「では消して下さい」
明智の声で個室、廊下そして洗面室の明かりが消えて暗闇が訪れる。そして湊が懐中電灯の明かりを鏡に当てると、星のランプから一条の光が放たれ、個室から廊下を横切り洗面室まで到達した。
光を追って洗面室を覗き込んだ剣持は、洗面台の鏡に映るNに目を瞠る。と脇に立っていた明智は剣持の姿を認めて、勝利を確信する笑みを浮かべた。
「日と月から明かりを入れると星からは日が生まれ、月まで届けば夜から騎士が現れる」
そう言って明智は鏡の上にある、消えたままの球形ランプに目を向ける。脇から中心に伸びる真鍮製のアーム部分には、良く見れば月桂樹の模様が彫ってあり、明智はそこを掴むとドアノブのように下へと回した。
「 カチリ 」
固唾を呑んで見守る静寂の中、その音はやけに大きく響き鏡が手前に少しだけ動く。端に手を添えてそっと開くと、中には騎士の肖像が収まっていた。
「やっとご対面ですか」
後は仕上げを御覧じろ、と明智は球形ランプの明かりを付けると、淡いセピアのような暖かい光が騎士の肖像を柔らかく照らした。
十文字バーの窓から穏やかな光が注ぐ日溜りの中、その光に溶けるような透明感で描かれた明智は、アームチェアに沈み込み無防備な寝顔を晒していた。眼鏡を外した顔はいつもより幼く見えて、閉じた瞳の睫毛は長く、唇のラインは微笑んでいるかのように緩やかで、その表情は安らぎに満ちている。そこには警視の時に纏う鋭利な印象は全く無く、明智の持つ優しさをこれ以上ないくらい表現した肖像画だった。
ふと、もう一つのまったく異なった肖像画が思い出される。この隣に術士の肖像を並べたならば、優しさと残酷さ、光と闇が相対し、矛盾した表裏一体のものを抱え持つ、人間の本質を見事に表現した一対の絵となり、巨匠舟生画伯の最高傑作となるのは間違いない作品だった。
「これ一点では、意味が無いのではありませんか?」
息を呑んだまま彫像のように固まっていた剣持は、絵から抜け出たモデルに声を掛けられ我に返ると、再び驚愕に目を見開いた。と遠くから足音が近付いてくる。
「明智さん、絵はありましたか?」
「ええ、ありましたよ。それで術士の肖像と一緒に鑑賞したいので湊君、すみませんが持ってきてくれませんか?」
「判りました」
洗面室に目を向けると、直立不動の剣持の後ろ姿が入り口を塞ぎ室内を見る事は出来なかったが、湊はそのまま階段を下りていった。
湊の足音が遠ざかると、剣持は溜息と共に肩の力を抜いて、自分に銃口を向ける明智の姿を見つめた。
「とっくにお見通しだった訳ね」
急に女声になった剣持に、明智は眉間に皺を寄せて非常に複雑な顔をする。それにクスリと笑うと、剣持は鮮やかに変装を解いて、醍醐真紀の顔をした怪盗紳士の姿になった。
「これで良いかしら?明智警視」
「そうですね、その方が助かります。但しこれ以上は動かないで下さい」
銃口を向けたまま、あからさまにホッとした表情を浮かべた明智に、怪盗紳士は楽しそうに笑いその場の空気を和ませた。
「それで、一体いつから気付いてたの?」
「最初に気付いたのはダイニングです。スーパーレジェーラの椅子を持った時、剣持君なら一言あっても良かったと思いますよ。あれはジオ・ポンディの代表作で、指一本で持ち上がると言われている程超軽量な椅子です。貴方が一度に運ぶのもそう苦では無かったと思いますが、彼なら驚いて必ず声を上げていた事でしょう。なかなかの熱演ぶりでしたが、却って仇となりましたね」
にっこりと微笑んだ明智に、怪盗紳士はやれやれと呆れたように肩を竦める。
「私もそれなりに付き合いが長いから、少しくらいなら大丈夫かと思ったけど、やっぱり部下の事は良くご存知のようね」
「普段、苦労させられていますから。確信したのは、貴方が火を持っていなかった事ですよ。ランプの時もキャンドルの時も、剣持君がライターを取り出さないのは不自然でしたよ。たとえ警備の最中で、煙草を控えていたとしてもね。貴方から、煙草の匂いはしませんでした」
「――― 確かにそうね。でも背広を奪って、愛しの剣持警部に風邪をひかせるわけにはいかなかったもの。でもご安心を、夜露に晒すような事はしていませんから」
怪盗紳士の悪戯めいた笑みに、明智は軽い溜息を吐く。
「風邪をひいたら、それこそ見物でしたけどね。それでしたら入れ替わったのは、県警と合流してから、この山荘に着くまでの間ですか?見通しの悪い山間の細道なら、後続で何があっても判りませんし、途中別荘に行くための、枝分かれした道も多かったですからね。剣持君が居るのは車の中か、この近辺の別荘ですか?」
静かに微笑んだ明智に、怪盗紳士は眉を顰める。
「そこまで判ってたのなら、どうして…」
「貴方には、完全にこの絵を諦めていただきたかったのでね。きちんと説得したかったのですよ。でないとこの先、命の保障をしかねますから」
「あら、手荒な事を好まない明智警視の言葉とは思えないわね。このまま貴方を諦めろと言うの?」
一瞬の静寂の後、明智は少し呆れたように溜息を吐いた。
「その言い方には少し御幣がありませんか?」
「そうかしら?私がモチーフも一緒に盗む事はご存知でしょう。このまま貴方ごと攫うというのはどうかしら?」
「貴方こそ、手荒な事は好まなかったのではありませんか?略取誘拐罪が加わりますよ」
明智が呆れたように肩を竦めると、階段を上る足音が聞こえてきた。
「タイムリミットです。いいですか?この絵は必ず諦めて下さい。BishopのBだけが何故血のように紅かったのか判りますか?あれはBloodのBとして警告もしていたのです。"月"と"狩"の女神Artemisがね」
「!なっ――― 」
目を見開いた怪盗紳士の耳にも、更に近付く湊の足音が聞こえる。
「仕方無いわね。湊君も応援を呼んできてないようだし……判ったわ。今回は諦めるしかないようね」
言い終えると同時に、怪盗紳士は持っていた剣持用の服の下から小さなボールを落とす。とそれは凄い勢いで煙を吐き出し、あっという間に洗面室は白煙に満たされる。
「明智さんっ!?大丈夫ですか?」
開け放たれた洗面室からの白煙に驚いて、湊が慌てて駆け寄る。
「大丈夫です!湊君、貴方はそこに居て下さい」
二点揃えばこの煙の中、盗まれる可能性が高くなると判断した明智は、術士の肖像を持つ湊が中に入るのを制する。視界を奪われながらも銃を構えたまま、絵の前から動かずにいると、間近で人の気配がして、トリガーを引く前に手首を捉えられる。
「今回はこれで我慢するわ、明智さん」
至近距離で囁かれた声と同時に、唇が塞がれる。一瞬で離れていった唇に呆気に取られていると、一気に煙が移動した。
「また今度ねv明智警視」
開かれた水平回転窓からウィンクをすると、怪盗紳士は窓の外へと身を滑らせた。
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