夜空を行くは月の船
   星の海を漕ぎ何る


 「待て」
 鋭い呼び声に悟能は足を止めた。
覚えた気配と匂いに振り返ると、夜目にも明るい白い法衣を着た三蔵が煙草を咥えたまま立っていた。
 「はい、どうしました?三蔵さん」
 「それは俺の科白だ。寝衣のまま裸足で何処へ行く気だ?」
 「え?」
 言われて足元を見れば土にまみれた素足のままで、着ている白い単は確かに寝衣だった。
 「あれ?」
 困惑して周囲を見回せば、辺りは暗闇に包まれ僧堂の明かりも遠く、奥庭へと足を進めていた事に気付く。振り返り自分の行き先を見れば、奥庭から山へとつながり鬱蒼とした木立が大きな黒い影となり、闇が口を開けて待っているようだった。
 「ここが気に入らないで出て行くのは構わんが、用が終わってからにしろ」
 朱色の煙草の火が生きているように明滅し、紫煙を吐き出して三蔵が告げる。
 「用、ですか?」
 未だ悪夢の中にいるようで現実感のない悟能は、棒立ちのまま聞き返す。
 「ああ、おまえの右目に義眼を入れる。せめてそれが終わってからだ。それまではここに居てもらう」
 やはりまだ夢を見ているのだろうか、と悟能は思う。
三蔵さんの言っている事が判らないのだ。いや、言っている意味は分かるのだが理解出来ない。

 呆然として立ち尽くしている悟能の前で紫煙が立ち昇る
 どうやら返事を待っているのだと、悟能は気付いた。
 「何故です?どうしてそんな必要があるんですか?医師は元には戻らないと言ってました。だったら入れなくても同じじゃないですか?」
 「いや、おまえの左目は見えていても、目に入るものは今何も映していない。違うか?」
 「
―――
 悟能は二の句が継げず、息を詰まらせた。見透かすような紫電の瞳が一閃し、隠し事など無駄な気がした。いた堪れず悟能は思わず視線を外す。
 「ならばこれから入れる見えない右眼で、今おまえが見ているものを見ればいい」
 「え…」
 思わず悟能が顔を上げた時、叢雲が流れて三日月が顔を出し淡い光が射し込んだ。
 まるで欠け落ちた月のように金糸の髪と白い法衣が輝き、白皙の美貌に紫暗の瞳が映える。闇より現れた瞳は鋭い眼光を放っていたのではなく、静穏な瞳で見つめていた事に悟能はようやく気付いた。十六夜の月は眩しさに思わず目を背けたが、三日月の仄かな明かりでも浮かび上がる三蔵の姿は、朝日に輝き読経していた彼を思い起こさせる。

 どんな暗闇も照らす光
 心まで響き届く声

 銃を使ったあの時も、この声を聞いて死を選ばなかったと悟能は思い出した。

 「判りました、三蔵さん」
 「なら戻るぞ」
 「はい」
 照らされる光に向かって悟能はゆっくりと笑みを刻んだ。
背後に光を呑み込む闇を従え、その前に白い単を着て立つ悟能の姿はこの世のものとは思えなかった。物憂げな翠の瞳には深い影が差し、月下に浮かんだ笑みは幽玄で、生きている気配の希薄さに、三蔵は思わず触れて確かめたくなる衝動に駆られた。しかしらしくもない事にすぐに気付いて、替わりに煙草を指で挟んで踵を返す。



 三蔵の背中を見ながら歩く悟能の瞳に、夜を渡る三日月が留まる。
 それに三蔵の吐き出す紫煙がかかり、少し霞んで見えた。


top/back/next

2004/06/07