紫暗と鳶色の瞳が自分を見ているのに気づいて金晴眼が大きくなる。
 「え?何?」
 「貴方、八戒の言ってること分かるんですか?」
 「え…うん、何となく」
 「……八戒がすぐに笑いかける訳だな」
 「え?そうなんですか?悟空」
 「お、おう。だって三ぞーが外に出してくれて、すげぇうれしくて、そしたらすぐそばに八戒もいたんだ。めちゃくちゃきれーだなって思ったら笑ってくれて、そしたらもっときれーだった」
 悟空がそう話すと、八戒が花のような笑みを浮べた。僅かに動くだけで艶やかなこげ茶髪に天使の輪のような艶が走り、輝く透明な肌に息づく二つの翠の宝石が優しい色へと変わっていく。綺麗を絵にした顔が浮かべる微笑みは、幸福な香りを放つ天上の花そのもので、免疫の少ない悟空は時間を忘れて見惚れた。
 天蓬の徹底した指導に、三蔵の負けず嫌いも手伝って、今や八戒を買いたいと申し出る客は両手両足では足りない数に上っている。惚けたまま口を開けて八戒を見つめる悟空を見て、三蔵が紫暗の瞳を眇め、そんな仏頂面を見て、今度は天蓬が唇の端に笑みを浮べた。
 「おやおや三蔵、貴方も大変ですね」
 「うるせぇよ」
 面白くないと顔に書いた三蔵が石を打つ。再び流れ始めた一局に八戒は嬉しそうに又碁盤を見つめる。八戒の笑みから解放されて悟空はやっと我に返ると、脆麻花を手に取った。
 「八戒も食べる?」
 直後に横から強烈なハリセンが飛んで来て、不意を衝かれた悟空はさすがに上体を仰け反らせた。
 「いってぇ〜!何すんだよ、三ぞう!」
 「八戒の世話は俺がやるから手を出すな、と言ってある筈だ」
 「なんだよ、菓子あげるのが悪いのかよ」
 「普通の人なら良い事ですよ、悟空。でも八戒は人形ですからね」
 「え、どう違うの?」
 三蔵だけでなく天蓬にまで言われて、悟空は強打されたところをさすりながら聞いた。
 「人形は一日3回の温めたミルク、週一回の砂糖菓子、それに香り玉という飴以外を与えると育ってしまうんですよ」
 「育つって悪い事なのか?」
 「悟空や私達は別に構わないんですが、人形は別です。大人になれるならまだしも、最悪な場合は枯れてしまいます」
 「枯れるって?」
 「死んでしまう、という事です」
 天蓬の丁寧な説明でやっと事の重大さに気付いた悟空は、金晴眼を大きく瞠り八戒を見つめた。
 「八戒、死んじゃうの?」
 「いいえ、世話さえちゃんとしてれば大丈夫ですよ。だから世話は三蔵に任せておけば大丈夫です。それと悟空、貴方は八戒が寂しくないよう遊んであげて下さい。そうすれば尚安心です」
 「うん!俺八戒大好きだよ。だって俺の言いたいこと分かってくれるし、優しいし、すげぇきれーだし、な?」
 悟空が笑いかけると八戒も笑顔で答える。そんな二人の微笑ましい様子を見守ってから天蓬が対局者を見つめると、不機嫌なオーラを纏っていた。
 「さぁどうぞ、三蔵」
 「てめぇ、本当にいい性格してるな」
 右辺で激しいせめぎ合いをしつつ優美な笑みを浮べた天蓬に、三蔵は鋭い紫暗の瞳を向けた。





 星の瞬く静かな夜、寺院の一室から石を打つ小さな音が聞こえてくる。蝋燭の揺らめく明りの下で三蔵と八戒が一局打っている。会話の代わりに石を打つ音が響く。言葉ではない、しかしこれこそが二人の会話のように黒と白の石が交互に置かれていく。やがて終局を迎えて八戒が頭を下げると合わせて三蔵も礼をした。碁盤を見つめながら三蔵が呟いた。
 「これなら天蓬と打っても大丈夫だろう」
 互角に渡り合えるとお墨付きを貰った八戒は、翠の瞳を柔らかく細めて微笑んだ。その笑顔はこれから対局者が増える喜びに満ちている。
 「三蔵」
 「もう俺と打っても置石なしだ。次からは定先じゃなくて互い先だ」
 碁石を片付けながらの三蔵の声に、八戒も笑みで答える。
 今まで天蓬と打つ賭け碁で、八戒との対戦が賭けの対象となった一局は、三蔵は意地でも負けなかった。それは八戒が天蓬と渡り合う実力をつけた上で、やらせてやりたかったからだ。綺麗を形にしたような八戒だが碁を打つうちに、思いの外負けず嫌いな性格をしていると気付いたのだ。同じ過ちを繰り返さない所、相手の懐に深く鋭く切り込んでいく勝気な部分もあり、その上計算高い碁を打ってくる八戒は、水を吸い込む砂のように見る間に腕をあげていった。相手をしている三蔵自身も気を抜けず、それは天蓬との碁の勝率を上げる要因になっていったくらいである。そしてこの時間は、三蔵にとって何より楽しみな時間となっていた。
 碁石を片付け終わった八戒が小さな欠伸をする。悟空はとっくに高いびきをかいている時間である。三蔵は八戒を寝衣に着替えさせると、滑らかなこげ茶髪をくしゃりと撫ぜた。
 「もう寝ろ」
 その言葉に八戒は袖を持つと、三蔵をじっと見つめた。今日の一局は定先とはいえ、八戒が勝ったのである。実は八戒が勝つと褒美が待っていて、それを確認しているのである。
 「あぁ、分かってる」
 苦笑した三蔵がそう答えると、確約を取り付けた八戒は嬉しそうに微笑んだ。
 見上げてくる顔の距離に、時を感じずにはいられない。出会った頃は同じ位だったが、今は楽々と抱き上げられるくらいの身長差がある。時の流れ、そして人と人形の違いを実感する。この間に流れるものは何だろう、と三蔵は思う事がある。悠久、不変、永遠…、たゆとう言葉はいつも深遠な翠緑の瞳に吸い込まれて答えが出たことはない。
 ふと袖を引かれて三蔵は我に返る。少し憂いを含んで見つめてくる翠の瞳に微かな笑みを浮べると、三蔵はもう一度艶やかなこげ茶髪を撫でた。


 部屋に入り寝台に横になった八戒に、上掛けをかけてやった三蔵はもう一度髪を撫でる。眠気を含んだ翠の瞳をとろりと甘く細めて、それでも三蔵を映す。答えて三蔵は褒美の子守唄を囁くような声で歌い始めた。
 慶雲院に着任してから部屋は別々となり、今は一緒に眠ることはない。出会ってからずっと寝食を共にしてきたため八戒は最初の頃、眠る時に憂いを含んだ瞳になる事があった。そんな時、三蔵が旅の途中で覚えた子守唄を歌ってやると安心したように八戒は眠ったのだった。一人で眠るのに慣れた八戒に、歌う機会は暫らく無くなっていたのだが、碁を打つのを切欠に強請られたので、賭けの対象にしたら格段と八戒は勝率をあげたのだった。
 その子守唄を覚えたのは八戒に出会う前の話だ。旅の途中、うなされていた自分に、子供を亡くしたと言っていた母親がこの唄を枕元で繰り返し歌ってくれた。又熱を出して倒れた自分を看病してくれた民家でも、同じ子守唄を聞かされて結局覚えてしまったのだ。確かにその時だけは、悪夢を見なかったように記憶している。
 
 八戒と出会った頃とは違う、変わってしまった低い声が夜の静寂に静かに響く。心地好い調べに八戒の瞼もほどなく下がり、やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。幸せそうに眠る八戒の寝顔を見つめながら三蔵は、前髪を指に絡めて整えてやると、あまり長くない子守唄をもう一度繰り返した。



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2007/08/29