静寂の戻ったリビングに一人残った明智はゆっくりとコーヒーを飲み干し、空になったカップをテーブルの上に置いた。
(ちょっと大人げなかったですね)
 剣持に冷たい目線を投げたのは八つ当たりと自覚しての事だった。別に剣持を咎めた訳ではなく、昨夜あの絵を見てから生まれた焦燥感のせいだった。あの画像が目に焼き付いて離れない。別にあの絵を描いた画伯を責める訳ではなく、ただ何故あの絵を高遠に渡すよう自分に託したかが問題だった。
(私に絵を渡しそれを情報提供として逮捕に協力する。というには手が込みすぎてますね、画伯)
 データファイルの中に術士の肖像は無かった。そしてあの窓を使ったトリックはロス市警時代を思い出させた。マスクマンと遭ったのは別の場所(ゴーストホテル)だったが、当時話題になったため目にしている可能性は十分あった。
 軽く握った拳の上に顎を乗せ俯いていた明智は、自分を見つめる視線を感じ、顔を上げ目線を絡めた。
「やはり貴方が関与してますね?」
 自分を見つめる高遠に問いかけた。昨夜役目を終えたイーゼルと共にここに運ばれた術士の肖像を、明智は見つめた。この駆られるような気持ちは何なのか?この焦燥感は一体何処から来るものなのか?
 ――― 会えば判りますよ ―――
 明智が高遠の声を感じた瞬間、胸ポケットの携帯が鳴った。必要以上に驚きながらも努めて冷静に声を発する。
「 ―――― 私だ」
 携帯から聞こえたのは期待した声ではなく、部下からの連絡だった。明智は報告を聞き終え通話を切ると、自分の感情に眉を寄せた。 
「明智さん変じゃありませんでした?」
 上着を軽く洗い終えた剣持に、タオルを手渡しながら湊は呟いた。タオルで袖を簡単に叩きながら
(だったらやっこさんはいつも変だな)
 と思いつつ、作業を終えると上着を着ながら剣持はそれでも聞き返した。
「どの辺が、ですかな?」
「何か余裕が無いような、張り詰めた緊迫感があるというか……」
「そうでしたか?いつもあんな感じですよ、警視は」
 あっさり否定した剣持は、明智の視線を思い出し軽く身震いした。
「そうですよね、よく考えたら仕事中でした。父とのラストゲームで負ける訳にはいかない、と言ってたそうですからきっとそのせいでしょうね」
「ラストゲーム?」
「ええ、父からの手紙がその招待状だったんだろう、と明智さんが。何かいつも家に来てた時と随分雰囲気が違ってたし、あの絵を見た後だから余計に心配になってしまって…」
 剣持は意外に感じた。いつも余裕の態度でポーカーフェイスを崩さず、イヤミの言葉を持って人を串刺しにする難攻不落の警視を心配する事が、だ。面喰った顔の剣持に逆に湊が意外そうな顔をした。
「他人の明智さんに変ですか?でも両親も"もう一人の息子"と言ってたくらいですし、僕にも頼れる兄的存在ですよ。初めは羨望と嫉妬が無かったと言えば嘘になりますけど、張り合うには明智さんは優秀すぎましたから。内を知ればすごく優しいですし、僕の留学に一番に賛成してくれて、両親を説得する口添えをしてくれたんです。あれは大きかったなぁ」
 剣持は目を丸くして意外な明智の一面を聞いていた。確かにあれほど優秀な人間を、息子や兄と言って誇れる気持ちは分かる。言われてみれば、金田一と張り合いつつも擁護しているところは優しいと言えなくもない。が自分の上司となると事情は少し異なる。
「だから四つしか離れていない兄を心配するのは当然じゃないですか?」
 剣持は頭上にタライを落されたような衝撃を受けた。目の前にいる青年は確かに年相応に見える。それは明智も顔だけ見れば同様で、更に眼鏡を外せば実年齢より若く見える事も知っている。が、いかんせん良くも悪くも剣持はいつも近くに居過ぎるせいで、外見よりも中身である性格と仕事振り重視のため、彼と四つしか離れていない上司の年齢を完全に失念していた。明智の年齢を再認識させられた衝撃から立ち直れない剣持に、湊は更なる追い打ちをかけた。
「大丈夫ですよね。剣持警部のような剛健な方が一緒に居る訳ですし。あの絵の明智さんはすごく無防備で儚い感じだったので」
「刃火七射?」
 剣持は初めて聞いた言葉のように感じた。これでは明智と違う意味での精神攻撃を受けているのと変わらない事に気付いた剣持は、湊の両肩をガシッと掴んだ。
「大丈夫です!さっき君も言ってたが、警視は見掛けよりもず
―― っとタフなんです」
「そうでしたね、ありがとうございます剣持警部。明智さんを宜しくお願いします」
 実感のこもった剣持の言葉に湊はホッとした表情を見せた。
「任せて下さい!」
 ドンと胸を張った剣持はこの青年の様子を見て、初めて騎士の肖像に興味が湧いた。怪盗紳士の標的になる絵は素晴らしい作品ばかりで、舟生画伯も一流の画家として名が知られている以上、騎士の肖像もその名に恥じない作品なのだろう。一種怖い物見たさもあるが………
 剣持はハタと気付いた。
「さっき"宜しくお願いします"と言ったかな?」
「ええ、だって怪盗紳士はその絵と一緒にモチーフを盗む事で有名ですから。父を亡くしたばかりで兄まで失うのはごめんですから……」
「警視
――――― っっ!!」
 剣持は皆まで聞かず顔色を変え、すごい勢いでリビングに向かって駆け出して行った。
後には呆気に取られた湊が残された。




「警視!!ご無事ですか?」
 勢いよくリビングに飛び込んできた剣持に、明智は半ば呆れ顔で答えた。
「どうしました?剣持さん血相変えて」
「怪盗紳士はモチーフも盗む訳ですから、警視が心配になりまして……」
 明智は溜息を付くと眼鏡を光らせた。
「剣持さん、貴方は怪盗紳士の担当になってどの位ですか?犯行の手口は君が一番熟知していなければ困ります。怪盗紳士は手荒な事は好みません。命を奪うような事が今まで一度たりともありましたか?」
「はっいえ、ありません」
 偽怪盗紳士ならあったが今回はその可能性は低い。心配すればこれだ。薮をつついてアナコンダを出してしまった剣持は、騎士の肖像なんて本当にあるのか?とその存在を怪しみ始めた。すると直立している剣持の背後から忍び笑いが聞こえた。
「あんな事言ってましたけど、やっぱりすごく心配してらしたんですね」
 剣持の後ろから湊が顔を出した。
「湊君、困りますよ部下をからかわれては」
「そんな事してませんよ。僕はお願いをしただけです。ですよね、剣持警部」
 ニッコリ笑ったしたり顔の湊を見て、やられた剣持はこの二人はやはり兄弟かもしれない、と心の涙を流した。ほどなくして剣持の大声を聞きつけた警官隊が一斉に駆けつけ、同じく夫人もすぐに現れた。剣持の弁明で何事もない事が分かると、朝食にしましょうの一言に騒ぎは一段落した。