いつもと同じ不機嫌そうな顔で三蔵さんは言った ――― 八戒だ ――― 八つの戒めと言われて思わず目を瞠ると、真っ直ぐな紫電の瞳と合う 死ぬのを諦めろと言われた気がした 八戒は暗闇の中、数日前の事を思い返していた。 実際には白一色に囲まれた病室の中にいるのだが、八戒は両眼を包帯で覆われているため、今はまったく見えていない。手術した右眼をなるべく安静にするため、連動させてしまう左眼も塞ぐような事を医師達は説明してくれたが、八戒にはどうでもいい事だった。元より生きるつもりもなく、両眼を抉ろうとしていたのだ。確かに生きていくためには視力は少しでもあった方がいいだろう。だが、何のために生きるのだろう。 義眼が予定通りに仕上がらず、遅れに遅れた手術もようやく終わり、八戒は両眼に包帯をしたままベッドの上に横たわっている。見る事も出来なければする事もない。闇の中には死すら与えられない絶望と、眠る事の出来ない鮮血と笑みが繰り返し訪れる。 こうする事が…否こうなる事が罰なのか、とも思う。 それでも意識を手放せないのは、こんな形でも彼女を思い出し、少しでも離れたくないからかもしれない。再び狂気に身を委ねれば、今度は彼女を忘れてしまう。その恐怖よりも。例え彼女が自分を恨んでいたとしても、もうこれ以上花喃を失いたくはなかった。 つくづく欲深い自分に溜息が出る。 八戒はのそりと上体を起こし、近付く気配と足音に耳を澄ませた。唯一の見舞客が廊下を歩いて近付いて来るのが判る。以前より気配と音に敏感になっている。それは体質が変わったせいか、両眼が塞がれているせいか、それとも唯一現実感を伴っている相手のせいかは判らなかったが、見えない瞳を向けて八戒は構えるようにして待った。 やがて扉が開かれると微かな煙草の匂いが流れてくる。見知った気配に八戒は笑みを向けた。 「こんにちは、三蔵さん」 「あぁ、具合はどうだ?」 「特にこれといって……」 見えない不便さや痛みを訴える事もなく、八戒は微笑みを浮かべる。三蔵は舌打ちをする替わりに苦虫を噛み潰したような顔をすると、備え付けの椅子にどっかりと腰を下ろした。 元より両眼を抉ろうとしていた男だ。今更包帯で塞がれたくらいはどうでも良いのだろう。しかしここで寝ているだけの筈の八戒の顔色が、あまり良くない事も三蔵には判っていた。自分自身迷い悩み、悪夢に苛まされるのは雨夜であり、闇である事が多い。今闇の中にいる八戒も、同じ様に苦しんでいるのは顔色からも見て取れる。それを強いている忌々しい包帯を三蔵は見つめた。 「それはいつ取れるんだ?」 「具合をみて、明日だそうです」 「…そうか」 これ以上長引けばこいつの正気が失われるのではないか。聞かされた残す食事の量と、眠っていない青白い顔はそんな不安を掻き立てる。しかし明日という言葉を聞いて細い溜息を吐いたところ、八戒が口を開いた。 「どうせなら今外しちゃいましょうか?」 「何?」 「大丈夫じゃないですか?たかが一日ぐらい」 言いながら包帯を外し始めた八戒の手を、三蔵が掴む。 「早まるな」 「……はぁ」 掴んだ手首の細さに三蔵は眉を顰める。今は妖力制御装置のお陰で人間の姿を保っていると言えども、八戒は妖怪である。強い力を持っている事は重々承知しているが、それでもこの細さは自分でも御せるのではないか、と思える程に痩せていた。 抵抗がないのを確認して、三蔵は掴んでいた手を離すとベッドの上に落ちた止め具を拾い、解けた包帯を巻き直す。 こいつが自分を傷つけるのは、もう見たくない。 「三蔵さんが不機嫌なのは、早くに義眼が見たいのかと思いまして」 包帯を巻き終えた手が止まる。気配に敏感なのは妖怪になったせいか、元より敏いせいか。盲目でもまったく油断のならない男だと、三蔵は舌打ちを堪えた。 「俺が苛ついているのは、ここが禁煙だからだ」 「あ、そうだったんですか。僕なら構いませんから、どうぞ吸って下さい」 「お前が良くても、病院の奴らが良くないだろう」 「そうか、そういうものなんですね。悟浄さんは僕が目覚めたら吸ってましたけど、別になんともなかったですし」 大丈夫ですよと笑う八戒に、三蔵は赤い髪の男を思い出し、眉を顰めた。 思い出すだけで腹の立つヤツだ。ヤツが素直に引き渡していれば、こいつは右眼を失う事もなかったかもしれない。だが死にかけたこいつを助けたのもヤツだった。別れ際、再会するのを願って約束をしていた。律儀そうなこいつの性格を見越した上の手段に、益々腹が立ってくる。今頃こいつが帰って来るのを信じて待っているかもしれない。 黙り込んだ三蔵の機嫌がまた悪くなったような気がして、八戒も黙っていたが、術後の痛みが襲ってきてそっと溜息を吐いた。こうして三蔵が来ると身体が痛みを覚えるのだ。病院の医師や看護婦、寺院の僧侶達がいてもこうはならない。彼らは空ろな時間の中にあり、希薄な存在で、起きたら忘れてしまう夢のようなものだ。 だが三蔵は違う。 彼と食事をする時だけ味が判り、身体は痛みを思い出す。時を刻んでいるという感覚が戻ってくるのだ。口数の多くない彼は、ただ一緒にいるだけなのだが。思えば独房にいた時も雨の中にいた時も、そして食事をする時一番多く傍にいた。監督官である彼は見張っているだけかもしれないが、不思議と威圧感はない。黙り込み、更に機嫌を悪化させている今もそうだ。こちらに当り散らすような事もない。そんなに苛つくのなら吸ってもらって構わないのだが、喫煙する気はないようだ。 暫らく続いた沈黙の後、三蔵は明日来ると言い残して帰っていった。 八戒はもう一度溜息を吐くと、ベッドの上に横になった。三蔵に染みついた煙草の匂いが残っている。 以前にあった空気を思い出し、明日も来ると言った三蔵のために何かないだろうか、と考える。何しろ他にする事がないのだ。わざわざここに足を運んでくれる三蔵のために、せめて出来る事を思い巡らす。 眠る事も出来ない自分に時間だけはあるのだから。 三蔵は病室を出るとすぐに懐に手を入れ、煙草を取り出した。 赤い髪の男は目覚めるまで吸わなかったと言って、包帯をしたまま八戒は笑っていた。そんな話を聞いて、包帯が取れるまであいつの前で煙草を吸える訳がない。 マッチを袂から取り出すと煙草に火を灯した。そして渡り廊下から中庭にマッチを投げ捨てると紫煙を吐き出す。 明日包帯が取れるという。 戒めの名を与え、自分が監督官になる事で、八戒はもうすぐ自由になるのだ。生きる事が罰と言われれば、あの男はその意味を探し逃げずに見つめ、そして自分の元を離れていくだろう。悟空のようにはならない、それは確信を持っている。意識がない時でさえ、寺院を離れようとしていた。確かにあの場所は八戒にとって決して居心地の良い場所ではないだろう。思う通りに生きればいいのだ。そうでなければ自分が監督官になった意味がない。 だが、あの両眼を覆った包帯を見るたびに苛立ちが募るのだ。 あいつが言ったように早く取れればいいと思っているのか、それとももしもずっとこのままだったなら… 三蔵は紫暗の瞳を眇めると、舌打ちをする替わりに大きな煙を吐き出した。 詮無いことだ。左眼は包帯で覆っていてるだけで見えているのだ。万が一右の義眼が見えなかったとしても、このままである事は有り得ない。 「 ………ちっ、たくあいつが関わると増えて仕方ねぇな」 短くなった煙草を草履で踏み潰すと、三蔵は新たな煙草に火を点ける。 寺院までの道すがら、三蔵は煙草を買い足すために街へと足を向けた。 八戒の入院している病室は貴賓室用の別棟で離れになっている。人間から妖怪へと変異した体質は、伝説となるくらいの特例である。よって制御装置を三つも使うほどの妖怪のデーターは存在せず、脳神経をいじる故何が起こるか判らない、というのが病院側の表の言い分だ。裏を返せば万一失敗した時に備えて隔離をしているのだ。今八戒が他人に危害を加える事はないと三蔵は断言出来るが、自分自身に対しては別だ。今他人と関わるのは煩わしいだろうと、三蔵もその病室を使用するのに同意した。中庭を眺めるように作られた渡り廊下を歩いて、三蔵は八戒の待つ病室へと向かった。 「こんにちは、三蔵さん。今日は早いんですね」 扉を開ければ八戒はまだ包帯を取っておらず、日差しの差し込む真っ白い病室でベッドの上から笑顔を向けてきた。どんな時間に訪れても八戒は不思議と挨拶を間違える事はなく、必ず起きて自分を待っていた。あぁ、と三蔵は返事をしながら椅子に座り足を組むと、俯いた八戒がシーツを掴んだのが見えた。 「不安か?」 「…いいえ」 やけにはっきりとした口調に硬さを感じて、三蔵は片眉を上げる。どこか張り詰めた空気を漂わせる八戒に、三蔵はそうかと言って黙り込む。苛立ちの原因である包帯を睨むように見つめれば、昨日には無かった衝動が自分の中に沸き起こる。 こんな風に瞳を覆ってしまっても変わらないのだ。 雨に消えそうな程に希薄なこいつの存在は掴んでも頼りなく、横からの圧力であっけなく折れてしまいそうにも見える。だが間違いなく内には刃を持っている。折れそうな程に研ぎ澄まさせた鋭利な凶器を、自分自身も傷つける事無く鞘に収める事が出来るのか。今は闇にいるこいつの包帯が取れた時、本当に変わる事が出来るのか。今、自分が包帯を外す事は右眼など必要ないと言った八戒の思惑通りになるような気がして、三蔵は拳を強く握り、今すぐ包帯を外してしまいたい衝動をやり過す。 三蔵が自分と同じ様に空気を張り詰めていくのを、八戒は感じ取った。 包帯を外す事に恐れはない。元々左眼は見えている。手術が失敗し、たとえ右眼がまったっく見えなかったとしても、別に構わないと思っている。どちらかと言えばそれを望んでいるのかもしれない。けれど、目を閉じていても近くに三蔵さんの存在を感じる。この暗闇に貴方の光は届かない。なのに声が届くのだ。僕を追いかけ捉えるような声が聞こえるのだ。今も捕縛されるような視線を感じて息苦しくなってくる。このままでいるよりはと、八戒は両手を上げて自分で包帯を外し始めた。 「おい」 「大丈夫ですよ。どうせ今日は外すそうですから、少しぐらい早くても構わないでしょう」 昨日は制止されたが、今日は三蔵の動く気配はない。八戒は止め具を外し、するりと包帯を取り除いてしまった。 滑り落ちたガーゼの下からは揃った翠の瞳が現れる。光線の具合により変わる複雑な色合いは、翠緑玉を使わねばならず、二度と同じ物は作れないと技師に言わしめた右眼だ。よく見れば微妙な色の違いや硬質的な趣はあるが、一見しただけでは判らないだろう。何もかもが白いこの場所で、オアシスのような潤いを持って真っ直ぐに自分を映しているのを見て、その出来に満足しただけではなく、揃った両眼を自分が見たかったのだと三蔵は気付いた。けれど両眼はすぐに閉じられ、八戒は顔を顰めて俯いた。 「どうした?」 「何だか目眩がして…」 「見えるのか?」 「えぇ、見える事は見えるんですが…」 右眼を手で押さえた八戒はもう一度、そっと左眼を開けてみる。白いシーツと解いた包帯が見えて今までと見え方は変わらない。今度は顔を上げて目の前に立つ三蔵の顔を見る。そしてゆっくりと右手を外し、今度は左眼を塞いだ。 「どうだ?」 「そうですね、光は判ります。何だか眩しくて…」 「…そうか」 溜息のように呟かれて、八戒は困ったように笑う。 「僕にはこれで充分ですよ。というか贅沢すぎるくらいです。元より視力が得たくて手術に同意した訳ではありませんから。まったく見えなくても構わなかったのに、光を感じる事が出来ますから」 八戒は押さえていた左手を外し再度両眼で三蔵を見た。 金の髪に白い法衣が光そのもののように見えてひどく眩しい。 正直やられたな、と思った。結局この右眼は光を映してしまった。 闇を映しても構わないと言った人の姿を。嵌められたとしか言い様がない。 耳には声が 瞳には光を この人はどこまで僕の闇を奪えば気が済むのだろう。 それとも僕に完全な影になれとでも言うのだろうか。 僕は諦めたように紫暗の瞳と目を合わせる。 真っ直ぐに見つめる視線は相変わらずで、瞳に自分が映っているのを不思議な気持ちで眺める。彼は何故こうして傍にいるのだろう。彼が近くにいるだけで、僕の時間は流れ生きている事を思い出させる。 こうして罪を償えとでもいうのだろうか。 右眼には罪を 左眼には罰を この揃った両眼で見つめこれからを生きろと 黙ったまま視線を逸らさず見つめていると、不意に紫暗の瞳が和らいだ。それは一瞬の出来事だったが、見逃す事も出来ず八戒は目を瞠る。どうしてそんな瞳をするのか八戒は判らず混乱し、何故か孤児院のシスター達の哀れむような瞳が思い出された。再び目眩と頭痛に襲われ、八戒は片手で目を覆う。 考えられない 考えたくない これ以上 また耳鳴りがする 「おい!どうした」 耳を塞ぎ固く目を瞑った八戒は、顔を顰めてベッドに沈んだ。三蔵の呼びかけにも貝のように丸くなって答えない。何もかも拒絶するような八戒の姿に、三蔵は苦虫を噛み潰したような顔になる。 「ちっ」 三蔵が振り返った時、丁度医師が扉を開けて現れた。 三蔵は眠る八戒を見下ろした。 鎮静剤、鎮痛剤、栄養剤、抗菌剤、消炎剤等諸々の薬を投与され、今は催眠剤によって強制的に眠らされベッドの上に横たわっている。顔色は紙のように白く、姿は斜陽殿にいた頃よりも細く見える。今は固く閉ざされている瞼を三蔵は見つめる。 医師は安定するのに時間が掛かると言っていた。しかしそれだけだろうか、と思う。双眸になっても影は消えない。その事は三蔵の名を与えられた自分が一番良く判っている。なのに揃った二つの瞳に自分が期待をかけていたのだ、と気付かされて眉間に深い皺を刻む。だがこいつは、これから八戒として生きていかねばならないのだ。 三蔵は眠り続ける八戒を見つめて重い溜息を吐く。起きる気配のない八戒は、夢すら見ずに眠っているのかもしれない。静かに規則正しい寝息を立てて、今の寝顔は安らかだ。三蔵は再び先程見た双眸を思い浮かべ、同時に悟空の言葉をも思い出した。隻眼が紛い物とはいえ、揃った翠の瞳は想像以上で、息を呑むほどの美しさが脳裏に焼きついた。 |
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2005/10/11