冷たい闇はいつも自分と彼女を妨げる 声なき声を求めて 姿を探して けれど闇が邪魔をして何も聞こえない 何も見えない ならば自分は進むしかないのだ 彼女の元に辿り着くまで 不意に手首が熱くなって八戒は動きを止めた。 その熱は自分を引き止めて進ませまいとする。 強い力を振りほどく事が出来ず苛立ちが募る。 仕方ないので振り向くと声がした。 「その先に女はいない」 「どうしてそんな事分かるんですか?」 「もういないからだ」 「…………」 信じない、そう強く思った瞬間笑みが浮かぶ。 (もう遅いよ、さよなら悟能) 声が聞こえた。と同時に意識が遠のいていく。 垣間見えたのは金の光。 照らさないで欲しい 届きはしない この闇には この土砂降りの雨の中、院の奥庭へと進む白い影を見つけて、三蔵は迷わず飛び出し手首を掴んだ。振り返ったのは殺気を纏った燃ゆる緑。全てを切り裂く凶気の瞳。今は過去だけを映して闇に沈んだ色で三蔵の向こうを見つめている。 自分の中に突然浮かんだ怒りのまま、三蔵は手首をぎりりと軋むほどに掴む。八戒の顔が歪んだが力を緩めることも、まして離すこともしない。そのまま強く引いて激しい雨の音に負けないよう声を出す。捉えて離しはしない。絶対に。 ふと八戒の殺気が霧散した。その表情に浮かぶのは、怒り、哀しみ、絶望、喪失、そして虚無。自身にも覚えのある、様々な感情を見せてその瞳は閉じられる。倒れてきた八戒の体を抱き留めるのに戸惑いはない。ただその体は冷たく固く重く、ありったけの力で抱き締めても温まらず、三蔵は舌打ちも出来ず奥歯を噛み締める。 激しい雨は弱まらず、容赦なく二人の体に降り続けた。 雨はまだ止まない 雨音に目覚めれば、そこには不安げな金晴眼があった。 「大丈夫か?八戒」 状況が飲み込めず、何度か瞬きをしてどうしたのだろうと考えるが、霞むような頭は上手く働かない。しかし悟空の心配する顔は見ていて辛い。 「大丈夫ですよ」 笑みを浮べて起き上がろうとすると、くらりと視界が回り再び枕に頭を沈める破目になる。その拍子に何かが落ちた。 「あっ、だめだよ八戒!起き上がっちゃ」 「うるせぇ猿!静かにしてろと言ったろ」 叱責してるのは三蔵の声だな、とぼんやり思っていると近くでもう一度悟空の声がした。 「ごめんな、八戒」 やけにしゅんとした声でそっと喋った悟空は、先程落ちた物を拾うと傍にあった盥に浸し、絞ってから再び八戒の額の上に乗せた。ひんやりした感触に八戒がほっとしたように目を閉じると、悟空はそれを見届けてから部屋を出て行く。冷やされた手拭いの感触に浸りながら八戒は、自分が発熱しているのに漸く気付いた。悟空の気配が消えたので、どうしたのだろうと目を開けると、視界に金色が広がる。 「寝ていろ。熱が高い」 三蔵の姿を見ながら八戒は、ぼんやりと昨日の事を思い出した。病院の帰りに慶雲院に寄り、雨のせいで宿泊した事を。 「昨日は折角お風呂をいただいたのに、無駄になっちゃいましたね」 「……碌に温まらず烏の行水で出てきて、髪も濡れたままならそうなるだろう」 「嫌ですねぇ。まるで一緒に入ったみたいに言わないで下さい」 「………」 軽口を叩いてはみたが、声を出すのも億劫で溜息が出る。それを見咎めた三蔵は部屋から出て行ってしまう。冗談が通じなかったのだろうか、と八戒が思っていると、すぐに三蔵は戻ってきた。手には盆を持って。 「飲むか?」 「……そうですね」 熱い息と共に吐き出された言葉に力は無い。三蔵は水差しからコップに水を注ぐと八戒に差し出す。八戒はゆっくりと上体を起こし、それを受け取り口に含む。どこもかしこも熱い体は喜んで受け入れたが、起きているのが辛くて半分ほど飲むと八戒は再び体を寝台に沈める。三蔵はコップを側にあった小卓へ置くと、部屋から再び出ていく。今度は扉が閉まる音がしたので、完全に一人になったのを自覚して八戒は細く長い溜息を吐いた。暫らくすると背筋から寒気が襲ってきて、やがて全身に及んであちこちの関節が軋み、小刻みに体が震え始める。八戒は寝返りを打つが、体の震えは止まらず疼痛が襲ってくる。どこが痛むのか分からず八戒は自分を抱えて蒲団の中で小さくなった。 逢いたいのにもう二度と逢えない、その絶望感。自分のたった一人の肉親であり半身でもある最愛の姉。彼女に会うため、阻む者は全て切り裂き血の海に沈めてきた。しかし再会した彼女を再び抱き締める事は出来ず、自分が切り裂いてきた刀は代償のように彼女をも葬った。間に合わなかった自分は、後を追うことも許されない。こうして息するのも苦しいのは、彼女のいない世界にいるせいかもしれない。ではどうすれば良かったのだろう。他の方法など未だ思いつかず、もし時が戻ったとしても同じ事を繰り返すだろう。切り捨ててきた者達に罪悪感などない。ただ彼女がいない事が辛いのだ。こうして生きなければならないのが… 「……か、喃……」 苦しい息遣いの下、絞り出されるよう小さく囁かれた声に、温まった手拭いを取ろうとしていた三蔵はその手をぴたりと止めた。しかし数秒後、氷水の入った盥に手拭いを浸して絞ると、もう一度八戒の額の上に置いた。今は雨も上がり青空が広がっている。昨日の名残である雫が陽射しに反射して澄んだ空気に光が溢れている。しかし両眼を閉じている八戒にそれらは見えない。安らぐことのない眠りの中で、土砂降りの雨の中今も女を捜しているのだろう。 三蔵は懐から煙草を取り出し咥えた。火を点けてから瞬く間に煙草は灰となり、すぐに新たな煙草が出される。 昨夜自分の中に生まれた熱は熾火のように存在し、いくら紫煙を吐き出しても消えない。この苛立ちはいつまでも過去しか見ようとしない事へなのか、それとも頑なにあの家へ帰ろうとした事へなのか、それとも切欠を作ってしまった自分の失言を思い出してか、判別も断定も出来ずただ煙草の消費だけが早まる。思い通りにならない事など山ほどあるが、それに慣れる筈もない。未だに取り戻せない聖天経文が最たるものだ。ふと、自分が経文を取り返したらと考えて闇が覗く。目的を成し遂げるために屍を築き上げ血の道半ばの自分と、同じ道を通り目的を遂行した八戒と。結果は思い通りにはならなかったが、確かに八戒は成し遂げたのだ。朝陽の中、何も残っていない百眼魔王の城跡で両膝を付いた八戒の姿を思い出す。八戒のために経を読んだのは、あの男に言われたからだけではない。斜陽殿に連行するための義務からだけでもない。ただ心が動いたのだ。朝陽と共に消える夢のような儚さで、彼方を見つめる緑の瞳に琴線が触れた。 魘される八戒の手拭いを冷やしてやりながら三蔵は、一体何故三仏神は八戒と自分を引き合わせたのだろうと思い沈んだ。 食べ物の匂いにうっすら目を開けるとそこに三蔵の姿は無く、代わりに悟空が盆を小卓の上に置く姿があった。何度か瞬きをすると悟空が気付いて覗き込んできた。 「八戒が作ってくれる飯に比べたら美味しくないけどさ、お粥だって。食える?」 「……ちょっと、待って下さい」 そう言って八戒が上体を起こそうとするので、悟空は慌てて傍に寄り手伝う。汗を掻いたせいでべた付くが、確かに体は楽になっていた。 「大丈夫そうです。いただきますね」 「良かった。やっぱり食った方が早く良くなるもんな。ちょっと待って、俺よそうから」 そう言って悟空は土鍋からお椀へよそい、八戒に蓮華と共に手渡す。 「はい!熱いから気を付けて食えよ」 「ありがとうございます」 得意げな顔で手渡されて、八戒は笑みを浮べて受け取る。ほわりと湯気の立つお粥を蓮華で掬い、息を吹きかけ少し冷ましてから口へと運ぶ。まだ舌には熱かったが食べられないほどではなく、少しだけゆっくりと飲み込む。一挙一動を金晴眼に見つめられて八戒は緑の瞳を細めた。 「美味しいですよ、悟空」 「そっか、良かった。いっぱい食って早く良くなれよ八戒」 「悟空は食べないんですか?」 「ううん、八戒が食べたら俺もここで食べようと思ってたんだ。今持ってくる」 そう言って悟空は元気良く部屋を出て行く。すぐに戻ってきた時は山盛りの食事が乗った盆を持っていて、その量に八戒は緑の瞳を丸くした。 その後二人で食事を始めたのだが、八戒よりも三倍速で食べていた悟空の手がぴたりと止まる。そして金晴眼が扉をじっと見つめているとノック音の後に、扉が開いた。 「よぉ!」 「何だよ、悟浄じゃん」 「何だよはねぇだろ。お、いい時に来たようだな」 「八戒ならいいけど、ごきぶりにはやらねーよ」 「こら猿!誰がごきぶりだよ」 「でも食事中に来たところは流石ですね、悟浄」 「やっぱ、ごきぶりだ!」 「てめぇ、この食欲猿が言いやがったな!」 序章が終わり、さていつもの賑やか過ぎるコミュニケーションの始まりかと思いきや、そこで再び扉が開いて真打が登場した。 「てめぇら纏めて出て行きやがれ!」 怒声と共にハリセンが炸裂し、素晴らしい快音で二人の頭にクリーンヒットする。 「ったぁ〜」 「ってぇな三蔵!何でそんな物持ってるんだよ」 「じゃかぁしいっ!四の五の言わずにとっとと出ろ。サル、俺が言った事忘れたか」 「あっそうだった。ごめんな八戒」 激しい雷を落とした三蔵は、有無を言わせず二人を部屋から文字通り叩き出した。廊下に追い出された悟浄と悟空は、立たされ坊主よろしく顔を見合わせる。けれど悟空はしっかり食べ物を確保していた。 「あ〜あ、悟浄のせいだぜ」 「何で俺よ」 「八戒熱があって寝てたのに、うるさくしたから三蔵に追い出されたんだよ、俺達」 「熱?」 「そ、昨日八戒雨に降られてびしょ濡れでここに来たんだ。俺急いで風呂に連れてったんだけど疲れてたのかな、今朝すげー熱があって起き上がれなかったんだ」 「……そういう事ね」 「だから悟浄迎えに来たのかもしんないけど、今日八戒帰るの無理だぜ」 「んーじゃまぁ、これでもいいか」 そう言って悟浄は悟空が抱えていたバナナを一本素早く奪う。 「あ、何すんだよ。返せよ!」 「はるばるここまで来たんだから、やっぱ労いの一つもねぇとな」 「やっぱり俺の狙ってたんじゃんか!」 「そんなに抱えてんのは大変だろ?軽くしてやろうっていう俺の親切心を分かれよ」 「単に腹減っただけだろ!ごきぶり河童」 「よくも言ったな底なしサル!」 第二Rのゴングは、再び現れた三蔵により鳴らなかった。その代わり銃を乱射されて、二人は蜘蛛の子を散らすようにその場を逃げ出した。 「ちっ、たくあいつらは…」 雷を落としハリセンを駆使し、果ては銃まで乱射して最も大きな騒音を発生した三蔵は、最大の被害者顔で椅子に座る。その姿に八戒も苦笑を洩らした。 「食べ物が絡んだから仕方ないんじゃないんですか?」 「サルの場合はそうかもしれんが、河童は騒ぎたいだけだろう」 「うーん、でも家で二人の時はそうでもないんですけどねぇ」 「サルと一緒だと本性が出るんだろ」 三蔵のにべも無い口調に八戒は困ったような笑みを浮べる。 悟浄との同居はまだ始めて間もなく、会話はあるがどこかお互い踏み込めないところがある。時間が浅いので仕方ないが、悟空の方が余程コミュニケーションを取れている気がする。とすれば、やはり時間ではなくお互いの在り様なのだろう。特に自分は花喃以外視野に入れなかったため、まともな人間関係を築いてきたとは言い難い。ぼんやりそんな事を考えていると、苛立つ声が聞こえてきた。 「で、どうするんだ?まだ食うのか?」 「…そうですね。もう少しいただきます」 我に返った八戒は、ほどよく冷めた粥を口へと運ぶ。薄く味の付いた粥を黙々と食べていると、今日は味が判るのに気付いた。そう言えば悟浄とは生活サイクルが違うために、食事は作るが一緒に食べる事は少ない。作り置いても外食してきたと言われて食べなかった事もあり、まだ味を聞いた事がなかった。ここのところ一人で食事をしていたが、味など覚えていない。けれど今は粥の味が判る。 八戒が顔を上げると、窓際に座った三蔵が新聞を一枚捲った。以前同じ様に病室でこんな情景があったな、と八戒は思い出す。あの時は雨が降っていて、インスタントコーヒーを二人で飲んだ。斜陽殿で食事をした時もそうだが、何故か一緒にいると味覚が分かる。と言うか、今という時間が流れるのだ。特別な言葉もなく、今もただそこに居るだけなのだが。三蔵が又一枚新聞を捲ったのを目で追ってから手元を見ると、空の椀を持っていた。もう少し食べられそうだと、八戒は自分でよそいもう少し粥を食べた。 薬を飲んで大人しく横になった八戒を見届けて、三蔵は水だけになった盥を持って部屋を出た。すると悟浄が壁に背を預けて待っていた。扉を静かに閉めた三蔵はそのまま通り過ぎようとしたのだが、やはり声が掛けられた。 「どーよ、八戒の具合は」 「今薬を飲んで横になった。今朝より顔色は良くなったな」 「アイツ、傘持ってなかった?」 「悟空が楼門で見た時には持ってなかったそうだ」 「ふーん、じゃ途中で降られたんじゃ仕方なねぇか」 言外に含みを感じて、三蔵は初めて悟浄に紫暗の瞳を向ける。 「何だ?」 「んー、アイツこの前も雨の中森に出掛けて傘差してなかったんだワ。そん時は俺がたまたま街から早く帰った時で、すぐに連れ帰ったんだけどさぁ」 「つまり相当長く雨に打たれてたんじゃないか、と言いたいわけか?」 「まぁねん。でも昨日はすげぇ土砂降りだったからかもしれねぇけどな」 ここで言葉を切った悟浄はポケットから煙草を取り出し吸い始めた。それを見て三蔵は執務室に煙草を置いてきた事をひどく後悔した。どうやら悟能に対面しているのは自分だけではないらしい。一時治まっていた苛立ちが再燃したが、盥を持っていたのに気付き何をしようとしていたか思い出す。再び足を踏み出したがすぐに足を止めた。 「今お前、雨と言ったな」 「そうよん、もう忘れちゃった?三蔵サマ」 「もしかして、お前が八戒を拾った日も雨じゃなかったか?」 「ご名答。で、どうして分かったん?」 「………」 揶揄する口調に答えず三蔵は聞きたかった事だけ聞くと、長い廊下を再び歩きだした。悟浄は遠ざかる三蔵に首を竦めたが、気にした風もなく紫煙を立ち昇らせる。 「あいつも、知ってるわけね」 八戒が変調をきたすのが雨だと知った二人は、同じ答えに辿り着く。 雨の日に八戒は姉を亡くしたのだろうと。 |
top/back/next |
2007/09/06