「……こいつですか」
 親指と人差し指で顎を挟み、しげしげと時計を眺めていた剣持は、おもむろに振子の下がるガラス戸を開けて中を覗いた。
 「確かに以前、そこにフロッピーディスクが入っていた事がありましたね。で、成果はいかがですか?」

 「――― 判ってるんなら聞かんで下さい」
 がっくりと肩を落とした剣持は、大きな振子がゆっくりと時を刻み、重厚な錘と鎖が下がっているのを恨めしそうに見つめてガラス戸を閉めた。そして体を起こすと、改めて振子時計を眺める。
 4時52分を示す文字盤は金で装飾され、アラビア数字で囲まれた中心にはsun faceが輝いている。その上に銀で装飾された半円形の、見慣れぬ文字盤が目についた。同じアラビア数字が1〜30まで5単位で並び、針は15を指している。
 「明智警視、この文字盤は何ですか?」
 「月齢文字盤ですよ。今夜は満月ですから15なのです。確かに今夜、私はここに招待される事になっていた訳ですから、full moonで考える事は可能ですが…」
 「何の事ですか?警視」
 腕を組んだまま、時計を見つめて言い淀んだ明智に興味を引かれて、剣持は水を向けてみる。
 「棋譜の事です。Chessはまず手数の順番を記し、次いで動く駒の種類と到着点を記します。このgameはPawnから始まりましたが、Pawnの棋譜だけは移動先の地点のみ記すのです。つまり到着点を数字の1〜8、アルファベットのa〜hで表記される事を踏まえますと、full moonからf、時計の短針から4を取って最初の一手をf4、と解釈する事も出来るのですが……」
 「何か問題でも?」
 語られた推理に期待感を持って、剣持は重ねて訊ねる。
 「天気ですよ。今日は雨で日照時間が少なくて、早くに明かりを必要とした訳ですが、晴れていれば5時の可能性もあった訳です。ここに来る事は直前に決まった訳ではないですから、あらかじめ天気を予測するのは難しく、不確かな事を謎解きに使うのは相応しくありません。ですからこの見解は間違っている、と判断したのです」
 「はぁ…、成る程」
 どうやら藪をつついて蝮を出した事に気付いた剣持は、感心を通り越す生返事をした。明智はそれを気にする風もなく、今度は時計の脇に飾られた、ほぼ同サイズのアンティークポスターに視線を変えていた。と見つめる先を白いものに遮られる。
 「次の一手は決まりましたか?明智さん」
 湊からタオルを和やかに差し出され、明智は苦笑しながら受け取った。
 「いえ、まだです。今回の画伯はなかなか手強いですから。ところで画伯はAlfred Rollerのファンでしたか?」
 「特に好き、とは聞いた事が無かったですけど…」
 言いながら湊も明智に合わせて、目の前のポスターを見つめる。全体を桜色に刷られたポスターには、エジプトの立像のような人物が、オールドローズ色の輪郭と影で横向きに描かれていた。胸の前で小さく広げた両手の中には、シンボル化された光が白抜きで表現され、下部には告知用のアルファベットが白く並び、SECESSIONの表題が読み取れる。
 この山荘の殆どの部屋に、Alfred Roller の分離派展ポスターが飾られているのを、明智は確認していた。
 「言われてみれば、騎士の肖像を探しに来る前は無かったですね。急に父は気に入ったのでしょうか」
 湊は明智に答えつつ、剣持にもタオルを渡した。
 「や、すいません。しかしこちらはやはり都内と気温が違いますな。この時期にもう暖房が必要なんですから」
 頭やスーツに付いた雨を拭いながら、剣持は続きになっているリビングを振り返る。リビングでは暖炉の中で薪のはぜる音がして、炎がその色と共に暖かさを届けていた。
 「そうですね。雨じゃなくてもこの時期は、日が落ちると急に冷え込むんですよ。少し面倒ではあるんですけど、この風情を楽しめるのが山荘の良い所ですね」
 濡れた二枚のタオルを受け取って、湊はリビングとは反対方向にある洗濯室へと足を向けた。湊の言葉に明智もリビングへと目を向ける。それはポスターの人物が見つめる先と同じ方向だった。

 視界に入ったのは先程座っていたソファとネストテーブルで、中でもテーブルの上に置かれたパイプラックは目を引いた。本邸にあった木製のシンプルなものと違い造形的なブロンズ製で、月桂冠を頭に頂いた天使が両脇に立ち、一人の天使の羽は飛び立つように広げられ、もうの一人の羽は降り立ったように下がっている。
 引っ掛かりを覚えた明智はリビングへと移り、パイプの無いラックを見つめる。とそこへ、戻ってきた湊もリビングに入って来たので、明智は顔を上げた。
 「湊君、画伯のパイプは1つでは無かったですよね?」
 「えぇ。一番愛用していたMotoring Windshieldはお棺に入れましたけど、その他のホワイトスポットも持っていました。それが何か?」
 「昨日からパイプを1つも見ていないので、ちょっと気になったのですよ」
 「確かアトリエの引き出しの中にあったと思いますけど…見てみますか?」
 「いいえ、あるのでしたら結構です。つまりパイプはあるのに、これは使われていない訳ですね。成程
――― 」
 口元に笑みを浮かべた明智を見て、湊はオヤという顔をする。
 「良い手が浮かびましたか?明智さん」
 「そうですね。剣持君の頭から煙が出ないうちに、そろそろ次の手を打ちますか」
 言われて振り返った湊が見たのは、振子時計の前で腕組みをして、捩じ切れそうな程首を捻った剣持の姿だった。明智と湊は顔を見合わせてこっそり笑いあうと、その横で薪のはぜる楽しそうな音がする。
 「では湊君、このリビングの照明を消してもらえますか?剣持君!君には玄関ホールの明かりを消してもらいます。相根警部に連絡を」
 不意に声を掛けられ直立の姿勢になった剣持だったが、すぐ様明智の指示通り連絡を入れる。そして明智の合図で、玄関ホールとリビングの明かりが消された。
 暖炉の炎を残して暗くなったリビングを、剣持は振子時計の前からぼんやりと眺める。これも明智の指示だが、一体どういうつもりなのかさっぱり判らず、プラスター塗りの白壁の前に立った上司を訝しく見て、剣持はあっと声を上げた。
 「警視!これは一体……」
 剣持の声に視線を合わせた明智の眼鏡が光り、その横にはKの影文字が浮かび上がっていた。
 「今までの遣り方に沿ってみただけですよ。イーゼルがあればその脇に立ち、屋外燈もまた然り。ですからその振子時計から、ポスターと同じ方向を見てもらった訳です。そこから一番目に付いたのはパイプラックですが、見ての通りそのままでは文字になりませんでした。ですが湊君の言葉で、足りないものがあったのに気付いたのです」
 「え!?僕の言葉ですか?」
 思い当たりのない湊が、不思議そうな顔をして明智を見ると、柔らかい微笑みが返ってくる。
 「天気に関係なく、この時期は日が落ちれば暖房を必要とする、とね。つまり今までと同様に夜が必要だったのです」
 明智の言葉通り、夜と化したリビングに暖炉の炎は明かりとなって、影文字を作り出した。それはパイプラックの天使が作り上げたもので、直立した二つの体は重なって垂直な縦線となり、それぞれの羽は二つの斜線と化してKの文字を構成していた。
 「多分この先も、必要不可欠なものだと思います。騎士の肖像を探す鍵として、ちょっとしたユーモアじゃないですか?何しろknightとnightは同音ですから」

 ―― 確かに。父ならそう言った事は好きそうですね」
 明智の意見に湊も頷き同意する。その横を剣持が通り、パイプラックと影文字をしげしげと眺める。
 「成程。わざわざブロンズ製なのは、動かしにくいからですな。ところで警視、このKは何のKですか?Knightからnightを取ったものですか?」
 剣持は影の出る位置を見越して、わざわざ隣に立った聡明で嫌味な上司を見た。
 「いいえ。これはKingのKですよ、剣持君。Pawnの棋譜は移動先の地点を記すと先程説明しましたが、他の駒はアルファベットと移動先の地点を表記します。つまりはKing=K、Queen=Q、Bishop=B、Rook=R、そしてKnight=Nです」

 「――― という事は、Nの文字が出て来た所に、騎士の肖像があるわけですな」
 「恐らく。今後何れかのアルファベットが出てくれば、間違いないでしょう」
 再び点いた明かりの下、明智は確信に満ちた笑みを閃かせた。