「ピピッ」
 小さな電子音が流れ鍵が開いた事を知らせると、明智はカードキーをしまい玄関に入った。内羽根式oxfordを急いで脱ぎリビングへ向かうと、抱えていた大きな荷物をフローリングの床の上にそっと置いた。そして厳重に梱包されていたその荷を慎重に解いた。
「これは…」
 その大きさや形から予想していた物が現れたにも拘らず、明智は驚愕のあまり声に出していた。

 窓の向こうは夜。窓際に立つ人物は描かれていない月からの光を浴びて闇に浮かんでいた。しかし明智にはその人物そのものが冴え返る氷のような白い月に見えた。こちら側に背を向けて立っているが振り向いた横顔は、月の狂気を凝縮したような目と唇の端が僅かに上がり冷笑した表情に、明智は凍らされた。彼が眼鏡を取り外したあの時と同じように、絶対零度の世界で脈打つように生きているのは、その人物が持つ血のように紅い薔薇だけだった。それは地獄の傀儡師、高遠遥一を描いた肖像画だった。
 暫く高遠の呪縛に支配されていたが、はらりと落ちた封筒によって明智は我を取り戻し、それを拾い上げた。見ると表に"明智君へ"と書いてあった。中の便箋には次のような一文が万年筆で書かれていた。
「この術士の肖像を明智君に
 彼に騎士の肖像を」
 右下には日付と舟生亨三というサインが入っていた。一読すると明智はすぐに絵を額から外し、入念に調べた。が細工らしきものは何も無かった。つまり送られてきたのはこの術士の肖像一枚だけという事になる。絵を元に戻すとサイドボードの上に飾り、今度は明智が高遠を凝視した。
「凄い置き土産ですね」
 この肖像画を描き、自分に贈った画家を思った。絵の横には一枚の葉書があり、その画家が既にこの世にない事を報せていた。明智はその葬儀に参列する予定だ。
 軽く溜息を吐くと戦闘準備に取りかかった。程なくしてリビングにブルーマウンテンの深い香りが漂った。

その日は穏やかな人柄だった、故人を思わせる天気だった。先程葬儀は終わり、黒い塊だった参列者は散り散りになろうとしていた。しかし山門を潜る前に、一枚の絵のような光景に出会い誰もが足を止めていた。
 一際大きな銀杏の根元に、俯き加減で故人を偲んでいる憂い顔の人が佇んでいた。長身に黒い喪服は、伏目がちな瞼に掛かる白銀の髪、光を弾く白い肌と相俟って、近寄り難い雰囲気を醸し出していた。銀フレームの眼鏡のレンズが光を屈折し、微妙に表情を変えさせていて、見る者に哀切を感じさせた。そこに慰めとも取れる、少し早くに色付いた金色の小さな扇が舞い落ちて、哀憐は一層増して見えた。
 やがてその絵は一人の人物が近寄った事によって壊され、遠巻きに鑑賞していた美術関係の弔問客は(中には嘆息を吐きながら)その場を去っていった。
「お待たせしました、明智さん」
 明智に声を掛けたのは、喪主を務めた一人息子の舟生湊だった。
「いえ、それで話というのは?」
「実は父が亡くなる前の日に、これが届いていたらしいんです」
 そう言って彼は、内ポケットからカードを取り出し、明智に渡した。
『騎士の肖像を戴きに月の鏡にて参上する。
 彼の作品と共に我がコレクションは、いっそう輝きを増すだろう     
                              怪盗紳士』
 立心偏の跳ねた文字は、怪盗紳士の予告状と見て間違いなさそうだった。
「何故すぐに警察へ、でなければ私に相談しなかったんですか?」
 舟生画伯が亡くなって、既に五日が経っていた。しかし明智は咎めるのではなく、寧ろ静かな口調で言った。
「すいません。実はそのカードに気付いたのは一昨日だったんですが、肝心の騎士の肖像が見当たらなかったんです。それで既に盗まれてしまったもの、と思ったんですが…」
 言い淀む湊を明智は促した。
「何か不審な事でも?」
「ええ。実は僕も母も知らない作品なんです。一昨日、昨日と自宅や保管庫、それと山梨の山荘を探し、それから画廊の方にも連絡したんですが、何処にも無くて。それで父の葬儀の事を連絡した折に、今まで被害に遭われた方達に怪盗紳士の話を伺ったら、どうも犯行手口が違う気がしてきて…」
「確かに既に盗んでいるのなら、らしくありませんね。でもこのカードは本物ですよ」
 明智は手の平を返すと、持っていたカードを湊に見せた。
「怪盗紳士はまだこの絵を盗んでいません。警備の事もありますから、これから自宅で夫人に会えますか?」