その時瞳に潜んでいたのは殺気だった 居房で静養する悟能に医師を呼び診察を受けさせる。すると腹の傷はよく生きていた、というのが第一声だった。傷口が完全に塞がるにはもう暫くかかるだろう事と、右目は元に戻る事はない言い、化膿止めと感染予防の薬を置いていった。 医師の診断を聞いた悟能は言われたままを受け入れ、特に気にした風もなく聞いていた。 それはまるで他人事のような無関心さだった。 それからの悟能は出された食事はきちんと食べ、薬も内服し大人しく回復に努めていた。見舞いと称して居房を訪れる悟空も、時間制限付で中に入ることが許され(牢に入るのは問題ないという事らしい)、悟能は本を読み聞かせたりして穏やかに過していた。悟空のように毎日ではなかったが、三蔵もそれ程日を置かず会いに来ていた。 「傷は良くなっているようだな」 「ええ、お陰様で。もう痛みもないんですよ」 小坊主が悟能の包帯を替え終え辞してから、三蔵は声を掛けた。 「もう動いても大丈夫だと思うんですけど」 「いや、おまえの大丈夫は当てにならんからな」 「あ、ひどいですね」 「明日、医師がもう一度来ておまえの傷を診る事になっている。それからだ」 斜陽殿へと急かせた言葉を取り合わず、三蔵は壁際に立ったまま紫煙を吐き出した。大体悟能はここ慶雲院に来る時も同じ言葉を吐き続きていたのだ。自分に無関心な男の言葉など信用出来る筈がない。 「そんなにしていただかなくても、僕はもう平気ですから」 「そんなに早く罰が欲しいか?」 「―――」 指に挟んだ煙草の先から上る紫煙の向こうから、射抜くような紫暗の瞳に晒され悟能は息を呑んだ。けれども瞠目した翠の瞳を伏せるようにして、すぐに柔らかな笑みを口元に乗せる。 「だって僕なんかのために、医師の診察なんてもったいないじゃないですか」 「おまえがなんと言おうと明日、医師が来るのは決定事項だ」 硬直しそうな空気を緩めたのは、悟能の小さな溜息だった。 「すみません、三蔵さん」 そのまま執務室へと戻った三蔵は公務を続ける気にもなれず、眉間に深い皺を刻んだまま黙々と煙草を吹かしていた。苛立ちの原因は悟能が伏せた言葉が聞こえたからだ。 ――― どうせもうすぐ死ぬんですから ――― 悟能が処罰を自らの死と考えているのは明白で、それを思うと煙草に手が伸びるのがやめられない。 しかし、とふと思う。 ――― もしも望まぬ罰を悟能が受けるとしたら ――― その事に思い当たった三蔵は、開け放たれた窓から暮れゆき朱色に染まる庭をしばし眺めていた。 それから数日後、三蔵は悟能を連れて斜陽殿へと赴いた。 |
三仏神の決定は悟能の望む罰を下さなかった。それはもしかしたら悟能にとって最も重い罰だったかもしれない。異を唱える事は当然許されず悟能が小さな声で了承した後、三蔵は用意していた言葉を進言した。悟能は驚き息を呑んだが、三仏神は承諾した。即ち三蔵が監督官になる事で悟能は生きることを許されただけでなく、自由をも得たことになった。 謁見の間を辞すると大仰な音を立てて扉が閉まる。 隣に立った悟能を窺えば、少し俯き加減で瞳は前髪で隠れ、口元は笑みを浮かべているように見えた。視線に気付いたのか、ふいに悟能は顔を上げ瞳が合う。湛えていた笑みは消え去り、無表情で冷たい顔がそこにはあった。千の死からなる血の海から擡げた刃が一閃し、切先を額にぴたりと当てられたような、美しい兇器の瞳に見据えられる。この時三蔵の躯に走ったのは戦慄ではなかった。悟能が自分という存在を初めて認識したように思えてそのまま瞳を見返す。背筋に何かが走るのが判った。 しかしそれは一瞬の出来事だった。 搗ち合わせた視線を外した悟能はゆっくりと俯き、鎖で繋がれた自分の手首を見つめる。それを見た三蔵は紫暗の瞳を眇めると、控えていた僧に三仏神の決定を伝えて手鎖を外させた。そして錠の無い部屋を用意するよう申し渡すと、僧は手鎖を持って去っていく。 軽くなった手首を眺めて、もう一度視線を寄越した悟能の瞳からは先程まであった温度が無くなっていた。その瞳はただ映すだけの鏡にも似た翠の硝子のようだった。凪いだ湖の底には生物の棲めない深い透明度がある。覗けば深淵に引き摺りこまれるような感覚に囚われたがそれでも尚、三蔵はその瞳を見つめ続けた。 「三蔵様、客殿にお部屋を用意致しました」 再び戻ってきた僧に声を掛けられるまでの長い間、三蔵は悟能の瞳から視線を逸らせずにいた。そして部屋に案内する僧の後に続いた悟能の背中を見ながら眉を顰める。 ――― この急激な温度変化は何を意味するのか ――― その晩、自失したまま自傷行為をする悟能が、見張りに立っていた僧に発見される事となる。 |
報せに来た僧を睨め付けるよう眉間に皺を刻んだ三蔵は、やはりという気持ちで悟能の部屋へと急いだ。扉の向こうには両手を掴まれ高く掲げられたまま、血に塗れて気を失っている悟能がいた。 「おい、俺が替わる。早く手当てするものを持って来い!」 怒気を含んだ声で言い放つと、僧はびくりと体を震わせ慌てて部屋を飛び出して行った。 譲り受けた悟能の手首を掴むと、三蔵は悟能の躯を抱き留める。指から流れるように両手は血に塗れ、はだけられた合わせの間には喉から胸、腹にかけて掻き毟ったおびただしい数の爪痕があり、そこから出血して白い単は紅く染まっていた。 手首を離しても意識は戻らず自傷しない事を確認してから三蔵は、悟能の身体を横たえた。そして寝台にあったシーツを剥がし裂いて悟能の躯に宛がう。このまま死ぬ事はないだろうと思ってはいても、当てた白い布に血の色が染み出してくる。出て行った僧が戻って来る一分一秒が長く感じられ、圧迫止血している手にじわりと冷や汗が滲む。 「くそっ、冗談じゃねぇぞ」 苛立ちが募る一方で、これが通過儀礼だと頭では判っている。自らも通って来た道で、この途中命を落とす者が多くある事も知っている。なのに何故、こうした怒りにも似た気持ちが湧き上がるのか。判然としないまま悟能を見れば、全てを拒否するように瞼は固く閉ざされ青ざめた顔色をしていた。 程なくして数人の僧が急ぎやって来て、悟能の手当てをし部屋を片付け始める。 その後、三蔵の命で悟能は別室へと運ばれた。 |
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2004/05/31