「どうぞ」
夫人が離れになっているアトリエのドアノブを開けると、部屋に染みついた、油の匂いが漂った。その香りを、そのまま舟生画伯の気配のように感じ、足を踏み入れるとそれに包まれた。部屋の中央に置かれた、カンヴァスの無いイーゼルを見て、明智は筆を動かす舟生画伯を思い出していた。
「主人はここに人が入るのを好みませんでしたけど、明智さんは特別でしたものね」
『明智君!申し訳ないが、今乗っていて手が離せないんだ!』
「そう言って、画伯がここで描いている姿を見たのが最初でしたね」
「そうそう、折角明智さんがチェスをしにいらしたのに、主人が急に仕事に入ってしまって。私達家族は慣れてますけど、明智さんはあれが初めてでしたでしょう?でも嫌な顔一つしないで、主人が描いてる傍らで静かにコーヒーを飲んで、帰られたんでしたわね。その時描いた絵が自分でも出来が良かったらしくて、その後、暫くここでチェスをしてましたわね」
「急に仕事が入る、というのはお互い様でしたから。私も急な呼び出しで、失礼した事もありましたし。でも画伯の真摯な姿と、素晴らしい作品が出来あがっていくのを拝見出来たのは、光栄でしたよ」
答えてから明智の視線は漂い、南側全面に十文字バーのスティールサッシ枠を使った、窓の向こうの闇を望んだ。今は幾つかの外灯の明かりと、その照明に浮かび上がった木立の影が立ち並んでいた。しかし昼は、今の時期、色付き始めた紅葉を見る事が出来た。このアトリエの造りは、内外との繋がりを求めた画伯の意向で、サンルームのようになっていた。その窓が、明智に、お互いの仕事以外でチェスをせずに帰った事を思い起こさせた。
仕事で続いた徹夜明けの休みの日。明智はここで画伯を待っていたが、その居心地の良さと疲労のため、いつしか眠ってしまっていた。日が落ちて気温が下がり、夕闇の気配に目を覚ますと、ひどく残念そうな画伯と目が合った。我に返り、失態を深謝すると、画伯は少し怒ったように言った。
「遺憾なのは、君がもう目覚めてしまった事だよ。疲れているのなら最初からそう言って、無理せず休みなさい!君の事は、もう一人の息子のようにも思っているんだよ。だから遠慮せず、ゆっくりしていきなさい。家内も同じように思っているよ。今夜君を家に泊める事を話したら、嬉しそうに準備をしていたからね」
有難い画伯の言葉に、明智はその後宿泊もするようになり、舟生家との親睦を深めていった。
今、冷静になってその事を思い返すと、何故か予告状の文面が頭の中を過り、明智は夫人に尋ねた。
「もしかして、ここでチェスをしなくなってから、画伯は山梨の山荘に行きましたか?」
「ええ、確か半年位かしら?暫く向こうにいましたわ」
明智は眼鏡を光らせると、左手で前髪を掻き上げた。
「成る程、やられましたよ画伯」
「何か?明智さん…」
その時言葉を遮って呼び鈴が鳴り、来訪者を告げたため、夫人は母屋に戻った。それは、警備に到着した剣持警部だった。
明智も夫人に続いて母屋に戻ったが、リビングにあった術士の肖像を持って、もう一度アトリエに引き返した。そして中央にあるイーゼルに絵を置いた。棚に並んだカンヴァスは皆大きく、立ててあるイーゼルのサイズと合わず、明智に違和感を抱かせていた。しかしこうして術士の肖像を置くことによって、それは解消された。更にイーゼルの足元を見ると、市松寄木の床板にはナイフで削られたような僅かな印があり、明智の推理の正しさを証明していた。立ち上がった明智は高遠を見つめた。
――― お待ちしてますよ、明智警視 ―――
高遠は、明智に歓迎の笑みを贈った。
「そうですね、あまり貴方をお待たせする訳にはいきませんね」
視線を合わせると、その先に闇を宿した瞳がある。以前、人物を描く時尤も気を使う、と画伯は言い、明智は、人体の中で唯一透明な箇所で、人の内面を映し出してしまう水晶だからかもしれません、と答えていた。見入れば彼の瞳には、吸い込まれるような闇だけではなく、狂気の光も存在している事が解る。
明智は絵の横に回り、高遠と同じように夜を見つめた。するとそこには光があった。
「成程、そういう事ですか」
明智が眼鏡のブリッヂを上げると、外は俄に明るくなり、その光がレンズを反射した。
「明智警視!この絵はいったい!?」
舟生邸の警備を指示し、夫人にアトリエに案内してもらうと、そこには明智警視と、描かれた高遠が待っていた。
「これは舟生画伯から私に贈られた、術士の肖像ですよ。届いたのは昨日です。これと一緒にね」
そう言って、明智は剣持に封筒を渡した。
「警視は、舟生画伯とお知り合いだったんですか」
教授や博士やら、交友関係の広さを知ってはいるものの、やはり目を丸くする剣持だった。心の隅で次は大統領か法皇か、とも思う。
「ええ、チェス仲間でしてね。この家にも何度も来ています」
「しかし、舟生画伯と高遠が繋がっていたとは驚きですな。これを読むと、警視に例の騎士の肖像を高遠に渡すよう、依頼されてるように思えますが…」
「そうですね。私に逮捕して欲しかったようですね。しかし、肝心の騎士の肖像は未だにお目に掛かれてないですけどね」
「やはり怪盗紳士に既に盗まれてしまったのでしょうか?」
「いえ、それは有り得ないでしょう。剣持さん、君はここに来る時追跡されてませんでしたか?」
「は?いえ、尾行はされてなかった、と思いますが」
「いえ、君はずっと付けられてましたよ。この予告状の中に書いてあるものにね」
そう言って、明智は予告状を胸ポッケトから取り出し、剣持に渡した。剣持はそれをしげしげと見ると、あっと声を上げた。
「月ですか!?」
「そう、今夜は待宵。明晩は月の鏡、すなわち満月。犯行を予告しているのは明日の晩です。しかし、この予告状は気掛かりですね」
「どういう事ですか?」
「この舟生邸に、騎士の肖像は無いからですよ」
「え!?じゃあ何処にあるか、警視はご存知なんですか?」
「ええ。画伯が私にだけ判るよう示してくれましたよ。剣持君、外に警備の照明を少し落させるよう指示して下さい」
剣持が言われた通り無線で指示を伝えると、少し暗さが戻り、幾つかの外灯の明かりが目立ってきた。
「こんなもので良いですね。ではここに立って下さい」
明智は剣持を、絵のすぐ脇に、窓に向かって立たせた。
「この窓の数はチェス盤と同じ構図になっています。それを踏まえて、彼と同じ目線になって下さい」
剣持は嫌そうに絵を見た後、長身を少し屈めもう一度窓を見た。
「これは!?」
すると、幾つかあった外灯の明かりが木の影等に隠れ、たった1つの明かりだけが、一番右隅に光った。
「夜の肖像画にこんな意味もあった訳です。因みにチェスの最初の配置で、そこに置かれるのはrookと呼ばれる駒です。イギリス英語ではcastleで城郭や館、という意味になります。これはking側のrookですから、アトリエ中心で建てられた山梨の山荘、と考えるのが妥当でしょう」
「成る程、さすが警視ですなぁ。ではすぐに山梨の方に移動しますか?」
当たり前のように涼しい顔をしている明智に、剣持は勢い勇んで言った。
「いえ、ここは慎重に駒を動かしたいところなので、もう少し調べてからにしましょう。でないと、無駄に駒を失う事になりかねませんからね」
「どういう事ですか?」
「忘れたんですか?彼が受け取る筈だった、トリックノートを奪った人達がどうなったかを。怪盗紳士との対面が、彼の芸術作品になるかもしれない、という事ですよ」
困惑していた剣持の顔色が変わった。目の前にある高遠の笑みは、幻想魔術団員の無惨な死体を思い起こさせ、剣持の耳にあの言葉を再生させた。
――― だって、つまらないでしょう?ただ殺すだけじゃ!
―――
冷酷な殺人者の気持ちが理解出来ず憤慨したものの、理由があり、同情の余地もある事は分かった。しかし、その犠牲者に怪盗紳士がなるのはご免被る気持ちの裏側には、長年の付き合いになってしまっている処から生まれる、同情だけではないものもあった。が剣持はそれを(自分が逮捕するんだ!)という警察の義務感と摩り替えていた。
明智は剣持の様子を見て、この男も案外複雑な所もあるんだな、と本人以上に正確にその感情を読み取っていた。面白そうに自分を見ている明智の視線に気付き、剣持は慌てて逃げ場を求めた。
「山荘に明日行かれるのでしたら、山梨県警に連絡を取り、警備の手筈をしますが」
剣持は必要以上に汗を掻きつつ、今は自分の上司に頼るしかない事を分かっていた。
「そうですね、では君のリクエストに答えましょう」
明智は剣持に、いつもの有り余る自信に満ちた笑みを見せた。
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