コの字型で形成されたこの山荘は、一番端のアトリエから尤も遠い客室に移動するには、本来なら中庭を通ると近道になる。しかし今夜は雨のため、3人は辿ってきたダイニング、リビング、玄関ホールと戻り、その先の浴室や納戸、洗面室の前を通り過ぎ、一階最後の客室へと足を踏み入れた。
入り口付近に飾られた95.5×63cmもある縦長のポスターの前に、3人は先ず足を止める。3色刷りのデザイン化されたポスターは、シナモン色を下地に使い、brick
redとivy greenで頭を垂れた女性の立像が描かれているのだが、その背中から頭上にかけて大きな羽を持っていた。その手には白い球を持ち、女性の目は祈りのためか閉じられている。又、下に並んだ文字も効果的に白抜きされている箇所があり、明智はそれを読み上げた。
「SECESSION,KLINGER,BEETHOVENですか」
「え!?ベートベンですか?しかしこの部屋にオーディオは無さそうですが。はっ!もしやそれを探すのがヒントでは…」
剣持は早速ベッドの下やドレッサー、クローゼットの中を手当たり次第調べ始める。明智も同じくポスターの前を離れたが、忙しい剣持とは対照的に、ベッド脇にあったワシリーチェアにゆっくりと身を沈めた。
「明智さん、大丈夫ですか?」
昨日からの働きを思って湊が心配そうに声を掛けると、明智は肘掛に腕を置き、甲の上に顎を乗せる。
「いえ、この方が良く見えると思ったのですよ」
明智が見つめた先には、マホガニーの小テーブルの上に、ブロンズ像が立っていた。ペプロスを着た女性像は月桂冠を頭に頂き、左手には弓を持つ凛々しさとは対照的に、憂いた表情で足元の泉を見つめている。但しその背に羽は無く、替わりに矢筒を背負っていたため二の次となってしまったが、充分に目を引くものだった。
良く見ると女性の見つめる泉の中央に、小さな穴が開いている事に明智は気付いた。ブロンズ像を手に取り確認しようと底を見ると、小さな音がした。
「明智さん、落ちましたよ」
傍にいた湊が拾い、手の平の上に乗せたのは、精巧にできた小さな一本の矢だった。
「ありがとう、湊君」
受け取った明智は矢筒を見ると、まだ二本の矢が残っていたが、それは取り外せないようである。
「警視、それは動かしても良かったんですか?」
湊の後ろから剣持が顔を覗かせる。
「元の通りに置けば済む事ですよ。ところで剣持君、その手に持っている物は何です?」
言われて思い出したように、剣持は持っていた物を明智に見せた。
「ドレッサーの引き出しの中に入っていました。唐突にこれだけ入っていたので、不思議に思いまして」
オーディオは無かったのですが、と残念そうに付け足した剣持が持っていたのは、直径5cm程の白いキャンドルだった。目の前に並ぶ物を見比べて、明智は軽い溜息を吐く。
「物は試しと言いますし、取り敢えずやってみますか」
ブロンズ像を再び手に取った明智は、湊から受け取った矢を、底にあった小さな線状の穴に差し込む。そしてブロンズ像を元の位置に戻し、泉の中央から出た矢を摘み軽く引っ張るようにして動かすと、中でカチリと音がした。
「剣持君、そのキャンドルをここに刺して下さい」
明智がやじりを指差すと、剣持は見つけてきたキャンドルを立て、その横で湊はポケットを探り小さな箱を取り出す。
「これも必要ですよね?」
「ええ、お願いします。湊君」
湊がマッチで火を点けると、剣持は連絡を入れ、明智は明かりを消すために立ち上がる。
「消しますよ」
明智の声と共に明かりが落とされると、暗闇の中キャンドルの炎が揺らめき、沈黙が流れる。
「――― またしても、すぐに出てきませんなぁ。警視、あの影に移動してみましょうか?」
辺りを窺っていた剣持は、白壁に映し出されたブロンズ像の影を指差した。
「どうぞ、剣持君。君の思いつくままやってみて下さい」
それを聞いた剣持は、喜び勇んで移動し見回したが、アルファベットらしきものは発見出来なかった。が、すぐに頭を上げて元に戻せば良いんですな、と断りを入れるとブロンズ像を掴み、火を消さないよう注意しながらドレッサーの上に置いた。半円の鏡には俯く女性像と、炎揺らめくキャンドルが映し出され、無情にも時間はそのまま経過する。しかし剣持は三度頭を上げると、今度は小テーブルの下にブロンズ像を置き、その影の出処を窺う。結果、剣持の期待はことごとく裏切られて、重い沈黙が部屋に落ちた。
「気は済みましたか?」
「………はい」
肩を落として項垂れた剣持は、明智の言葉に小さく頷くしかなかった。
「さて、次は私の番ですね」
明智はcandle stickとなったブロンズ像を手に取ると、ポスターの前に立った。炎の明かりが上から下へと嘗めるように移動し揺らめくと、照らされたポスターはまた違った表情を見せる。
「あぶり出しですか?警視」
「ガラス越しで、ですか?違いますよ。このままですとこのポスターを無視する事になりますから、もう一度意味を探っているのです」
と明智の動きがピタリと止まる。
「剣持君、君が連絡を入れてから今現在まで、どれくらい時間が経過していますか?」
「――― 14分です」
腕時計で確認された時間を聞いて、明智は肩を震わせ急に笑い出した。その急変ぶりに、剣持と湊は唖然として顔を見合わせる。
「警視、一体何が?」
「明智さん、どうしたんですか?」
「これを見て下さい」
ひとしきり笑った明智はブロンズ像をテーブルの上に置き促すと、2人は上から覗き込み、あっと声を上げる。
溶けた蝋の泉の中に、血の滴のような小さな紅いBが現れていた。
「あのポスターは第14回分離派展のものです。つまり火を点けて14分経過するとBishopが現れる、という仕掛けだったのです。これはnight
tableですから、ここから動かす必要は無かったんですね」
「さっきまでは何とも無かったのに……空気に触れると色が変わったんですかな」
液化した蝋の中、艶やかに光るBを見て感心する剣持の横で、湊は不思議そうな顔をして明智を見た。
「でもそれだけで、そんなにおかしかったんですか?明智さん」
「これは画伯にしてやられた、と思ったのですよ。あの天使は目を閉じていますよね。もしかして果報は寝て待て、だったのかと気付いたら ―――」
一瞬の静寂が訪れた後、部屋は笑い声に包まれる。
「成る程、そりゃうまく出来てますな!」
「確かに」
剣持が膝を打てば、湊も笑いながら頷く。その中で明智はもう一度、鮮やかに紅いBの文字を見てから明かりを付けた。
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