店内には香が焚かれており元々香りが立ち込めていたが、それらを覆うように甘やかなお茶の匂いが広がる。店主は慣れた手つきでお茶を淹れ、優雅な仕草で三蔵の前に茶杯を置いた。小さな茶杯から立つ香りは普段慶雲院で出されるお茶とはまったく違っていて、一口飲むと体の中からも香気を放ち、お茶に詳しくない三蔵でも良いものなのだろうと思った。茶菓子が乗った皿を卓に置いて、その場の空気が落ち着いてから店主は口を開いた。 「この人形はこちらの店で取り扱ったものでして、最上級品のものです。最上級品には最初から名前が付いておりまして、それが翠緑という名でした」 「最上級品?」 「そうです、プランツドールにも格付けがあります。名人の称号を持つ職人が丹精込めて育て上げた逸品だけが、最上級品と呼ばれます。この翠緑(あえて今はそう呼びますが)は、この瞳と肌の輝きから職人達の間でも奇蹟と呼ばれている人形です。その上このプランツは大変珍しい観用少年ですから、稀少価値の高い人形なんです」 どうやらプランツドールの知識に明るくないと判断した天蓬が噛み砕くようにして話すと、三蔵は眉間に皺を寄せる。 「そんな訳ですのでこのくらいの人形になりますと選ぶのですよ、お客様を。気難しい人形だったのですが、幸いしぼんでしまう前に気に入ったお客様にお買い上げいただきました。その時は悟能という名をお客様が付けられました」 そこで天蓬は言葉を切ると座っている八戒を見つめた。正確には八戒ではなく、その背後に見定めるような視線を向ける。その視線を追うように三蔵も又、同じものを見つめた。 「八戒の背後にいる女性がその時のお客様です。ローンを組まれてお支払いしていただいてたのですが、全額支払っていただく前に亡くなられてしまいました」 「その女は俺が初めて八戒と会った時には、既に憑いていた。その隣にいる男が次の主人だったらしく式神を打つヤツだったらしい。八戒に憑いていた女の霊を利用しようとしたが、女の霊の方が八戒を護る力が強くて、呪詛返しで命を落としたようだ」 「でしょうねぇ。うちの店に残金が全額届けられましたから」 「どういう事だ?」 意味が繋がらず三蔵が片眉を上げて視線を向けると、天蓬は八戒を見たまま言葉を繋げた。 「彼女が亡くなった時に悟能は行方不明になったんですよ。彼女は刺殺体で発見されて、部屋から人形が消えていたそうです。強盗殺人ではないかと言われてますが、犯人は未だ不明なまま真相は分かりません。その後暫らくして店に現金が届いたんですよ。悟能をお買い上げいただいた残金が耳を揃えて。封筒には何も書かれておらず、差出人も不明。領収書をお出ししてませんのでお買い上げいただいた事にはならないんですけど、貴方だったんですね」 天蓬の鳶色の瞳が俄かに細まり鋭く深い色へと変わる。それは眼鏡越しでも判るくらいあからさまで、八戒の背後にいる男の霊へと冷ややかな怒りをぶつけていた。 「闇で買ったか盗んだか、どういったルートか分かりませんが貴方は悟能を手に入れた。しかし貴方は悟能に選ばれなかった。だから現金だけを店に届けたんじゃありませんか?うちに悟能が戻れば、売ってもらえないと貴方は知ってたんですね。そして死して尚、悟能の傍にいた彼女を排除しようとして失敗したんじゃありませんか?もしそうなら自業自得ですけどね」 冷酷に言ってのけた天蓬は、視線を外し八戒へと焦点を絞る。すると本当に同じ人間かと疑うほど、殺気だったものから一瞬で優しさに満ちたものへと気配を変えて、こげ茶髪にそっと触れて愛しむように撫でる。その仕草に八戒は気持ちよさそうに目を細めると、微笑を浮べて天蓬を仰ぎ見た。するとその笑顔に癒されるように天蓬の気配がより一層穏やかになる。その姿をぼんやりと眺めながら三蔵は、何故店主が怒っていたか分かり合点がいった。 「貴方はどんな状況でこの子と会いました?」 八戒を見つめたままの天蓬の言葉に、三蔵は最初自分への問いかけとは判らなかったが、やがて億劫そうに口を開いた。 「俺は一人旅をしていた。その途中、山間の小さな村で死を呼ぶ人形があるから供養して欲しいと言われ、会ったのがこいつだった。誰もいない大きな屋敷の中で、こいつは一人で眠っていた」 「そうですか。貴方に出会う前、枯れずにいたのは彼女のお陰でしょう。だから彼女を憑けたままにしておくのはまだ判るのですが、何故この男も一緒にしておくんです?貴方なら供養でも封印でも封滅でも出来るでしょう」 「その男が死んだ後、葬儀屋が人形を盗もうとして殺された。八戒に近付く者を嫌がって、死んだその男が自ら式神となって殺したんだろう。後ろに憑いてたくらいだ、その人形への執着はその女と同じくらいだな。のべつ幕なしじゃ困るんで、俺が護法の術を施して八戒の護衛にした。人形には身を護る術がないからな」 「殺傷能力を買ったわけですか。霊を武器にするなんて、最高僧ならではと賞賛しますよ。まぁこんな美人を連れていれば安全な旅もなかったでしょうから、それは分かりますけどね。ところで今もその旅を?」 「今は慶雲院にいる」 「やっぱり、あの大きな寺院ですか。ならこれから僕のする事に文句を言わないで下さいね」 言うなり座っていた八戒を軽々と横抱きにして、そのまま店の奥へと連れて行こうとしたので三蔵は眉を吊り上げた。 「おい!何しやがる」 「それはこちらの科白ですよ。周りにあるプランツ達をご覧なさい。プランツドールは元々貴族の嗜みだったんです。なのに貴方ときたらあんな大寺院のトップでお金もありながらこんな着物を着せて、手入れもまったくなってません!理由は偶然旅の途中で手に入れたからだと分かりましたから、責めるつもりはありません。ですがこのままでいい筈ないというのを貴方に理解していただくために、これからどうやって手入れをするか懇切丁寧に僕が指導して差し上げます。八戒のためですから、勿論文句はありませんよね?」 どうやら八戒の髪に触れていたのは手触りを確認していたらしいと気付いて、三蔵は有無を言わせない店主の笑顔に一言も返せず、しぶしぶと後に続いた。 もう一度店のサロンに戻ってきた三蔵は疲弊しきっていて、無言のまま些か乱暴に体を椅子へと沈めた。元々短気な上に、銃を持つ最高僧である自分に物申す輩などあの寺院には存在せず、慇懃無礼な天蓬の態度は不機嫌絶好調に値する。しかしながらそれでも従ったのは、人形に対して護法を憑けた事や手離そうとした事に負い目があったからだ。勿論ただで手離そうとした訳ではなく、叶の時は巫女がいたし、大僧正も強い法力があったからで、どちらも八戒が気に入り護法憑きでも大丈夫だと判断したからだ。だがこうして指導まで受けると、いかに自分がプランツドールに対して無知だったか思い知らされ、余計に負い目を感じてしまう。一度目覚めたプランツドールは、相手あってこそ生きる事が出来るのだと。 三蔵は煙草を咥える気力も起きず椅子に深く座り、天井を仰ぐと重い溜息を吐く。すると店主の、観用少女はこれよりもっと手間が掛かるのだという言葉を思い出してしまい、余計に疲労感が増すのだった。 一方、後は服を着せるだけですからと言って三蔵を追い出した天蓬は、毛足の長いタオルで八戒に付いた水分を優しく拭き取っていた。 「良かったですね、相性の良い人と出会えて。私も再会出来て心から嬉しいですよ」 そう言うと八戒も嬉しそうに微笑んだ。その姿は朝露を湛えた花のようで、三蔵によって丁寧に磨かれた八戒は髪の一本一本にまで艶がかかり煌めきを放っている。 「行方知れずになった時は、まさかこんなに綺麗になって戻ってくるとは想像出来ませんでした。あの最高僧は、貴方がこんなに綺麗な理由をどうやら知らないようですね。まぁ、悔しいから教えませんけど」 天蓬が拗ねたように呟くと、八戒はくすくすと笑う。小さな鈴が鳴るような柔らかな風情に、天蓬は困ったような笑みを浮べた。 「旅の途中できっとミルクも飲めない時もあったでしょう。野宿をしたかもしれませんよね。でもそれ以上にきっと何度も危険な目に遭った事でしょう。貴方は元よりあの最高僧も相当美人ですから、目立つ良い標的になったでしょうね。そこまで過酷な環境ですと、最上級の貴方は同時に繊細でもあるのですから、普通なら枯れてしまいます。でもあの最高僧は、そんな悪条件を上回る愛情で貴方を育てたんでしょう。文字通り命を懸けてね」 服を全て着せ終えた天蓬が慈しむように両手で頬を包むと、八戒は再会してから最も美しい笑顔になった。苛酷な条件下を生き抜いて持つ力強い生と、その上に花となって咲く可憐な儚さという、両極な美しさは心を打つほど澄んだ存在感だった。 「まったく、この笑顔をあの最高僧は当り前だと思ってるんですから。腹いせに苛めたくもなりますよ。だから八戒、僕は一番の栄養が何なのか彼には教えません。その代わりに貴方が示してあげなさい」 身支度を整えた八戒の手を引くと軽く握り返される。天蓬は瞳を和らげて同じ様に握り返すと、三蔵の待つサロンへと戻っていった。 「これが本来のプランツドールの姿です。少しまともに手入れすればこのくらいになるんですよ」 天蓬の尊大な声に促されて三蔵は億劫そうに瞼を引き上げる。そこには初めて出会った時と同じ様に、袍に身を包んだ八戒が立っていた。三蔵と視線が合うと八戒は、やはりあの時と同じ様に微笑んだ。けれど今目の前にいる八戒の方が、絵に描いた花ではなく、艶やかで鮮やかな生きた花の様に感じた。そう思えるのは長い時間を共有したからか、それとも今まで手入れが行き届いていなかったからか。今までにないほどの存在感に、三蔵はただ圧倒される。そして紫暗の瞳を瞠り言葉もなく魅入られている三蔵に、天蓬はしてやったりと口角を上げた。 「三蔵様」 しかし長い沈黙を破る言葉が八戒から発せられると、三蔵は夢から覚めたように我に返り、天蓬は笑みを張り付かせたまま凍りつく。八戒が軽やかに三蔵へと駆け寄ったので、天蓬は根性で氷を落とすと、中指で眼鏡を上げつつ三蔵に据わった目を向けた。 「で、装いはこんなところですが、後はプランツ特製のミルクを日に三度と、週に一度の砂糖菓子を与えて下さい。きっと貴方は今まで普通のミルクとケーキだったんでしょう?それから食後の香り玉というのがありまして…」 「何だそれは?ミルク以外を与えてもいいのか?」 三蔵の一言に、香り玉を出そうとしていた天蓬の動きが完全に止まる。瞬間氷結を見てしまった三蔵は、長い旅で培った危機察知能力が警報を鳴らしているのを感じた。冷たい汗が体の上を流れる。 「何ですって?まさか貴方、普通のケーキも与えてなかったんですか?」 「俺が聞いたのはミルクだけだ」 今のは聞き間違いだったのだろうと空耳を確認した天蓬に、三蔵は真正直に堂々と答えた。出来れば答えたくはなかったのだが、八戒に関する事なので逃げるわけにはいかない。覚悟を決めた正面アタックに、天蓬が振り返る。笑みを浮べたままそれはそれは恐ろしい妖気を発している様は、八戒とは正反対の意味で地上の者とは思えなかった。しかし数々の危険を乗り越えてきた最高僧三蔵は、まともに天蓬の視線を受けとめた。知らないものは知らないし、経文と一緒に聞き込みをしたが、誰もプランツドールの正確な情報を持っていなかったのだ。無言の攻防は一瞬にも永遠にも感じられる時間を経て、天蓬の溜息で終結する。 「確かに他のものを与えるより遥かにマシですけどね。では覚えて下さい。ミルクは日に三度、週に一度は砂糖菓子、食後は香り玉です。宜しいですね?」 二度目はありませんよ、と顔に書いた笑顔に命拾いした三蔵は小さく頷く。ミサイル発射ボタンから指が離れたのを感じ取った三蔵は、まさかここで死線を感じるとは思ってもいなかったと、精一杯のさりげなさで冷や汗を拭う。 (本当に、この子は色んな意味で奇蹟ですよねぇ) 造形が奇蹟なら存在しているのも奇跡的と、天蓬はなんとも長い溜息をもう一度吐いて購入品を一つの袋に纏め始めた。 実に長い滞在が終わり漸く店を後に出来ると三蔵は扉を開く。すると店の外でありながら心地好い香りが未だ漂っているのに気付いた。そしてそれが八戒から放たれていると分かり凝視する。 「それが香り玉ですよ」 三蔵の疑問に気付いた天蓬が、店の外まで見送りにきて答えてくれた。 「人形の個体によってそれぞれ違う匂いを放ちます。元は同じキャンディなんですけどね。八戒の香りはやっぱりこの瞳に相応しい匂いでしたね」 水を含んだように冷涼で、霧のように又深い森のように柔らかく、嗅ぐだけで穏やかに癒される香りは、確かに八戒の見た目と合った香りだった。 「又のお越しをお待ちしてますよ。勿論八戒を連れて来て下さいね」 「誰が来るか」 「おや、宜しいんですか?プランツドールとその身の回りの品を扱っているのは、この辺りでは当店だけですよ。それに貴方に領収書を書いてませんしね。通報すれば横流しの品を手に入れた事になってるんですよ、貴方」 「金なら払う」 「結構ですよ、お金なら後ろの方にいただいてますしね。死者に返金は出来ませんし、貴方が使役してるなら問題ないでしょう。その代わり次は領収書を受け取りに貴方が直接来て下さい。その時八戒の手入れが行き届いてるか、僕が直接チェックしますから。勿論都合がつく時で構いません」 構わないと言っておきながら、それは長い時間の事ではない。ミルクや砂糖菓子等は常に購入しなければならない物だ。天蓬の意図を読んだ上で、これ以上ここにいるのは自分が不利になると三蔵は不承不承頷いた。無茶をして八戒に相当な負担を強いてきた自覚があるだけ分が悪い。次の時は何かしら手を打とうと考え、今は一刻も早く立ち去りたくて三蔵が踵を返すと八戒も後に続く。天蓬が八戒にだけ小さく手を振ると、気付いて八戒も手を振り返した。 辺りは夕焼け色に全て染まり二人も茜色になりながら街を抜けて、人通りのない道を慶雲院へと歩く。自分よりも小さくなってしまった八戒を見下ろしていると、視線に気付いて八戒が振り返った。この身長差が生まれるくらい一緒にいる。黙したまま見つめていると八戒が袖を引いて微笑んだ。 「三蔵様」 手入れが行き届いた八戒は夕焼けに輝いて、本当に幸せそうに微笑んでいる。喋れるようになったのが嬉しいと笑みを浮べている。今が夕焼けで良かったと思いながら、三蔵はふいと視線を外した。 「……三蔵でいい」 小さな呟きを聞いて、瞳を丸くし意味を図りかねている八戒に三蔵はもう一度言った。 「三蔵だ」 「………三蔵」 「それでいい」 そう言って滑らかなこげ茶髪をくしゃりと撫でると、赤い艶が走る。そのまま抱き寄せると、八戒は袖を持ったまま懐に顔を埋める。長く伸びた大きな影法師が再び二つとなって歩き出すまで、空は茜色から紫へと次第に色を変えていった。 |
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2007/08/10