――― 降りそうですね」
 車窓から鱗雲を眺めて明智は呟いた。
 「山荘の方では、もう降っているかもしれませんね」
 「予報では、夜半過ぎには雨は上がるそうですが」
 湊が同意すると、運転している警官も話を合わせた。フロントガラスには一定の車間距離を保って、剣持の乗る先導車が見えている。
 「そうですか、やはり雨夜の月にはならないようですね」
 明智はそう呟くと、シートに沈み込み瞼を閉じる。束の間の休息を取るその姿を、湊は静かに見守った。
 目的地が近付くにつれ秋陰は広がりを見せ、迫る山の紅葉を浮かび上がらせる。やがて車は高速を降り、県警と合流した麓では美しい紅葉に霧の帳が下りていて、ほどなくして秋雨の歓迎を受けた。

 陰雲はいつにも増して早くに闇を届ける。そのあまりの早さに外を警備していた警官は、着ていた雨合羽を僅かに震わせ、思わず明かりの灯る山荘を振り返った。
片流れと急勾配で組み合わされた屋根と、多角的に張り出した空間を持った山荘は闇の中、幻想的な姿で浮かび上がっていた。見付けの大きな窓は、冷えゆく夜に暖かい明かりを届けていたが、それを遮るように明智警視が現れ夜を見つめる。その姿に慌てた警官は、フードを被り直す振りをしながら向き直り、再び警備に集中した。
 「もう、日が落ちてしまうんですな」
 剣持警部はリビングにある暖炉の前に立ち、窓の外を見て溜め息を吐く。
 「秋の夜長ですからね。ここは山中でもともと日照時間が少ない上、この天気では仕方が無いでしょう。しかし雨は小降りになっているようですよ」
 警備のライトアップに照らされる雨を眺めていた明智は、冷えた窓ガラスから離れソファに座る。剣持はテーブルの上に置かれた報告書を横目で見ると、頭を掻いた。
 「しかしさっぱりですなぁ。この山荘の先は行き止まりですし、一番近い別荘は1qも手前。しかもそこは最近使われてなかったとくれば、聞き込みの成果がなくても仕方ありませんな」
 「そうですね。しかし絵を隠すには絶好とも無用心とも言えます。舟生画伯の完成品が、こんなセキュリティもない山荘に放置されているとは、常識では考えにくいですからね」
 「成程、盲点を突いたという事ですか。人の心理を逆手に取った、実に大胆なやり方ですな」
 目を丸くした剣持を、明智は見据える。
 「確かに。しかしチェスの棋風はどちらかと言えば、繊細でしたけどね」
 そう言うと、明智は剣持の苦手な笑みを浮かべた。返答に詰まった剣持は、その場を取り繕おうと上着のポケットを探ったが生憎と煙草は無く、心の中で舌打ちをする。仕方なく視線を元に戻すと、明智は既に剣持を見てはいなかった。
 ソファのアームに肘を置き、軽く握った拳の上に顎を乗せて雨降る宵を見つめていた。一見すると寛いでいるようにしか見えない静かな姿だが、良く見ればその瞳は雨を見ているのではなく、深い思考に囚われているのが判る。恐らく今は亡き、舟生画伯との頭脳戦に鎬を削っているのだろう。
 剣持は山荘内に警官を置かない警備体制で本当に良かったのか、もう一度確認しようとして止めた。恐らく明智以外に騎士の肖像は探し出せないだろうと、その横顔を見て確信した剣持は、せめて邪魔をしないようにと明智から視線を外すと、イーゼルの上に置かれた術士の肖像と目が合った。必要になるかもしれないと、明智が山荘まで運んだものだが、それまで明智を傍らから見守るように見つめていた高遠が、邪魔をしようとした自分に凄みを利かせてきた気がして、剣持は声を掛けなくて本当に良かったと胸を撫で下ろした。が直後に軽く頭を振って、そんな錯覚を打ち消した。
 そこへ隣のダイニングから湊が現れて、急ぎ足でリビングを横切る。
 「どうかしましたか?湊君」
 「あ、たいした事ではないんです。庭の屋外燈が1つ消えているのが見えたので、電球を取り替えようと思って」
 納戸へ足早に向かった湊の後ろで、明智は即座に立ち上がった。
 「剣持君、gameが始まったようですよ」
 すぐに玄関へと向かった明智の後を追いながら、剣持は明智がこの時を待っていた事を知った。
 玄関から出てきた明智警視と剣持警部の姿を認めて、県警の相根警部はすぐに駆け寄って来る。
 「何かありましたか?」
 慌てた様子の相根警部に、明智は平静に応じる。
 「いえ、こちらの調査のためです。警備の方、特に変わった様子はありませんでしたか?」
 「はっ、特に異常ありません」
 「何かありましたら、すぐに連絡を」
 「はっ」
 剣持より若く明智より年上の相根警部は、警視の言葉に安心すると敬礼をし、再び警備へと戻っていった。
 明かりのない屋外燈の傍らに立った明智は、雨に濡れながら山荘を凝視する。と玄関が開いて傘を差した湊が電球を片手にやって来た。
 「どうしたんですか?お二人とも、傘も差さずにこんな所で」
 「視界の妨げになるのは困ると思いましてね、湊君。ところでこの雨の中、電球を替えるのは危険ですから、止んでからにした方が賢明でしょう」
 「それもそうですね。でも明智さん、眼鏡に水滴が付いてしまっては逆効果じゃありませんか?」
 そう言って湊は、ふわりと明智の上に傘を差した。一瞬明智は目を見開いたが、微笑む湊と目が合うと口元に笑みを浮かべる。
 「ありがとう湊君。でももう判りましたから、山荘の方に戻りましょう」
 一つ傘の下、2人が連れ立って山荘の方へ歩き出すと、取り残されそうになった剣持が慌てて後を追う。
 「待って下さい警視、一体何が判ったんですか?」
 「剣持君、その消えている屋外燈の脇に立って山荘の方を見て下さい。何か目に付く物はありませんか?」
 剣持を振り返らず、湊と共に玄関ポーチまで歩いた明智は、眼鏡に付いた水滴をハンカチで拭う。置き去りにされた剣持は山荘をじっと見つめていたが、眼鏡を掛けた明智が湊と一緒にこちらを向いたのを見て、あっと声を上げると、すぐ様明智の元へと駆け寄った。
 「判りました!この玄関扉の窓から見える、大きな振子時計ですね!!」
 ポーチに立った2人は離れて、扉を間に入れて立つという不自然な行動を取り、ヒントを与えられた剣持がそこに見たのは、扉に嵌め込まれたガラス越しに映る大きな振子時計だった。
 「そういう事です。あの場所から全体が良く見える物は他に見当たりませんでしたから、恐らく間違いないでしょう」
 両開きの扉を開けて中に入ると、湊が笑みを浮かべて振り返る。
 「流石ですね、明智さん。ではお二人とも早く中に入って下さい。濡れたままでいて風邪でもひいたら大変ですから。今タオルをお持ちします」
 湊が足早に脱衣室へ向かうと、明智はストレートティップを脱ぎ、剣持は扉を閉めた。すると外気の冷えが遮断され、暖かい家の温もりに包まれる。
 「しかし警視、これが偶然ではなく、ゲームの始まりだとどうして判ったんですか?」
 「あの屋外燈を見て、何か気付きませんでしたか?」
 「は?」
 質問に質問で返された剣持は扉を振り返り、縦長の窓越しに消えたままの屋外燈を見た。白くて丸いランプの下には、同じく白い円柱が裾を広げた形で立っている。
 「ChessのPawn の見立てでしょう。判りやすい様に、普通黒が一般的な円柱部分が白くなっていますから。それにあの駒からgame を始める事が多いですし、舟生画伯もPawn 以外から始めた事は無かったですよ。因みに屋外燈の数も全部で8つでしたね」

  ――― 成程」
 「問題はこれからです。やっと駒が動き始めたわけですからね」
 2人の前には玄関ホールに堂々と立つ、Grand father clock がその存在を誇示している。それを見つめる明智の瞳は謎解きを楽しむように輝き、gameの先を読む鋭利な表情へと変化した。