溢れ返る光の洪水の中、悟能は眩しさのあまり目を覚ました。 (人の気配が…) しかしあまりの眩しさにすぐに目を開ける事が出来ず、悟能は片目を庇うよう手を翳しながらうっすらと瞼を開けていった。今までいた居房と違い大きな窓からは朝日が惜しみなく入り、目が慣れてくるにつれて光の中に人影が見えてくる。 (夢かな?) 窓辺に佇むその人は白い法衣を纏い光を集めたような金糸の髪で、紫水晶の瞳でこちらを見ていた。朝日から生まれ出たかのように煌然として立つ姿は悟能には光そのものに見えて、目覚めてもまだ夢を見ているようだった。しかしそれが三蔵だと視認できるまで頭がはっきりしてくると、紫暗の瞳に不機嫌な色を乗せて睨まれているのだと判り、すっかり現実だと理解した。 (えーと) 理由は判らなかったが取り敢えず挨拶をしようと、上半身を起こそうとして痛みが走る。 「つっ」 慣れてしまった腹の傷の痛みが再発したのかと思い見れば、少しはだけた合わせの間からは身体中に巻かれた白い包帯がのぞいていた。不思議に思い三蔵を見返す。 「おはようございます」 「……あぁ」 「あの、これは一体…僕、どうかしました?寝相はそんなに悪くなかったと思うんですけど」 「自分の爪を見てみろ」 言われて悟能が爪を見ると、そこには拭いきれなかった血が爪の間にこびりついていた。 「そう、だったんですか。自分で…」 何が起きたか理解した悟能は、爪を見たまま膝の上に両手を置くと細い溜息を吐いた。 「すみません。ご迷惑をおかけしてしまったようですね」 「そうだな」 組んでいた腕を外した三蔵は、懐から煙草を取り出すと口に咥えてマッチで火を点ける。何でもないその一連の動作に悟能が見とれていると、三蔵は咥え煙草のまま窓を開けた。すると歌うような鳥の囀りと、清々しい風と光が部屋の中に流れ込んでくる。窓辺に立つ三蔵の髪が風になびいて金糸の髪に光が泳ぎ、上る紫煙が揺らめき歪んで風の中に消えていく。 僅かに漂う煙草の匂いを感じながら、悟能はその光景に目を細めた。 「まったく覚えてないんだな」 窓の外を眺めて呟いた三蔵の言葉に悟能は目を伏せる。 「…ええ。寝ている間に拷問とか ――」 そこで言葉を止めた悟能に、三蔵は眇めた瞳で視線を向けた。 「有り得ないですよね」 朝の風景に相応しい素晴らしく爽やかな笑顔を浮かべた悟能に、三蔵は眉を顰めて一際目を細めた。 ――― こいつ、イイ性格してねーか? ――― からかわれているのか天然なのか、あまりの絶妙なタイミングに三蔵は眉間に皺を寄せて、舌打ちする替わりに紫煙を大きく吐き出した。 平静な態度は身に覚えがあるとも取れる。 恋人が存在しない事に耐え切れず会いに行こうとしたのか もしくは救えなかった自分への呵責なのか その内は判らないがいずれにせよ、名を変えて新たに生きる罰を承服しきれず自傷という行為で反発したのではないか、と三蔵には思えた。 果たしてこの罰を受け入れられるのか 寝台の上で穏やかな笑みを浮かべている悟能は、朝日に消える夢の儚さにも似ていた。 柔らかい陽射しが部屋の中へと長く延びる昼下がり 椅子に座り少し俯いたまま全く動かない男の姿は、まるで良く出来た人形のようだった。 近付けば瞳に精気がない様は人形以下だったが、その造形はたとえ片目がなくとも人形以上に美しかった。 「おい」 「あ、こんにちは三蔵さん」 声を掛ければやっと気付いたように反応が返る。やはり人形ではないようだが、常套句を返すあたり未だその域を出ない感がある。 「昼だという事は判ってるんだな」 「そうですね。日も高いですし、明るいですから」 「………」 当たり前の事を聞かれて不思議そうな顔をした悟能に三蔵は溜息を吐くと、空いていたもう1つの椅子に座り煙草を口に咥えた。 「自傷行為の次はハンストか?」 「は?」 驚いて目を見開いた悟能に、三蔵も驚き瞠目する。 「おい。まさか判ってなかったのか?」 「何がですか?」 「俺がこの部屋を出てから3日経ってるって事だ」 「え?」 本当に驚いている悟能の様子に三蔵は舌打ちすると、再び煙草を咥えた。 三仏神が下した決定により、三蔵は事務処理に追われていた。つまりは一人の人間を抹消し新たに社会の中で生かすための手続きに奔走していたのだ。書類の多さと複雑な手続きに苛つきながらも三蔵は、この件を他者に任せる気は毛頭なく黙々とこなしていた。それは監督官という責任からだけではなく、最高僧である自分が動けば最も早くにこの件が片付くと判っていたからだ。しかし斜陽殿にいるだけでは処理しきれない事もあり、帰って来たのが今日だった。そして自分が出て行ってから今日までの間、悟能がまったく食事をしていない事を聞かされたのだった。 自傷行為は一度きりで少しは落ち着いたのだと、高を括ったのが間違いだったようだ。不思議そうな顔をしてこちらを見ている悟能は明らかにやつれ、顔色は紙のように白い。 三蔵は短くなった煙草をテーブルの上の灰皿で揉み消した。 「それで、昼は食べるのか?」 「はい、いただきます」 「おい、入れ」 三蔵が扉に向かって声を掛ければ、様子を窺っていたらしい僧が立っており、盆を持って入ってきた。テーブルの上に二人分の膳が並べられるのを見て、悟能は三蔵を見た。 「三蔵さんもまだだったんですか?」 「ああ」 白い湯気の立つ粥を目の前に置かれて、悟能はふと違和感を覚える。僧が部屋を辞して三蔵が食べ始めたのを見て、悟能も箸を手に取り粥を一口、口に含んだ。途端に胸が悪くなり、眉を顰めて思わず片手で口を塞いだ。体が拒否するように胃から嘔吐感が込み上げてくる。 「無理はするな。もし食べられるようなら少しずつ飲みこめ」 更に顔色の悪くなった悟能に視線を投げた三蔵は、食べる手を休めず言った。言われた通り悟能は僅かな粥を少しずつ飲み込み、やっとの思いで胃の中に収める。漸く終えた仕事に悟能は大きな溜息を吐いた。 「やっぱり僕、食べてなかったんですね。すみません、時間が判らなくて…」 「そのようだな。それで残りはどうする?」 「いただきます」 長い長い時間をかけてゆっくりと食事をする悟能に三蔵は黙って付き合った。 「ごちそう様でした」 ようやく食べ終え箸を置いた悟能を見届けると、とっくに食べ終えていた三蔵はもう一度僧を呼び茶を所望した。 お茶の香りが漂う部屋に、時間はゆったりと流れる。 温度を確かめるように悟能は両手で湯呑みを包み、ぼんやりとお茶を眺めている。三蔵は半分ほど飲んだ後、煙草を手に取り火を点けた。 悟能の顔色は食事をして幾分かは戻ったが、それでも良いとは言えない。こうしていれば平素には見えるが、薄皮一枚といったところだろう。話によると悟能は食事にまったく手を付けず、常に同じ姿勢で椅子に座っていたと言う。話しかけても無反応で開いている目には何も映さず、朝も昼も夜も同じ姿勢で居続ける彼からは生きている気配がまったく感じられず、整った容貌も手伝って人形にしか見えなかったと。そしてその事に恐怖すら覚えたとも。 自傷行為を自ら防ぐためか 悪夢に嘖まされてのことなのか 目の前でお茶を飲む、のんびりとした表情からは窺い知れない葛藤があるのだろう。 生きる意味を見出し踏み止まるのか その前に力尽きて倒れるのか 悟能が選び、歩いて行く様を見届けるしか出来ないことを三蔵は知っていた。 しかしふと、手にした煙草を見て三蔵は大僧正の事を思い出す。 吸いかけの煙草を灰皿に置くと、三蔵は湯呑みを手に取りゆっくりとお茶を飲んだ。 |
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2004/06/06