右目には罪を 左目には罰を 「 ――― これは」 悟能の瞳を間近で見た技師は、絶句して息を呑んだ。 あまり見ない緑の虹彩は光線の具合によって微妙な色の変化を見せていた。しかしそれだけとは言い難い、人の心を吸い込むような不思議な趣を持っていて、技師は眉を寄せる。 「まったく同じ色にするのは至難の業ですね」 「で出来るのか、出来ないのか?」 「最善を尽くします、としか申し上げられませんね」 三蔵の端的な問いに、技師は苦笑を浮かべた。 「通常の場合は硝子を使用するのですが、この方の瞳の色具合はそれで表現できるかどうか…。貴石を使ってみたほうが、より近いものが出来るかもしれません。いずれにせよ、一般的な可動性義眼でない事は医師より聞いておりますので、左の正常眼に近付くよう最大限努力いたします」 最高の仕事をお約束しますと言って技師が去ると、当事者である悟能がやっと口を開いた。 「あの、一般的な義眼で結構なんですが…」 「そう思ってたんなら、何故さっき言わなかった?」 「なんだか水を差すようで」 言い淀んだ悟能の向かいに座ると三蔵は、懐から煙草を取り出した。 「おまえを診た医師がおまえの治癒力を見込んで、どこまで回復が望めるかやってみたいと言ってな」 「要はモルモットですか?僕」 「普通の義眼に視力回復の要素はないそうだ。だが、おまえは別に何でも構わんのだろう?」 「それは、そうなんですが…」 紫煙を吐き出してから向けられた紫水晶の瞳に、悟能は居心地の悪さを覚えて目を伏せる。 「費用を払えないですし、三蔵さんにご迷惑が」 「依頼したのは俺だし向こうも言ってきた事だしな。実験的な要素もあるそうだから、おまえが気にする必要はないだろう。それとも気になるのはそっちか?」 「いいえ、それはありません。元よりこの右眼が見えるようになるとは思ってませんでしたから」 「なら構わんだろう」 「はぁ」 何をされるかという恐怖はまったくないが、何故この右眼にそれ程こだわるのか、悟能はまったく理解出来ずに気の抜けた返事をした。 それよりも気にかかる事があり、悟能は開かれた窓へと視線を移した。 光が遮られどんよりとした灰色の雲が立ち込めていた。辺りに充満している水の気配に顔を曇らせる。 彼女を失う時がまた近付いてくるのだ 予想を違えず夜半近くに雨が降り出した。 雨の音が耳鳴りのように押し寄せてくる なのに彼女の声が聞こえる 「もう遅いよ」 「さよなら悟能」 透けるように綺麗な笑顔は血の向こうに消えた 貴女に会うために血の海を泳ぎ、貴女も同じように沈んでしまった 雨が降っていた 雨が降っている 雨はあの日に繋がっている 僕が貴女に会うために 僕が貴女を失うために 繰り返すのは貴女のことばかり なのに何故僕は生きているのだろう 彼女はもう居ないのに どうして僕は生きているのだろう 僕に降りかかるのは血の雨だ 足元に広がるのは血で出来た海 沈むことすら出来ずに僕は、血の海に沈んだ貴女を探している 僕を呼ぶ声も聞こえないのに 垂木を伝い紫煙が夜空へと昇っていく それを遮るかのように、闇から雨が降りしきる 柱に凭れて煙草を吹かす三蔵の足元には、既に数本の吸殻があった。 視線の先には雨に打たれ続ける白の単が幽かに見える。 ――― 念仏でも唱えてりゃ修行僧のようだな ――― いや念仏などなくても、と三蔵は思い直しながら短くなった煙草を指で弾いて、吸殻を又1つ増やした。 人の事をとやかく言える立場ではない 正直雨は苦手だ 自分の無力さを思い知った夜を思い出す 師匠を殺され、奪われた経文を未だ取り返せずここにいる自分が、果たしてあの時から変わっているのか。 奪われた恋人を取り戻せず、亡くして頽れたあいつが一体何を変えたいと思ったのか。 雨の中に立ち尽くす悟能の姿を、三蔵はじっと見つめる。 今日に限って声をかけないのは、悟能が奥庭に踏み止まっているからだけではない。 雨夜に烟る白い姿に視線を送る。 ここに この場所に 自分の足で戻って来いと 先程より強くなった雨足に、それでも三蔵は煙草を吸い続ける。せん敷の上に吸殻が落ちると、雨に濡れて音が立つ。 三蔵は残り少ないマルボロを新たに咥えた。 この場所に貴女はいない どんなに捜しても貴女はここに居ない では何処へ行けばいいのだろう 会えたとしても決して僕を許しはしないだろう貴女に、僕はそれでも会いたいのだ でも会ってどうするのだろう さよならを告げた貴女に僕は 僕は言うべき言葉も持っていない事に気付いた 花喃、僕は貴女を諦めるために生きなければならないのだろうか 血に濡れた僕は貴女に会いに行くことも許されない 悟能はふと手を動かし両手を見つめた。 闇の中でその両手は濡れていた。 血に塗れて ――― いや、ただ濡れているだけだ 暗闇に見えるのは雨に洗われている白い手だ 紅くないのはどうしてだろう 視線を感じてふと顔を上げると、そこには光があった。 「あ…」 回廊に下がる釣灯籠の元、照らされる金の髪と白い法衣が見えた。 見えない筈の紫暗の瞳に捕われる。 ――― 行かなきゃ 三蔵さんが呼んでる ――― 悟能は無意識に足を踏み出し、誘蛾灯に引き寄せられる虫のように歩いて行った。 互いの顔がはっきりと判るところまで来ると、悟能はゆらりと足を止めた。 尚も濡れ続けている悟能の全身には雨が伝う 白い単は透けて張り付き、以前よりも痩せた躯を浮き立たせ、髪は烏羽色となり闇に艶めき、その先からは滴が途切れず白い肌の上を線となって伝い、間からはたった1つの翠の瞳がのぞく。 空ろな瞳には涙の代わりに雨が落ち、頬を流れていった。 もしかしたらこいつは未だに泣いていないのかもしれない、と三蔵は思った。 悲しみよりも絶望に強く囚われ、泣くことも出来ないのではないかと。 三蔵は悔しさと苛立ちから、咥えていた煙草のフィルターを強く咬んだ。すると悟能がそれに反応するかのように一度目を伏せ、再び視線を合わせてきた。ためらいがちに揺れる瞳に自分を映しているのが判って、三蔵は苛立ちが遠のいていくのを知った。 つと唇から煙草を離して灰を落とす。 「あの…僕を呼びましたか?」 「いや」 三蔵は再び煙草を咥えて紫煙を吐き出す。 「そうですか……あの、もしかして又ご心配をおかけしましたか?」 「いいや、外で吸いたかっただけだ」 そういえば声を聞いたわけではなかったと思い、悟能は困ったように瞼を伏せる。 でも確か前にもこんな事があったと思い出した。 「今夜は月が見えませんね」 「雨の月もあるだろう」 「 ――― 」 目を瞠った悟能が思わず顔を上げると、自分を見つめる紫暗の瞳と視線が絡む。 引き寄せられる感覚に、呼ばれたのはこの視線だったのだと悟能は気付いた。 身じろく事も許されず、身体ごと搦め捕られる感覚に、悟能の身の内がぞくりと震える。そしてその事に戸惑う。 ――― どうして ――― けれど向けられた視線が逸らせない。 すると三蔵が唐突に動き、雨の中に入り悟能の手首を捉えた。 驚いた悟能が身体を大きく震わせると、見つめる紫電の瞳が一閃した。 「三蔵さん?」 「で、どうするんだ。まだ月見をするのか?」 言われて悟能は思わず夜空を振り仰ぐ。 降りしきる雨はまだ止む気配もない けれどこの向こうに、確かに月はあるのだと三蔵さんは言う たとえ見えなくとも 会えなくても 悟能はもう一度三蔵を見つめると、静かに微笑んだ。 「いいえ」 すると掴まれたままだった手首が強く握られ、悟能は僅かに眉を顰めた。 「あの、三蔵さん?」 「月見は終わったんだろう。そのまま部屋に戻るつもりか?」 「あ…」 言われて自分を見れば、とてもではないがこのまま就寝できる姿ではない。いつまでも雨に濡れ続ける悟能に焦れた三蔵は、舌打ちをすると悟能の手首を引いて踵を返した。 雨の夜から逃げるように2人は歩き出す 「すみません。三蔵さんまで濡れて」 「なら、とっとと来るんだな」 回廊の軒下まで来ると三蔵はようやく手を離した。 そしてついて来いと言うように顎を刳ると、湯殿へと先を歩き始める。 三蔵の後に付いて大人しく歩き始めた悟能は、掴まれた手首を眺めた。 雨で冷え切った体には温かいというよりは熱く感じて、強く握られた時は痺れが走り一瞬火傷をしたのかと思った。 うっすらとあるその名残に、悟能は怒らせてしまったのだろうかと三蔵の背中を見つめた。 |
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2004/06/08