三蔵は短くなったマルボロを灰皿で潰した。すでに灰皿は吸殻の山と化しており、また一つ高くなっただけの事。そしていくら堆い山を築こうが、三蔵の眉間の皺が消える気配は一向に訪れない。 悟能は目を治しに行くと言って慶雲院から斜陽殿に連れて行き、その後病院へと移送した。だから嘘ではないのだが、悟空は目が治ったら慶雲院へ戻ってくると思っていたらしい。そんな事一言も言ってねぇ、と言ったらさんざん不平不満を喚いていた。それを三蔵がハリセンを使い実力行使で黙らせると、執務室から飛び出して行った。それから煙草は増える一方だ。いや、正確には悟能に拘ってからずっと増え続けている。以来悟空が執務室に来る回数が減ったのだが、煙草の量は減らない。今日はまだハリセンの出番がなく、吸殻の山が築かれたのは最短記録を更新していた。 「げっ、何だよ真っ白じゃんか」 勢いよく扉を開けた悟空は入るなり軽く咽て咳き込んだ。 「最近吸いすぎじゃねぇの?三蔵」 「…………うるせぇ」 悟空は一度肩を上下させて大きく息を吐くと、部屋を横切り窓を開けた。風がさらりと入ってきて、白い煙を押して抱えて外へと連れていく。その序に執務机の書類に触れて一枚床へと落としていった。 「あ」 悟空は自分が窓を開けた手前すぐに駆け寄り書類を拾う。そして済まなそうに机の上に戻した。 「……ふん」 それを受け取った三蔵はハリセンも出さずに煙草を潰す。開け放たれた窓からは再び風がやって来て頬を撫でていく。悟空は窓際に立ち日の光をバックに言い放った。 「三蔵最近仕事で閉じこもってばっかじゃん!日に当たった方がいいよ」 それから程なくして八戒と悟浄の訪問を受け、結局悟空の言った通り外に出掛ける破目になった。 「あぁ、良い天気ですね」 八戒がそう言って笑みを浮べて空を見上げる。隣を歩く三蔵は、どこまでも青く透明な空に溶け込むような八戒の姿を見て、改めて天気が良いのだと気付いた。悟浄の所に住むと言い、死ぬことが恐く思えると言った。前を見れば髪を短くしたヤツが悟空と騒ぎながら歩いている。 (ったく、どいつもこいつも……) 咥えた煙草から紫煙が伸びる。短くなって草履で踏み消したが懐から煙草は出さない。その代わりに遠足だなんだと言ってる奴らに、お前らと旅なんざ死んでもごめんだと言ってやる。すると騒ぎはニ倍三倍となったが、何故か気が晴れた気分になる。隣を歩く八戒が定期報告について話し掛けてきた。義務付けられてはいなかったので好きにしろと言ったのだが、その後三仏神に呼び出されるたびに聞かれるので、結局それも日常となっていった。 会話するのも不自由を感じるくらいの大雨の日。何の気はなしに通り掛かった回廊から楼門に見知った顔を見つけた悟空は、一もニもなく走り出した。 「八戒!どうしたんだよ、びしょ濡れじゃないか」 「あはは、途中でちょっと降られちゃいまして」 「えーっと、そうだ風呂!このままじゃ風邪ひいちゃうよ」 「え…でも床が濡れちゃいますし」 「何言ってんだよ、いいから早く!これから三蔵に会いに行くんだろ?三蔵だって同じ事言うよ」 びしょ濡れと言うより全身濡れ鼠の八戒の手を取った悟空は、引き摺るようにして連れて行く。三蔵という最強の名詞を出されて、あまり良い顔をしなかった門番の僧侶は結局何も言わなかった、というより言えなかった。それを目にしながら同じく何も言えずに八戒は、悟空の後を歩いていく。掴まれている腕を見ながら、前にもこんな事があったなと苦笑する。以前は三蔵が、今は悟空が雨の中から自分を連れ出す。掴まれる手はいつも温かい、いや三蔵さんの時はもっと熱かった気がする。この位なら火傷しないだろうな、と八戒は他人事のようにぼんやり思う。けれど右へ左へと回廊の角を曲がる度に振り回されて、流石に八戒は口を開いた。 「悟空、僕もう一人で歩けますよ」 「このまま帰っちゃったりしない?」 「えぇ、僕も風邪はひきたくないですから」 喋りながら歩き続けると、結局手が離れる前に湯殿に着いてしまった。 「八戒が風呂に入ってる間に俺、三蔵に知らせてくるから」 漸く手を離した悟空は八戒を湯殿に押し込めるように背中を押すと、勢いよく走り出した。走ると又三蔵に怒られますよ、と八戒が声を掛ける前に姿が見えなくなる。困ったような笑みを浮べた八戒は溜息を一つ吐くと、誰もいない脱衣所で濡れて張り付いた衣服を脱ぎ始めた。 風呂の使用時間は決められているのだろうが、こんな時間であるにも拘らず湯の張った湯船に八戒はゆっくりと体を沈めていく。痺れるような感覚が肌の表面を走り、体が冷え切っているのが分かる。体が湯の温度に徐々に馴染んでいき、ほうっと大きく息を吐き出すと目の端に腹の傷痕が入った。病院を出た頃から奥の方から疼くような感覚があり、それが次第に大きくなっていくと雨が降りだした。まだ街中だったため店で傘も売っていたのだが、家にもあるしと買う気になれなかった。雨は次第に強くなり豪雨となって体を打つ。ここまで激しい雨だと痛みを覚えるが、八戒は休むことなくのろのろと足を動かし続け、やがて見慣れた楼門が雨の向こうにぼんやりと見えてきた。病院帰りに報告するのが常となっているのだが、視界はなくとも方向を違えず歩いていたらしい。しかしここまで来て八戒は、門番にだけ来た事を告げて会わずに帰ろうと思った。門が徐々に大きくなるにつれて、顔を合わせづらくなったのだ。この雨の中で上手く取り繕う自信がない。雨の中にいたい、と思う自分を自覚していた。しかし悟空に見つかり、有無を言わせず風呂へと連行されて、らしさに参ったなと思っていると、真っ直ぐな金晴眼と目が合った。 「このまま帰っちゃったりしない?」 見透かすような視線に八戒は心の中で両手をあげて降参した。彼が嫌いな訳ではなく、闇に近付く自分を見せたくないと思っている。こんな雨の日は記憶が過去と混じり定かではなく、つい最近も悟浄に迷惑をかけたばかりである。それでも悟浄ならば見られても仕方ない、といったところを悟空にだけは絶対見せたくないと思ってしまう。こんな気持ちでいる事も…… 八戒は大きな溜息を吐くと、長く湯に浸かることなく上がる。長居すべきでないなら早く帰るだけだと、いつの間にか用意された乾いた服を着て三蔵の執務室へと向かった。 「あ、八戒早かったな」 小さくノックをして許可を得てから扉を開けると、悟空の笑顔に迎えられた。それに笑みで応えると、執務机に向かう三蔵に目を向けた。 「三蔵さん、お風呂ありがとうございました」 「構わんが、早すぎたんじゃねぇのか?」 「本当だ、八戒まだ髪が濡れてる。八戒俺にいつも言ってるじゃん、濡れたままにしとくと風邪ひくって。俺、タオル持ってくるな!」 豆台風のように悟空がいなくなると、後には雨の音だけが執務室に響く。そんな中マッチを擦る微かな音がして八戒は振り返る。執務机の三蔵は、仕事の手を休めて一服していた。 「今日病院に行きましたら、少し眼鏡にしてみてはどうかと言われました。元々僕は近視の眼鏡をかけてたんですけど、今は体が変化したせいか術後のせいか視力が安定してなくて、左の目も見えたり見えなかったりしてるんです。検査して中間値くらいに合わせて眼鏡を作ってみてはどうかと言われたんです。でもいずれ必要なくなる物かもしれないので、考えてきますとだけ答えたんですけど…」 「右の方はどうだ?」 「見えるのは相変わらずですけど、神経と筋肉の連動は以前より良くなってきてるみたいです。まだ違和感はありますが…」 そう言って八戒はモノクルの上から右眼を押さえて微笑んだ。まだ痛みも出るのだろう。長い時間の経過観察の必要性を、三蔵は医師から伝えられていた。 「眼鏡はこっちに請求して構わん」 「え…、でもすぐに必要なくなるかもしれない物なんですよ?」 「見えなきゃ困るだろうが」 見るという言葉を拾い上げて八戒はそうか、と思う。この右眼の義眼を入れた時に言われた三蔵の言葉を思い出し、そして自嘲の笑みを浮べる。過去を、罪を見続けるために、自分は義眼を入れるのを承諾したのだから。 嫌な笑みに三蔵の眉間に皺が寄る。生活するのに見えなければ困るだろうと言ったのだが、八戒は恐らく違う意味を捉えている。煙草を唇から離して言葉をかけようとしたその時、大きな音を立てて扉が開いた。 「八戒〜、タオル持ってきたぞ!」 悟空が駆け寄り八戒の頭にタオルを掛ける。 「あ、すみません悟空。ありがとうございます」 「いいって!それより早く拭けよ八戒。それとも俺が拭いてやろうか?」 「大丈夫ですよ、悟空」 「そお?ちゃんと拭けよ八戒」 八戒に何か出来るのが嬉しくて堪らないといった笑顔で、悟空は傍を離れない。それを受ける八戒は、先程とは違う笑みを浮べている。その様子を見て三蔵は、再びフィルターを口に含み、深く紫煙を吸った。 帰ると言った八戒を引き止めたのは、まったく止む気配のない土砂降りの雨だった。例え傘を差したとしても骨を折ってしまいそうで、その前に傘の役目すら果たさなそうな豪雨である。ただでさえ視力低下している上、滝の中を歩くような降り籠める雨を前にして、流石に八戒も帰るのを断念した。 「今夜一晩お世話になります」 の声に悟空は大喜びである。この雨で外に遊びには行けないが、八戒という話相手がいれば無問題である。こうして悟空と八戒は長い時間を一緒に過したのだが、そこで八戒は悟空の過去と学力を知る事になる。 「あの笑顔からは想像出来ないですね。ずっと閉じ込められてたなんて…」 八戒がそう言ったのは、悟空が眠気に負けて寝室へと消えた後だった。今は執務室で三蔵と2人、お茶を啜っている。 「500年の間飲まず食わずだったから今凄い食欲旺盛なんだ、とは悟浄から聞いてはいましたけど、どうやって生きてきたんでしょう?」 「人も通らねぇ山のてっ辺に封印されてたんだ。しかも普通の結界じゃねぇな。時間の流れも止める異空間と言った方がいいかもしれん。その中にいる間は空腹感がなかったとあいつは言っていた」 「じゃあその間、悟空はずっとそこに一人で?」 「らしいな。食べる事はなかったが、起きたり寝たりはしていたそうだ」 「…………」 人懐こい笑顔の裏にあった孤独の長さを聞いて八戒も言葉に詰まる。500年という冗談のように気の遠くなる時間も三蔵は否定しなかった。自分自身伝説と化した元人間の妖怪だが、悟空に至っては前例すらないのではないだろうか。軽いカルチャーショックが過ぎて冷静になると、八戒はふとした矛盾点に気付いた。 「あれ?ではどうやって三蔵さんと悟空は出会ったんですか?人も通わぬ山に修行にでも行かれたんですか?」 「いや………」 言い淀む三蔵に八戒は片眉を上げる。何か言いたくない理由があるのだろうか。別に根掘り葉掘り訊きたいわけではない。言いたくないなら話題の転換でも図ろうかと八戒が考えた時、三蔵が口を開いた。 「声が、煩かったんだ」 「悟空の、ですか?」 「あぁ。あんまり煩せぇから殴って黙らせてやろうと思った。それで声のする方へと出向いたらあいつがいた」 「………」 「それだけだ」 言い終えると三蔵は煙草を取り出し咥える。八戒は黙って紫煙を吐き出す三蔵を見ていたが、やがて目を伏せると窓へと視線を向けた。激しい雨の音は部屋に生じた重い沈黙を打ち破る事が出来ず、益々ひどくなる。三蔵は黙って煙草を吸い続け、八戒は闇に降る雨を見続ける。同じ部屋にいるとは思えないくらい沈黙は長く続いた。以前なら黙ったまま二人でいても、こんな空気にはならなかった。どこか穏やかで安らぐような空気があったが、今は違う。まるでお互いの存在を認めていないようで、通い合う気はまったくない。部屋の中にいる筈なのに、激しい雨が中まで降っているように二人の間には、冷たく重い遮断されたような閉塞感がある。 もしかして八戒は怒っているのだろうか、と三蔵は思い当たる。短くなった煙草を灰皿で潰して顔を上げると、八戒を窺い見る。ただ雨を見つめる表情に感情の表れはなく、闇に浮かぶ白い肌は風呂上りとは思えないほど温かみがない。笑みのない顔は硬質的で秀麗な顔立ちは作り物めいて、一流の芸術家が彫った彫刻のようだった。どこかで見た姿に三蔵は眉間に深い皺を刻む。記憶の糸が斜陽殿にいた頃の八戒の姿を辿り重なった時、声がした。 「もう休みますね。おやすみなさい、三蔵さん」 目も合わせず軽く頭を下げて執務室を出た八戒に、拒絶されたのだと分かって三蔵は紫暗の瞳を眇める。煙草を取り出し火を点け一口吸い込み、原因を思い巡らす。今の八戒は自傷やハンストをしていた頃と同じだ。放っておいて事態が好転するとは思えない。では一体何が八戒をそうさせたのだろうと、三蔵は会話を思い返す。 態度が、空気が変わった切欠を…… 声 という単語が思い浮かんで三蔵は、椅子の音を大きく響かせ立ち上がった。嫌な予感が不安となって膨らみ、執務室を出た三蔵の足を急がせる。雨を見つめていた八戒は義眼を入れる前の悟能だ。右に義眼を入れれば左眼が見えている事を自覚した。右眼で過去を見て左眼で現在を見ろと言ったのは三蔵だ。だが左の視力が落ちて双眸が見えない今、捉えるのが過去の声だとしたら…… 三蔵は盛大な舌打ちをすると速度を上げて八戒が使う筈の宿坊へと向かう。長い回廊を走る三蔵の足音を、激しい雨音が追い立てるように消し去っていた。 |
top/back/next |
2007/09/04