焼けた朝が終わり、野鳥の囀りが一夜を守護した警官達の労をねぎらっていた。同じ頃、剣持はリビングで通話を終えたところだった。ポケットから煙草とライターを取り出し、煙草に火を付け一服した。この平穏な空気が嵐の前の静けさだという事を充分承知していた。吸い終えた煙草をガラスの灰皿で揉み消すと、洗顔を終えた明智が入ってきた。剣持はすぐさま報告をした。
「警備の方は特に異常ありません。先程山梨県警からも連絡があり異常ないそうです」
「ご苦労様。やはり今夜が勝負所ですね」
明智はソファに深く腰掛けると足を組み、眼鏡のブリッヂを中指で上げた。その顔はいつもの澄まし顔だったが、剣持は書斎の明かりが一晩中消えず、リビングにも一度も顔を出さなかった事を知っていた。
「何かありましたか?警視」
「ええ、データの確認を湊君としてみると改ざんの跡がありましてね。そのデータファイルを開くと画面に怪盗紳士のカードが表示されるようになっており、続いて例の文章が現れ、最後に騎士の肖像が浮かび上がってきました。マクロウィルスか何かの仕組みでしょう。それとは別に周到にネットワーク接続の構成を壊されていました。手の込んだクラックをやったみたいですね。それなりに手間取りましたがなんとか回復出来ました。たまたまネットワーク・トラブルを調査するためにトレースを仕掛けっぱなしだったので、トレースを解析して多少の事を調べられましたが、相手も幾つかホストを経由してきているようで、完全な足取りは掴めませんでした。まぁPCから怪盗紳士が情報を得た、という手掛かりが得られた、というところですかね」
「え!?じゃあ騎士の肖像が誰を描いた絵か判ったんですね?」
「ええ、尤も騎士の肖像の画像は一度再生すると消去されるようプログラム化してあったようで、もう見れませんがね。これは既に盗まれたと言えるでしょう」
「もったいぶらずに教えて下さい警視、誰だったんですか?」
「私ですよ」
「!?」
「怪盗紳士の予告状の中に"彼の作品と共に…"とあって少し引っ掛かっていたんです。舟生画伯の作品も被害にあってますが、私が描いた素描を怪盗紳士にプレゼントした事がありましてね。両方を意味するのではないか、と予想した訳で……剣持さん?」
いつも無駄に動きが多く、小さな事にもいちいち反応していた剣持の様子がおかしい事に気付いた。明智は額に人差し指を置くと、剣持のお株を奪うような大仰な溜息を付いた。眼鏡を光らせると氷解の呪文を唱えた。
「ヌードじゃありませんよ」
「は!?いや、別にその事を疑った訳じゃなく、いえ、あの余りに驚いたせいで……」
意識を取り戻した剣持は、明智の冷たい目線にいきなり断崖絶壁に追い込まれた。そして自らの態度と弁解がその事を雄弁に肯定し、自分の掻いた大量の汗で出来た泥沼に嵌っていった。が脱出出来なければ明智の下は務まらない。
「しかし警視、モデルをしていたなら何故今まで黙ってたんですか?」
「思い当たったのは昨晩このアトリエに来てからですよ。ここには主にチェスをしに来てましたから」
「主にですか?」
「確かにそれ以外もありましたけど、モデルをしに来た事はありません。ただ画伯を待っている間に一度うたた寝をしてしまった事があって、どうやら画伯はその時スケッチをして、それを元に絵を描いたらしいんです。あの騎士の肖像は」
疑わしそうな剣持に、何故自分がこんな弁解めいた事をしなければならないのか。と明智はだんだん理不尽な気持ちになってきた。
「コンコン」
ダイニングと間仕切られたカナディアンオークの開閉壁が音を立てて、妙な緊張感漂うその場の空気を壊した。縦長に嵌め込まれたすりガラスに救世主の影が映し出されていた。
「コーヒーを淹れたんですが、失礼してもいいですか?」
「ありがとう湊君。どうぞ」
何となくホッとしたような明智の声に壁が開かれ、目の下に少し疲労の影を宿した湊が、コーヒーの香りと共にリビングに入った。銀のトレイからブルーマウンテンの入ったマイセンのコーヒーカップをテーブルの上に置くと、明智の隣に座った。挽きたてのコーヒーを一口飲むと疲労が和らぐ。一息ついた明智は隣からの視線に問うた。
「何か?」
「いつも家にチェスをしに来ていた明智さんからは、刑事なんてピンと来ないと思ってたんですが、やっぱりこうして見てるとそうなんだなって実感してたんです。失礼だとは思いますけど、見掛けによらずタフですよね」
「ッゴホッ」
言われた明智ではなく、剣持がコーヒーを気管に入れて咽かえった。
「大丈夫ですか?!剣持警部!僕タオルを持ってきます」
慌ただしくリビングを出た湊は、静かにコーヒーを飲む明智と、今だ苦しむ剣持を残した。
「何か言いたそうですね?剣持さん」
「ゴホッ…滅相も…ケホッないっ…すよ」
明智のタフさはすぐ下で働く剣持が一番よく知っていた。確かに最初に会った時は湊と同じ印象を持ち、この坊ちゃんが自分の上司かと未来の展望に落胆した。ところが捜一にいる以上惨たらしい死体に多く遭遇しても、まったく平然としているわ(ロス研修の経験があれば当然なのだが)もちろん銃の腕前は言わずとしれず、更には警視庁内でも一、二を争うくらいPCに精通しているため、長時間それを操作する姿を見ていくうちに、ただの玉ではないと分からされた。そして今までとまったく違う合理主義的なやり方に、不平を持ったものの慣れてくると、その効率の良さで確実に検挙数は上がり、杞憂はいつしか消えていた。駄菓子菓子それだけに止まらない多方面に何でも出来るマルチタイプの天才で、取りつく島のないところが他のキャリアとまったく異なっていた。そこで弱味の1つも見つけようと、ザルの捜一のメンバーを揃え親睦会と称した飲み会に強引に誘い、酒を注ぎに注いだが潰れず、逆に墓穴を堀り、捜一の墓碑が並んだ記憶はそう古くはない。付け入るどころか恩に着る始末で、明智が枠でもあったという事が判明した哀しい結果に終わった。最初に抱いた印象とこれほどかけ離れると思ってもみなかったが、要約すれば『可愛い気がない!!』の一言に尽きる。年相応の可愛い気があればもう少し付き合いやすくもなるのに、とも思っている剣持だが、今はその明智から見透かされたような冷ややかな視線を浴びている。
そこに救いの足音が近付いて来た。
「大丈夫ですか?剣持警部。上着にも少し掛かってますか?」
タオルを持って帰ってきた湊の頭上に、剣持には天使の輪が見えた。
「染みになると困るんでちょっと洗いたいんですが、洗面室は何処ですか?」
「あ、だったら脱いでいただければこちらで洗いますよ」
「いやいや、少しですから自分でやりますよ」
剣持は湊を急かせて案内してもらい、その場を逃げ出した。
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