「何て言うかその、凄いですねぇ…」 「ん…まぁ何もする気がなくて、さ」 林檎を食べるためにやってきた森の中の一軒家。 八戒は玄関扉を開けた瞬間立ち尽くし、悟浄は鼻を掻きながら明後日の方を向いた。 「僕がいた頃は、これ程じゃなかったと思うんですけど…」 「あん時は動けない重傷人を汚い部屋に置いとくつもりかって、ヤブ医者に言われてよ」 「成る程、あの頃は努力の賜物だったんですね」 八戒は大きな溜息を吐く共に肩を竦めた。その後2人が林檎を食べられるまで騒々しい音が森に響いていた。 「うさぎでいいですか?」 「何ソレ?」 「だって林檎を食べるんでしょう?それとも木の葉がいいですか?」 「うさぎと木の葉って何か関係あるわけ?」 「えぇ。リクエストがないなら両方にしますね」 「???」 部屋がコーヒーの香りで満たされる頃、出された皿の上にうさぎと木の葉に切られた林檎が乗っていて、悟浄は赤い瞳を丸くした。再会した衝撃が徐々に去っていき、淹れてもらったコーヒーを飲んで平静さを取り戻した悟浄は、うさぎをお尻から齧った。もう1つ食べようと悟浄が手を伸ばす向こうで、八戒がじっとマグを見つめていた。 「どしたん?」 「いぇ…こんな味だったんだなぁと思いまして」 「悪ぅござんした。確かに俺が淹れるより美味いデス」 テーブルの上に突っ伏す悟浄に八戒は慌てて言い重ねる。 「あ、いえそうではなくて…コーヒーの味が判るようになったんだなぁと」 「そっか、まぁあん時は最初意識なかったしな」 「えぇ、悟浄が内臓を入れてくれたんですよね」 「ん……まぁ、な…」 歯切れも悪く悟浄は頭を掻くと、誤魔化すように煙草を取り出した。肉体的な事ではなくて精神的に余裕がなかったのだと、正しく伝わっていないと思ったが、八戒も取り立てて訂正せずにそのままもう一度コーヒーを飲んだ。悟浄は煙草を一本吸殻に変えてから、コーヒーに口を付ける。そしてあの時聞き損なった事を訊ねてみた。 「なぁ、名前悟能って言うんだって?」 「いえ、今は八戒なんです」 「……あのくそ坊主。また俺に嘘吐きやがったな」 「三蔵さん、何か言ってました?」 「あぁ。あの嘘吐き坊主、お前が死んだって言ってやがった」 「は?」 思い出すと向っ腹が立ってきて、悟浄は煙草に火を点けるとイライラと紫煙を吐き出す。その紫煙を見て八戒は三蔵を思い出し、そして気付く。こんな形であの人は僕の望みを叶えてくれたのかと。丸くなっていた目が細まり、やがてゆっくりと伏せられる。何だか笑い出したい気分になる。 「だから僕は八戒なんです」 「どゆ事?」 理解出来ずに眉を顰める悟浄に八戒は、三蔵に貰った名を改めて告げる。 「八戒という名で新たに生きろと言われたんです」 そう言って微笑んだ八戒に、悟浄は胸の詰まる思いがした。彼から死ぬ機会を奪った事を後悔することはなくても、これからずっと負い目として自分は持っていくだろうと。蹴飛ばした自分を見て笑った瞳、その瞳がもう一度開かれ自分を見つめた時、この髪を血のように見えたと言った時、名を聞き損ねたからという理由を重ねて、彼を失いたくないという強いエゴが生まれた。大事なものを持ち、そして失った彼を。一度諦めさせられたことで、今彼を前にしてその想いは以前にも増して強くなっている。失う事には慣れている筈なのに、思いもよらず戻ってきた初めてのこの感覚、この気持ち。 「………なぁ、飯どうする?」 「良ければ作りましょうか?」 綺麗になった台所に入り、八戒が冷蔵庫を覗けば中は見事なまでに空だった。 「…先ずは買い物からみたいです。さっき他の食材も買ってくれば良かったですね」 本当はそのつもりで出掛けたのだ。けれど髪を切ったにも拘らず、迷わず声をかけてきた悟能、いや八戒に会って綺麗さっぱり忘れたのを悟浄は言われて思い出した。赤い林檎と緑の瞳の男を連れて帰るのが精一杯だったのだ。その林檎と彼が淹れてくれたコーヒーのお陰で取り敢えず、再び出掛けるくらいに腹は満たされている。家から店までの往復距離、食事を作ってもらう時間までもきっと大丈夫だろう。そうして一緒にいる時を少しづつ取り付けていく。 「凄い夕日ですね」 店からの帰り道、森に入る前に2人は思わず歩みを止める。ちょうど日が膨らみ溶けて、周り中を紅く染めていた。全身を橙から朱色に染めて八戒が小さく呟いた。隣に並んだ悟浄も同じ色に染まりながら夕日を見ていたが、ふと頭上を仰いだ。 「あー、にしてもあんなに噂になってるなんて思わなかったぜ」 緑の目をした綺麗な男を悟浄が看病しているという話がヤブ医者から、金髪のこれまた綺麗な顔した坊主がその男を探しているという話が酒場から広がり、暫らく顔を見せなかった悟浄が件の男と一緒になって現れた。ものだから満開に咲き乱れた噂話に当てられて、必要以上の時間をかけて買い物をしなければならず、悟浄は疲れた顔でぼやいた。その手には数日分の食材が入った袋と、お祝いに持っていけと貰った酒瓶。 「何の祝いだ?」 と聞けば店のおばちゃんに 「そのきれーなお兄さんの快気祝いだよ」 と返されて悟浄は面食らった顔になる。何を期待していたか自分で判ってしまい、紫煙を吐き出し誤魔化すと、隣で八戒はありがとうございますと言って微笑んだ。 「人気者ですね、悟浄」 今も同じ様に微笑んで八戒が振り返る。名前だけで呼ばれるのが、どこかくすぐったい。だから唇の端を上げて笑い返す。 「まぁな。もてる男は大変よ」 「じゃあ、その人気者さんに、腕によりをかけて食事を作りますね」 「あぁ、期待してるぜ」 その後悟浄は予想外に待たされ、想像以上に美味しい料理にありつく事になる。腹と背中がくっつきそうになるくらいの空腹は最高の調味料となったかもしれないが、今まで食べた料理の中で一番美味しかった。 ニ杯目のシチューを食べながら悟浄は湯気の向こうの八戒を不思議な気持ちで眺める。音も立てずに行儀良く食べている八戒は随分とゆっくりしている。買い物に行って、相当な時間を掛けてシチューを作り食べている今、結構いい時間になっている。なのに八戒は時計を気にする素振りがない。寺に帰るのだろうと思い込んでいた悟浄は、シチューに目を落とす。この様子では、帰る気がないのではないだろうか。もし仮にそうだとすれば、彼はこれからどうするのだろう。姉であり、恋人でもあった最愛の女はもういない。肉親であると同時に家族を失った彼に行く当てはあるのだろうか。自身にも覚えのある孤独感を嗅ぎ取って悟浄は、スプーンで掬ったシチューを飲み込んだ。 (どうすっかなぁ…) 食事が終わり台所で洗い物をしてくれている八戒の背中を見ながら、悟浄は紫煙を立ち昇らせる。まるでずっと前からそうしているように手慣れた様子で八戒は、皿を洗い拭いて片付けていく。悟浄はその動きを目で追いながらどう切り出すか、言いあぐねて長い髪を掻き上げる。と八戒が布巾代わりのタオルを干してこちらを振り向いた。 「ところでこのゴミの山はいつ出しますか?」 八戒が指差した先には、先程掃除した時に出た大量のゴミが山となって積まれている。意表を突かれた悟浄は赤い目を丸くしてから視線を泳がせた。 「え、え〜と……いつだったかな?」 「は?ゴミの収集日、決まってないんですか?」 「ん〜、いつも適当に出してる」 バツの悪い悟浄が叱られた子供のように落ち着きなく咥え煙草を動かすと、八戒は呆れたように小さく溜息を吐いた。 「じゃあ僕が捨てます。拾って貰ったお礼です」 「ん…、じゃあ頼むワ」 悟浄がニッと笑えば八戒も笑みを返す。そして悟浄は絶対にゴミを捨てる日を覚えないとこっそり誓う。 そうして八戒はこの家の住人になった。 |
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2006/10/14