颯爽と落下する怪盗紳士は闇の中、紅く浮かぶものが視界を通り我が目を疑う。
 「
―――― 薔薇……!?」
 闇夜に浮かぶ血の様に紅い薔薇を視認すると、それは急速に近付き、又同時に急激な圧迫感が喉元に掛かる。
 「!ぐっ……」
 強引に引き上げられた反動で、奇妙に仰け反った怪盗紳士の目に明かりを背にした人影が映る。
 「パゥンッ!」
 明智の放った銃声が、静かな山間にこだまする。と同時に異様な束縛から解放され、糸の切れたマリオネットのように落ちていく怪盗紳士の周りには、撃ち抜かれた薔薇の花弁が散った。
 「ドサァッ!!」
 派手な音を立てて、用意されていたエアマットの上に落ちた怪盗紳士に、2人の警官が近寄る。
 「ボスッ大丈夫ですか?」
 「しっかりして下さい!?」
 怪盗紳士を助け起こしながら、安否を気遣う部下達の頭上に声が掛けられる。
 「天使の仕業ですよ!これに懲りたらあの絵は諦めて下さい」
 「
――― 貴様…」
 表情を変えた部下の1人が窓辺に立つ明智に銃口を向けると、それを制する手が上がった。
 「待っ……て」
 「「ボス!!」」
 「彼は……ケホッ、助けて…くれ…たの」
 喉元を抑え苦しそうに話す怪盗紳士が、首に巻いたスカーフを下にずらすと、そこには不気味な一本の線が引かれていた。瞬時に何が起きたか悟った部下達は、顔色を変える。
 「こっちだ!」
 そこへ銃声を聞きつけた県警の面々が、どやどやと駆けつける。
 「何があった?」
 手錠が掛けられた怪盗紳士を、挟んで立つ警官に相根警部は訊ねる。
 「はっ、明智警視が一発撃って、怪盗紳士を確保しました。今から連行します」
 相根警部が二階を見上げて明智警視に確認する前に、2人の贋警官と怪盗紳士は警官隊の脇をすり抜ける。とすれ違い様に小さなボールを落とした。
 「ボンッ!」
 破裂音と共に煙が噴き出し、またたく間に煙幕が張られる。
 「何事だ!?」
 「うわっ!」
 「何だこれは?」
 突然の煙に相根警部と警官隊は狼狽え、口元を手で押さえ目に涙を溜めながら、視界を得ようと必死に手で振り払っていると、離れた所から車の発進音が聞こえてきた。
 「しまった!」
 その音で何が起きたか悟った相根警部は、すぐに警察車両へと走ったが、既にタイヤの空気は抜かれた後だった。悔し紛れに車のボンネットを叩いた相根警部の前に、突然サイレンの音が響き、回転灯を回した警察車両が数台行き止まりの道から現れる。
 「こ……これは一体!?」
 突然都合よく現れたパトカーを前にして、呆然と立ち尽くす相根警部へ二階から明智警視の声が届く。
 「こういった事態を想定して、別に手配しておいた車です。相根警部、すぐに後を追って下さい」
 唖然としていた口を一文字に引き結び、相根警部は振り返り敬礼をするとすぐ様車に乗り込み、警官隊と共に怪盗紳士の後を追った。
 「いつもこうなのか?」
 運転する正野刑事から説明を受けて、初めて相対する怪盗紳士の手口と、警視庁きってのエリート警視の遣り方に、低く呻いた。

 「どーしてこんなに手際が良いのかしら。やっぱり剣持警部とは違うはね」
 遠からず聞こえてくるサイレンの音にも動じず、むしろ楽しそうに怪盗紳士は言った。そんないつもの怪盗紳士の様子に部下達は呆れ顔を浮かべたが、それは安堵の裏返しでもあった。
 「しかしボスが無事で何よりでした。まさかあの窓に、殺人トラップがあるとは思いませんでしたから。あの警視が丸腰のボスを撃ったのかと思って、肝が冷えましたよ」
 怪盗紳士は少し俯くと、今もくっきりと残る赤い痕に指で触れた。
 「今回は相手が悪かったわね。本当の相手は警察じゃなかったんだもの。それが判らなかったから、こんな授業料を払わされるし。あーぁ、暫くこれ消えないわね」
 「その位で済んで良かったですよ。しかしボス、その相手とは警視が言っていた天使ですか?」
 あからさまに安堵の溜息を吐いた部下が、隣に座る怪盗紳士を見る。
 「ええ、そうよ。ギリシア語でangelosは派遣された者、という意味もあるわ。ヒントになっていたブロンズ像の天使は、舟生画伯から派遣された騎士の肖像を守護する者の存在を意味していたのよ」
 「もしかして、それは……」
 表情を硬くした部下に、怪盗紳士は首肯する。
 「術士の肖像に描かれていた、地獄の傀儡師に間違いないわね」
 山道を下る車内に水を打ったような沈黙が訪れ、鳴り響くサイレンの音が一際大きく聞こえる。と運転していた男が小さな溜息を吐いて、重い沈黙を破った。
 「だからこの絵はあまり乗り気ではなかったんです。しかも一筋縄ではいかない明智警視も一緒に攫う、なんてらしくもない計画でしたから」
 ルームミラー越しに視線を送れば、後部座席に座る怪盗紳士は、叱られた子供のように悪戯な笑みを浮かべた。
 「でも私は無事だったでしょう?術士が仕掛けた危険な罠から、騎士に守ってもらったんですもの。でも本当に残念。私の肖像画をきちんと描いてもらいたかったなぁ。醍醐真紀を描いたスケッチを見て、彼がいかにその才能を出し惜しんでるか判って腹が立ったくらいだもの。優秀な警視が描いた怪盗紳士の肖像画なんて、私のギャラリーを飾るこれ以上ない作品になる筈だったのに。あわよくばこちら側に引き込む、一石二鳥計画だったんだけどなぁ。前に会った時も思った事だけど、今回で確信したわ。彼ってこちら側の匂いがするのよね」
 「
―― 確かに彼の頭脳が加われば、向かう所敵なしだとは思いますが、結果は二兎追う者は一兎をも得ずでしたね。まぁあのファイルを見た時、本物見たさに反対しきれなかった自分達が言えた義理ではありませんが、命あっての物種ですからね、ボス。しかし舟生画伯と地獄の傀儡師が繋がっていたとは、驚きでしたが……」
 「そうね、どんな関係かは知らないけど、騎士の肖像を探すgameから彼が関わっていたのは間違いないでしょうね。でなければ予め、あの場所にトラップを仕掛けられないもの」
 確かにと一同が頷く中、運転していた男が目的地が近い事を告げる。
 「仕方ないけど術士には嫌われたようだから、騎士を諦めるとするわ。明智警視が言った通り、あの二点の肖像画はやっぱり揃ってこそだもの。せめて並んでいるところを鑑賞したかったわね」
 「ボス、嫌われたというのは?」
 「何も盗まなければ、多分こんな事にはならなかった、て事。怪盗紳士の名にかけて、何も盗らないのは沽券に関わるでしょ?それが気に入らなかったんじゃないかしら」
 唇に人差し指を当てて、プライドは守ってみせたとウィンクをすると、部下達はさすがボスだと納得した。そして何を盗んだか訊ねようとする前に、車は湖畔に辿り着き動きを止めた。車を乗り捨てボートに乗り込むと、重なりあったサイレンの音と共に警察車両も到着し、一斉に並び動きを止める。
 

――― でもあんなに冷たいキスではね。ま、これはせめてもの意趣返しよ、明智警視 ―――


 遠ざかる岸では、怪盗紳士達が巻いたまきびしによって、身動きの出来なくなったパトカーの群れが虚しく赤色回転灯を回し続け、船尾に立った怪盗紳士はそれを眺めて投げキスを送った。

2003.09.13