最初は煙草だった。自販機で買おうとしたら、愛煙しているメーカーの物が売り切れで、仕方なく少し先のコンビニまで歩いた。序に買おうと思ったパンの賞味期限が切れていて、しかもその種類は他に無く、更に最後の1つだったので、已む無く別のパンを買った。
「ったく、今日はついてねーなー」
 車中で焼きそばパンをかじってから、ブラックコーヒーを一口飲んだ剣持警部は一人ごちた。すると胸ポケットの携帯が高い電子音を上げた。
「はい!剣持………」
 その声と内容を聞きながら、剣持は短い春が終わった事を知った。
(虫の知らせってやつだったのか〜〜)
 電話の相手は、今日休暇を取った筈の明智警視だった。しかも怪盗紳士からの挑戦状、というご丁寧なおまけ付きだ。通話が終わると、剣持は無線で警備の指示を伝えながら
アクセルを踏んだ。心の涙を流しながら……





(舟生画伯の作品もやられてるな)
 剣持は、膝の上に乗せた盗難ファイルを捲っていた。三作品が盗まれていたが、いずれも絵は売却された後で、持ち主は全て異なり、画伯所有の物では無かった。
「警部、もうすぐ舟生邸です」
 運転している警官の声に顔を上げると、他の人家と少し離れた所に明かりがあった。
舟生邸は里山の麓にあり、雑木林に囲まれた姿は立派な別荘のようでもあった。今は夜の帳が降り、二つの暈を被った待宵が、少し色付き始めた錦木や楓を淡く照らしていた。
(これは、警官隊が何人いても足りんな)
 塀も生垣も無い舟生邸の見取り図を見て、最初にそう思った。蒲生邸はもっと広大な敷地ではあったが、和泉宣彦を監禁するための厳重な檻があった。何処からでも侵入可能な舟生邸に、明智が指示した警備の指示は小人数だった。
(一体、何を考えてんだ?やっこさんは…)
 舟生邸に到着し、警官隊に周辺警備の指示を出すと、剣持はライムストーンのアプローチへと足を運んだ。 
舟生画伯が倒れていた、というリビングに通された。ボッティチェルリのソファがあり、これに凭れ掛かる様に俯せで倒れていたのを、夫人が発見した、と調書には書いてあった。ぐるりと見渡すと、その部屋の景色は主が居なくなった事を知らないかのように、以前と少しも変わらない。しかしその中で小さな変化を明智は見つけた。ショーケースの上に置いてある、エルム材のパイプラックが目に止まった。
『どうしても、好きなものは止められない』

 そう言って笑いながらパイプを吹かしていた画伯を思い出した。愛用のホワイトスポットはお棺の中に絵筆と共に入れられ、今はもう無かった。
「明智さん、こんな形で貴方をお迎えする事になってしまって」
 そう言ってブルーマウンテンの深い香りを漂わせながら、敦子夫人はリビングに入ってきた。元々明智は画伯とチェスをするため、今夜から一泊する予定だった。マイセンのコーヒーカップをテーブルの上に置く夫人の顔は、舟生画伯の急死、怪盗紳士からの予告状、と立て続けの大事に憔悴していたが、明智の顔を見てからは落ち着いた静けさへと変わっていた。明智と向かい合う形で夫人はチェアに座った。
「実は、これを見ていただきたいんです」

 明智はソファの横に立て掛けてあった梱包された荷を解き、自分の膝の上に置いた。夫人の目は大きく見開き、食い入るようにじっと見つめた。
 ―――― これは主人が描いた肖像画ですわね?」
「初めてご覧になりますか?」
「ええ、この絵を見るのも初めてですし、主人のこんな作品を見るのも初めてですわ。明智さん、この絵は一体どうされたの?」
「昨日、私に届いたものなんです」

 狼狽える夫人に、明智は内ポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。夫人はショーケースの上に置いてあった老眼鏡を掛けてから、封筒を開け、便箋に書かれた一文を読んだ。
「そうでしたの。それで騎士の肖像は、この絵と一緒に明智さんの所に?」
「いえ、この術士の肖像一枚だけです。ところでこのモデルに見覚えはありますか?」
「いいえ、初めて見ますわ。主人が描いた肖像画の中では、随分と異質な方ですわね。

――― でも良い絵だわ。きっと明智さんのために描かれた絵なのね。夜の肖像画は私が知る限り、これ一点という事になりますわ」
 夫人は暫く絵を眺めてから目線を落とし、もう一度便箋を見つめた。
「明智さん。私、主人が亡くなったのはそれはショックでしたけど、私の知らない作品を怪盗紳士が狙った事も、ひどくショックでしたの。怪盗紳士は名画を盗む事で有名でしょう?その絵を私が知らなかったなんて。それに、舟生享三に予告状が出されたという事は、舟生家が所有している筈ですものね。正直言って、舟生享三の一番のファンである嫉妬心と、妻の私が主人の事を何も知らなかった悔しさで、胸を塞がれたような気持ちになりましたの」
俯き加減で話していた夫人は顔を上げ、明智と目を合わせた。
「でもこうして明智さんが、術士の肖像と手紙を見せてくれたお陰で、胸の痞えが取れた感じなんです。だって主人は明智さんのために、騎士の肖像を態と隠した訳ですものね。それでしたら納得出来ますわ。"私達のもう一人の息子のため"ですものね」

 夫人はホッとしたように微笑むと、カップに口を付けた。明智もそれに倣ったが、夫人の痞えがそのまま降りてきた気がした。まだ謎の部分が多いせいもあるが、それとは別に、過去に同じような感覚に囚われたのを思い出していた。
 ロスでも、死骨ヶ原でもそうだった。捜一に身を置く以上、凄惨・残虐な事件に、理不尽な想いを抱く事は一度や二度ではなかったが、身体の中に痼を残されるのは彼が関わる時だけだった。 
 明智は自分の脇に置いた術士の肖像を見つめ、目線を合わせた。すると絵の中の高遠が答えた。

 ――― 期待ですよ ―――
 あの声で囁かれた気がして、明智は驚愕で体を固くし、そのため手に持っていたカップとソーサーが触れ合い音を立てた。
「どうかしました?明智さん」

「あ
――― いえ、この絵が私のために描かれた、と仰ったのは何故かと思いまして」
 明智はカップをテーブルの上に置き、取り繕った。
「そうですわね、何となく、この人物が月の剣のように思えたんです。そしてその薔薇が血のようで、人の負が魅力的に描かれてますわ。ですからこの絵はまったく否定されるか、逆に魅了し取り込んでしまうか、両極端の強い印象を人に与えると思うんです。でも明智さんなら、この絵と正面に向き合う事が出来て、その上で気に入ってくれる、と思って主人は贈ったんじゃないかしら?持ち主まで選ぶ絵ですわね」
 絵を見つめていた夫人は、明智と向き直った。

明智さん。この絵がそうであったように、きっと騎士の肖像も、持ち主を選ぶ絵だと思うんです。ですから、どうか怪盗紳士からその絵を守って、主人の願い通りにしてあげて下さい。お願いします」
 夫人は立ち上がると、頭を下げた。明智は恐縮して少し困ったような顔で、優しく答えた。
「頭を上げてください。恐らく画伯は今回、趣向を凝らしたゲームをするつもりだったんでしょう。この術士の肖像は、そのための招待状でしょう。これを受け取ったからには、このゲ−ムは誰にも譲るつもりはありません。私と画伯のラストゲームなんですから」
 柔和な口調とは裏腹に、明智の表情は、画伯相手に全勝し続けたプレイヤーの顔になっていた。
「ええ、そうでした。主人は今回、いつも以上に明智さんが来るのを楽しみにしてましたわ。すごく嬉しそうで、まるで悪戯を楽しむ子供のような顔だったの。………どうもありがとう、明智さん」
 夫人は目の縁に、涙を溜めて微笑んだ。