雨音に八戒は目を覚ました。 雨の気配には敏感になっていて眠りが浅くなり、こうして目覚めてしまう。眠っていてもあの時を夢見るし、起きていても繰り返しその事を思うのであまり区別はないのだが、窓際に座る白い姿が目に入り、起きたんだなと八戒はぼんやり思った。雨雲の薄暗い明かりは今が何時か教えてくれない。三蔵はページを一枚捲り、そのまま読み続けている。 「遠慮せずにもっと寝てたらどうだ?どうせ寝てなかったんだろう」 「はぁ、でも雨音が気になってしまって…」 八戒は三蔵の向こうにある雨を見つめる。 闇へと誘う音と気配、そして伝い落ちる雨雫。彼女の姿が浮かぶ前に三蔵がまた一枚新聞を捲る。その仕草を追って彼がいつもと違う事にようやく気付き、八戒は三蔵をじっと見つめた。 「何だ?」 「いえ、眼鏡かけるんですね」 「あぁ、軽い遠視と乱視でな。長く読んでると疲れる」 「そうなんですか」 三蔵は顔を上げずに活字を追い続け、八戒もそれ以上訊かなかった。降りしきる雨が気になって窓を見れば、視界には三蔵を入れなければならない。まるで自分が過去に近付くのを阻んでいるかのように、窓際に座っている。他意ではないと思う、が態とそこにいるようにも思えてしまう。 そして又三蔵が新聞を一枚捲った。 今は雨を見ているせいか、三蔵の姿を捉えても目眩も頭痛も襲ってこない。 あぁ、こういう事なのかと八戒は唐突に理解した。 これが両眼で見る事なのだ。 窓の向こうに降る雨と三蔵を同時に映して、過去と現在を両眼で見て、八戒はやっと納得した。光を映したからといって影が消える事はない。過去は消えない、消し去れない。 やっと安心したように八戒は目を閉じると、ベッドの上で膝を抱えて頭を乗せた。そして雨と三蔵を見つめると、彼の眉間に深い皺が刻まれているのに気付く。それを見て八戒はある事を思い出した。 「コーヒー、飲みますか?」 「あぁ?」 ここにきて、三蔵がやっと頭を上げた。 「インスタントですけど、看護婦さんに頂いたんです」 八戒は足を下ろしてベッドの端に座ると、部屋の端にある置棚を指し示した。そこには確かにコーヒーと紙コップがある。それを視認した三蔵は八戒を振り返る。 「具合の方はどうなんだ?」 「眠ったから大丈夫ですよ。今は何ともありません」 微笑みながら答える八戒に三蔵は疑わしそうな目を向けたが、結局は眼鏡を外した。 「貰おうか」 「はい」 八戒はスリッパを履くと備え付けの洗面所で電気ポットに水を入れた。お湯が沸くまで紙コップを用意し、ドリップ式のインスタントコーヒーを取り付ける。以前同じタイプのものを花喃に淹れた事を思い出して、胸の軋む音がした。味にうるさかった彼女はそれに満足せず、その後インスタントは淹れなくなったのだった。 こうして日常の小さな1つ1つが彼女へと繋がっている。こんな風に彼女を思い出すたびに、飲み込んだ針が痛みを訴え彼女を失った事を思い返す。痛みが辛いのではない。彼女がいない喪失感が耐えがたいのだ。彼女を知ってしまった以上、孤独を知らなかった悟能にも戻れない。今はもう八戒なのだ。 電気ポットのランプが替わり、お湯が沸いた事を知らせる。八戒はその事に気付いて、お湯をコーヒーに注いだ。真中に出来るだけゆっくりとかけ、落ち始めたら円を描くようにして外側へとかけていく。すると湯気が立ち昇り、芳ばしい香りが広がっていく。 「あの、ミルクも砂糖もないんですけど良いですか?」 「ああ、構わん」 蒸らし終わったコーヒーに再びゆっくりとお湯をかけてから、八戒は紙コップを三蔵の前に置いた。インスタントでありながら丁寧に淹れられたコーヒーに、三蔵は口を付ける。今まで茶を飲んでばかりだったため比較は出来ないが、独特の深みある味と香りは美味しいように思えた。 「成る程、嗜好品か。考えたな」 「えぇ、以前煙草が吸えないと話をされてたでしょう?これならどうかと」 「お前はどうなんだ?」 「え?」 「包帯が取れたら飲めないのか?」 「……あぁ、そうですね。じゃあいただきます」 本当はカフェインはまだ飲んではいけないと言われていたのだが(あのコーヒーは見舞客限定で貰ったものだ)、八戒は今飲みたいと思い、自分の分を淹れた。緩やかに昇る湯気の下には褐色のコーヒーが香りを広げる。八戒は紙コップを持ってベッドに座ると、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。 何だか随分と久し振りに飲んだ気がする。悟浄さんの家でも飲んだような気もするが、あの時は味も何も覚えていない。花喃に会いに行くことしか考えていなかった。でも今は…… 八戒は両手で包んだ紙コップの中の褐色を見つめて、もう一度口を付ける。コーヒーの味が判る。インスタントでありながら、それでも美味しいと思えた。そして目の前に座る三蔵さんも再び口を付けた。新聞は折り畳まれテーブルに頬杖を付いて窓の向こうを見ている。眉間の皺は消えたようだが、相変わらず不機嫌そうな顔で雨を見ている。ふと苛立つ視線が動いて紫暗の瞳と目が合った。 「で、どうするつもりだ?」 「そうですね……本当に自由にしていいんですか?」 「あぁ、お前の好きにしろ。寺に戻っても構わんし、出るなら所在を教えろ。それだけでいい」 幾ら自由にして構わないと言っても、度を越してないだろうかと八戒は溜息を吐いた。大量虐殺者をこうも簡単に野放しにする監督官の思惑が判らない。 ――― やっぱり聖職者だからですかね ――― その昔、孤児院にいたシスター達を思い出す。結局は自分を生かしてしまう人達を。 檻の替わりにあるのは信用という重い鎖 戒めの名 目を背けるのを許さない偽りの瞳 「判りました。取り敢えず寺院は出ます。これ以上お世話になる訳にもいきませんし。落ち着いたらご報告にあがりますよ」 「……判った」 そう言って三蔵さんは眉間に皺を寄せると、再びコーヒーを飲んだ。 不機嫌な横顔を見ていると、だしぬけに以前手にした銃を思い出した。随分と使い込まれた銃だったのを覚えている。屍の血の上に立ち、生きているのを自覚している人なのだろう。だからこそ今は傍にいたくないと思ってしまう。特にこんな雨の日は。 八戒が再び雨に目を向けると、三蔵が口を開いた。 「おい」 「はい?」 「おかわりはあるのか?」 「はい」 「なら貰おう」 「…はい」 八戒は立ち上がり、置かれた紙コップを手にするとフィルターを取り付ける。そして先程と同じ様に丁寧にコーヒーを淹れると、もう一度三蔵の前に淹れたてのコーヒーを置いた。 「どうぞ」 「あぁ」 八戒はベッドに座り、サイドテーブルに置いた自分の紙コップを手に取ると、少し冷めたコーヒーを飲んだ。 ニ杯目のコーヒーはひどく苦いものだった。 予想していた言葉を聞いて、苛立つ気持ちはどうしようもなかった。 三蔵は病院を出るとすぐに煙草に火を点ける。やっと吸える煙草も別に美味いわけではないが、吸わずにはいられない。雨を、闇を見つめる顔が頭から離れない。向けられた右眼には確かに闇が存在していた。以前雨の中に佇んでいた時と同じ顔、同じ姿で過去に沈む八戒の瞳。ただ雨の中へと出て行かないだけで。 短くなった煙草を投げ捨て立ち止まった。目の前で道は二つに分かれていて、三蔵は寺院に帰る道とは違う道を選んで歩き始める。 八戒は必ずあの赤い髪の男に会いに行く筈だ。行く当ては他にないだろうし、何より約束を果たしに行くだろう。 煙草を取り出し咥えて手を翳すと火を灯した。風が出てきたらしい。吐き出す紫煙をあっという間に攫っていく。宵闇に雲は多く、これから出る月を黒い影で覆い隠そうとしているようだった。 果たしてあの男は八戒を、いや悟能が来るのを待っていた。 「これは……」 「餞別だ」 渡された小さな箱を開ければモノクルが入っていた。退院の当日、三蔵は八戒に手渡した。 「右眼にだ。安定するのにまだ時間が掛かると医者共が言っていたが、それで少しマシになるらしい」 「はぁ……」 微かに見える右眼のせいで逆に両眼視が難しく、苦しむ八戒を見兼ねて作られた特注品だった。八戒はモノクルを取り出し、暫し眺めてから右眼に嵌めてみる。すると光の乱反射が抑制されて確かに少し視界がクリアになる。 「あ、本当に少し見やすいですね。でもこれ、高いんじゃないですか?」 「実験体なら金を貰って然るべきだろ」 そう言って三蔵は懐から出した封筒を手渡した。 「これは、もしかして…」 「そういう事だ。受け取っておけ」 そう言うと三蔵は返品不可だとでも言うように、懐から煙草を取り出し火を点けた。 横を向いて紫煙を吐き出す姿に八戒は苦笑を浮かべた。相変わらずの不機嫌な顔だが、そっけないようでいて、突き放さない優しさがあるのだろう。随分と面倒をかけてしまった自覚はある。迂遠に届く優しさは、今の自分には痛みすら覚える事もある。だから今は離れていたい。せめて真っ直ぐに見つめて笑顔を浮かべる。 「すみません、随分とお世話をかけちゃいましたね」 「仕事の内だ」 「………居場所が決まったら寺院に報告に伺います。慶雲院でしたよね」 「あぁ」 「じゃあ三蔵さん、ありがとうございました」 会釈をした八戒は、仏頂面の三蔵に柔らかな笑みを残して歩き始める。 確かな足取りで、少しづつ小さくなっていく背中は真っ直ぐに伸びている。あの赤い髪の男との約束を果たしにいくのだろう。それでいいと思う。思う通りに生きればいいのだ。ただヤツの思う通りに事が運ぶのは癪に障るので、腹いせにちょっとした趣向を凝らしてやったが… 「フ…ン」 溜息のように大きく吐き出された紫煙は長く伸びて抜けるような青空へと吸い込まれていく。 もう一つの餞別が贈られていた事に八戒が気付くのは、悟浄に再会した後だった。 |
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2005/10/11