「八戒だ」
 「はい?」
 「お前の新しい名だ」
 あぁそう言えばと、悟能は新しい名で生きろという三仏神の命を思い出した。

結局悟能という過去を持って生きていく事に変わりはない。
名を変えるという形だけの儀礼に何の意味があるのだろうかと言われた時に思ったが、ふとここに来てから名前を呼ばれていなかった事に気付いて、目の前にいる三蔵を見つめた。
 「不服か?」
 「いいえ。あの…もしかして貴方が付けて下さったんですか?」
 「そうだ」
 八戒は目を瞠り、真っ直ぐに向けられる紫の瞳に見入った。
そう言えば悟能という名は親が付けたものなのか、シスターが付けてくれたものなのか、それすら知らなかった事に今更気付く。
 「八つの戒めと書く」
 読経の時と同じように三蔵の声が胸に落ちてきて、思わず顔を見直してしまう。
 向けられる眼差しから自然と笑みが浮かんだ。
 「ありがとうございます、三蔵さん」
紫暗の瞳がほんの少し和らいだ気がして、逸らされた横顔を八戒は追うようにして見続けた。
 と、扉が控えめに叩かれて僧が顔を覗かせた。
 「三蔵様、朝食をお持ちしました」
 悟能が自失してハンストをした後、三蔵はなるべく食事を一緒にするようになっていた。僧達は手早く膳を用意すると一礼して部屋を辞し、並べられた朝食を前にして三蔵と八戒は席に着いた。
 「いただきます」
 八戒が手を組んでから箸を手に取ると、三蔵も無言で手を合わせてから食事を始めた。

 元より無駄口の少ない二人の食事は静かなものだ。
 騒がしい悟空がいないせいかと思ったが、一人だけの食事の静けさとも又違う事に三蔵は気付いていた。こんな時間は随分と久しぶりな気がして、以前はいつだったかと考え箸が止まった。
 「どうしました?嫌いな物でもありましたか?」
 奇しくも記憶に残る同じ言葉をかけられて三蔵は、それが光明三蔵が生きていた頃だと判り眉を顰めた。
 柔和な顔つきで一見温和な中に強さを秘めているような所は似ていなくもないが、何か決定的な違いがあるように思える。命の恩人でもあり親代わりでもある師とは比べるべくもないのだが…
 「あの、三蔵さん。そんなに不味かったんですか?」
 三蔵が手を付けた山菜を食べてから、八戒は小首を傾げた。
 「……いや」
 こんなに手の掛かるやつと師匠は違うと結論付けた三蔵は、少し憮然として瞳を逸らせる。
 八戒はそれを気にする風もなく笑みを深めると、窓の外を眺めた。
 「今日は良い天気ですね」
 八戒の言葉に促されるようにして、三蔵も窓の向こうへと視線を向ける。
そこには昨夜の激しい雨で淀みを流し澄み切った大気の中、潤い生き生きとした草木があり、更には名残の雫が煌めき光が溢れていた。
 「綺麗ですね」
 眩しそうに目を細めた八戒の穏やかな瞳が自分に向き直り、三蔵は長らく名を考えていた時間を忘れた。
 そしてどちらからともなく二人の箸が再び動き始め、ゆるやかな時間が流れていく。


 この日八戒は斜陽殿に来て以来、初めて食事を残さず食べた。



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2004/08/21