ドアを軽く2回ノックすると、中からどうぞと聞こえ、剣持は書斎に入った。
「山梨県警と連絡がつきました。今夜から警備にあたります」
「分かりました。ご苦労様です」
 アームチェアに座った明智は、一旦PCを操作する手を休めて答えた。報告を終えると、剣持は改めて部屋を見回した。この舟生邸の壁はプラスター塗りの白だったが、アンティークの家具が木の温もりを与えていた。しかし、この部屋は黒い書架が二層吹き抜けで制していて、家具もスチールやガラス等で無彩色に統一されていた。書架上部の空いている黒い部分に多少の圧迫感を感じて、剣持は締めているネクタイを少し緩めた。
「何か、この部屋は他と雰囲気が違うんですな」
「ええ、父が自分をナチュラルな状態にしたい時、この部屋を使ってたんです。だからこの書斎は無彩色なんです」
 明智の横にワシリーチェアを置いて、一緒にPCの画面を覗いていた湊が答えた。
「はー、それでこれに寝ながら、本を読んだりしてたんですか。しかし大した蔵書ですな。これだけ見れば小説家でも通りますよ!」
 剣持はシェーズ・ロングの寝椅子のすぐ脇に立ち、圧倒される書架を見上げた。
「父は以前、絵を描くという事は、視覚から得る情報を自らの情の中で再構築し直すことだ、と言ってました。それは自らの情と向き合う事になり、自分を再認識する行程の手段の1つとして、本を読む、という事をしていたそうです。でも、ある時から画風が変化したんです。僕はその後の作品の方が好きなんですけどね」
 画風の変化と聞いて剣持は、蒲生画伯と和泉宣彦を思い出し、表情を固くした。
「まさかゴースト(代作家)……」
 剣持の呟きを聞いて、一瞬目を丸くした湊が急に笑い出した。
「ハハ…それこそまさか、ですよ!僕は父が絵を描く姿をずっと見てきてますから。実はその変化後の作品について、今までと違った評が付くようになったんです。それは"真実の姿を描き出そうとしている "といったもので、また更に高い評価を得たんです。そういった作品が生まれるようになったのは、明智さんと出会った後からなんです。これが偶然とは思えませんよね?明智さん」
 ニッコリ微笑んだ湊に、明智は今までずっとキーを叩いていた手を止めた。
「でしたら光栄ですね、湊君。ところで部下の非礼を許して下さい。彼は怪盗紳士の専属で、前にゴースト絡みの事件を担当したものですから」
「あ、気にしてないですよ。それって和泉画伯の事ですよね?知ってますよ!あの時、絵は盗まれなかったって。流石、明智さんの部下の方ですね!」
 その正確ではない誉め言葉を、明智は黙殺し、剣持は笑ってごまかした。
「ところでここ最近、このPCに触れてないですか?」
「ええ、父はまだこれを始めたばかりで、英国にいた僕とメールをするくらいでした。母から、友人や美術関係者、及び作品のデータを入れ始めたばかりだ、と聞きましたから」
「そうですか。でも画伯はかなりがんばっていたようで、結構データが入ってますよ」
 明智が少し身を引いたので、キャスターが音を立てた。湊は身を乗り出し画面を見ると、確かに思った以上に入っているようだった。
「明智さん、これを全部確認するんですか?」
「ええ、これだけならそう時間は掛かりませんよ」
 目を丸くしている湊に、明智は涼しげな笑顔で答えた。その様子を見ていた剣持は明智の邪魔にならぬよう、退散する事にした。
「では明智警視、私は警備に戻ります」
 敬礼をすると、剣持は書斎を辞した。
(アレに最後まで付き合ったら、倒れちまうんじゃないか?)
 剣持は、一緒に残った、目を丸くした湊の身を案じた。


 
 案の定、湊はシェーズ・ロングを使う羽目になった。