ここに来れば何となく、こうなると予想していた。 死にかけていた僕を拾い助けて何も聞かず、訳を聞いても変わらず、庇って逃がしてくれた。大事なものがないと言っていたが、本当はなくしたのではないだろうか。そう思えるほど優しい人だった。大量殺戮者である僕に再会の約束をくれた。二度と会えないかもしれないと判っていた筈なのに。 もしも、もう一度会えたのなら… 洗い物をしていた八戒の手が自然止まる。スポンジを持った手はシンクにだらりと下がり、皿やコップに付いた泡は除々に小さくなりながら這うように落ちていく。とそこへ水が急な勢いで流れた。 「お、流れるじゃん。壊れたかと思ったぜ」 「悟浄…」 「ん〜、早くコーヒー飲みたくってサ」 「…判りました。じゃあもう少し待ってて下さい。すぐにこれを洗ってしまいますから」 脇に立った悟浄に八戒はいつもの笑みを浮かべると、止まっていた手を動かし始めた。皿に付いた泡は随分と流れていて時間の経過を知らしめる。又心配させてしまったんだな、と八戒は小さく溜息を吐いて食器を洗い始めた。 悟浄と暮らし始めてまだ間もない。他人と暮らすのは孤児院以来久し振りだし、ましてや2人きりの同居というのは初めてだ。花喃との違いに戸惑い、生活習慣の違いもあって思ったよりも顔を合わせる時間は少なかった。もしかしたら避けられてるのかもしれない。嫌われている、というよりも他人が自分のテリトリーに居る違和感に馴染めないのかもしれない。お互いに。勿論一緒に暮らし始めてまだ日が浅いので、早急にここを出るという結論にはまだ至らないけれど。義眼が安定するのに時間が掛かるため、今はまだ家事をこなすのに精一杯だ。ここに置いてもらっている以上せめて出来る事を、と八戒はソファで煙草を吹かしている悟浄のためにコーヒーを淹れた。 悟浄が賭場へと出掛けた夕方、その日の空は夕焼けにもならず重くただ薄暗い。八戒が無意識にシャツの上から腹部を押さえると、窓を叩く小さな音が聞こえてくる。雨と共にやってきた闇を見つめて八戒は立ち尽くした。 その日、悟浄はまったくと言っていい程ついてなかった。カードでも麻雀でも負けまくり、しかも気に入りの酒がなかったり、今夜約束していた女が風邪をひいてしまい会えなかったりと、一体俺が何をしたんだと嘆きたくなるほどだった。そのぼやきを聞いて、なじみの酒家の女将はくすくすと笑った。 「あら、いいじゃないの。帰ればあのきれいなお兄さんが、お料理作って待っててくれてるんでしょう?聞いたわよ、すごい上手なんですって?」 「あー…だって男だし。料理は、まぁ…でもすげぇ時間掛かっし、この前もビーフシチュー食うのに5時間も待たされて…」 「おや、ごちそう様。私なんかそんなに時間かけて作らないわよ。でも良かったわね、帰ったら待っててくれる人が出来て」 まるでそれが良い事であるかのように女将は微笑んだが、悟浄はそれに答えられず、短くもない煙草を灰皿で潰した。 結局、女将の笑顔に負けて重い腰を上げ店の扉を開ければ、音を立てて雨が降っていた。軒下で雨垂れを見上げた悟浄はここまでくれば最悪を極めるべきだな、と傘も借りずに足を踏み出した。すぐに濡れ鼠になり、服は重く冷えが全身を覆う。この姿は今の自分には相応しい気がして、悟浄は前髪を上げつつ自嘲の笑みを浮かべた。 明りの点いた家では綺麗に掃除された部屋の中で、暖かくて美味しい料理が自分のために用意されている。当り前のようにそうされて戸惑う。思いもかけず、夢で見たような憧れがいとも簡単に現実となって現れる。そのギャップ。この髪と瞳を血の色だと、唯一言ってくれた彼を気に入って、エゴでこの世に繋ぎとめたような自分に果たしてそれを受け取る資格があるのだろうか、とためらってしまう。今まで付き合ってきた奴らとは、一緒に暮らしたとしてもこんな風に思い悩む事などまったくなかった。似たような事を女にしてもらったことはあるが、彼女達と違って束縛の言葉もない。誰とも違う彼にどう接したらよいか考えあぐねて、悟浄の足取りはますます重くなる。それに呼応するかのように雨足も強くなり、まるで責められているかのように体を打たれる。進むたびに重くなる足を引きずって、それでも家へと体を運んでいく。森の中に入っても木の枝は既に傘の役割を果たさず、一層闇は濃くなっている。足元の道は所々に水溜りが出来て、靴は泥水を啜りながら沈んでいく。まるで帰らせないように引き止める泥濘んだ土に抗いながら、悟浄は暗闇の中に灯るたった1つの明りを目指して歩き続ける。 と、この雨の中を気配を感じて悟浄は思わず足を止めた。そしてまさかと思いつつゆっくりと首を巡らす。雨で筋肉が冷えて固まったせいか、錆付いた機械のような動きで首を回すと、白いぼんやりとしたものが見えて心臓が跳ね上がった。激しい鼓動が雨を打ち消し、全身を支配する。叫んで逃げ出したいのに、体は雨で完全に錆付いてしまったのかまったく動かない。なのに視線は逸らせず目を凝らしてしまい、更に悪いことに除々に近付いて来るのを確認してしまった。動かないのに全身で脈打つ体から、煩すぎる鼓動が響き渡り心臓が飛び出そうになる。もうだめだ!と知らない念仏でも唱えそうになった矢先、白いものは失速して地上へと落ちていく。すると不思議な事に金縛りが解けて急に体が軽くなる。俺は何も見なかった、と心の中で繰り返しながらその場を立ち去ろうとした悟浄の目に、白いものがシャツだと判ってしまった。美女を見つけるのには非常に便利な自分の目を一瞬恨んだが数秒後、やっぱり視力がよくて良かったと思い直した。 木の根元に座り込んだ人影は見知った美人の八戒だった。自分と同じ様にずぶ濡れで片膝を立てて座り、ぼんやりと雨を見上げている。血塗れで倒れていたあの日を思い出す。 「どしたん、こんな処で迷子?」 敢えて軽い口調で訊いてみるが、八戒は答えない。闇から降る雨の向こうをぼんやりと眺めていて、心はここにあらずといった風である。そんな八戒に悟浄はあの時とは違い、足ではなく手を伸ばした。冷え切った頬は固く、整ってはいるが無表情な姿はまるで作られた彫像のようだ。最愛の姉を探しているのだろうか。そう思うと視線の合わない翠の瞳を見つめて、悟浄の心臓はぎしりと鈍い音を立てて軋んだ。 これが自分の望んだ事だという罪悪感 こんな姿を見ても自分は彼を手放せないのだ 襲ってきた心臓の痛みに耐えるように奥歯を噛み締め、冷え切って感覚のなくなった手を強く固く握り締めてから悟浄は俯いた。 「帰ろう八戒。このまんまじゃ風邪ひいちまう」 言い聞かせるというよりは独り言のように呟いて、あの日と同じ様に悟浄は八戒の手を取り腰を支えて立たせる。八戒は人形のように従順で言葉もなく、悟浄に促されて歩き出した。その足取りは引き摺るように覚束なかったが、それでも悟浄を頼りに一歩づつ歩いていく。2人で支えあっている筈なのに触れ合っている場所はどこもかしこも冷たい。降り注ぐ雨は弱まる気配もなく肌に当たり、痛みすら感じる。寒さは骨の髄まで染み渡り夜の闇は益々濃くなっていく。悟浄は滑り落ちそうになる八戒の体を何度も抱え直しながら、重い足取りで家へと向かった。 「………ご浄?」 「おう、背中でも流してやろうか?」 悟浄を認めた翠の瞳の焦点が徐々に合ってくる。そのまま悟浄を見つめていた八戒は、やっと今の自分の状況が判ってきた。シャワーから温かい雨が降り、カランからも止めどもなくお湯が流れて冷え切った自分を温めている。初めは痺れるような感覚だったが、温度に慣れていくうちにほどよい温かさだと判ってくる。そうすると頭も回るようになり何度か瞬きをして全裸の自分自身を見てからもう一度、目の前に立つ悟浄を見上げた。 「…いえ、結構です。でも一緒に入りたかったんですか?」 「は?」 「だって貴方、全身ずぶ濡れですし」 「いんや、俺は後でいいよ。取り敢えずお前がよく暖まってこいよ。オーライ?」 「判りました」 折り曲げた足を引き寄せる八戒に、悟浄は手をひらひらさせてバスルームから出て行く。 「僕、いつから入ってたんでしょうか?」 温かい雨を浴びながら八戒は自分の手を見つめる。血塗れた赤い手を洗い流すように温かい雨が降り注ぐ。そんな事をしても無駄なのに。まだ冷え切っている体を自分自身で抱き締めるように蹲ると、頭から絶え間なく温かい雨が降り注いだ。 バスルームから出た悟浄は上着こそ脱いだが着替える気力もなく、大きめのタオルで簡単に髪を拭っただけでリビングの椅子に座った。持っていた煙草はすっかり濡れてしまったため、買い置きしてあるハイライトの封を切って一本取り出す。冷え切った手はうまく動かず、何度かやすりを擦りやっとジッポーに火が灯る。飲み込んだ紫煙を盛大に吐き出しても胸の重みはまったく軽くならない。それでも悟浄は煙草を吸い続けて灰皿に吸殻の山を築き上げていく。酒を飲む気にもなれず煙草はいつしか吸われることもなくただ灰となっていく。 悟浄は今までの自分を思い返して不思議な気持ちになっていた。つるむ相手があっても仲間と思ったことはなく、寝た女にもこれ程の執着が生まれたことはない。今まで関わってきたどんなやつらとも違う、見た目は毛嫌いしていたインテリタイプだ。というより出会いは容姿すら判らなかったが…。 死にかけているのに笑った瞳。この髪を血の色だと言った言葉。置き土産に語った過去。その一つ一つが鮮明で去る者を追ったことのない自分が、一緒に暮らす程に関わっている。 ――― お前は何を求めている ――― くそ坊主の言葉が浮かぶ。他人に執着した事のない自分が、愛した女のために殺戮者になった彼を傍に置くことで、人として欠落している情でも得ようとしているのか。 指先に熱さを感じて慌てて燃え滓を灰皿へと落とす。間もなく頭からタオルを被った八戒が湯気を纏ってバスルームから出てきた。白いタオルから覗く翠の瞳が丸くなる。 「すみません悟浄、着替えてなかったんですね。早く入って下さい」 「……ん、そうするわ」 フィルターしか残っていない煙草を押し潰すと、言われた通りバスルームへと向かう。今翠の瞳が自分を映しているのを確認してから。 入れ違いに悟浄がバスルームへと消えて八戒は思わず溜息を洩らした。 「もう大丈夫かと思ってたんですけどね…」 状況から察するに今回は雨の中をうろついていたのを、悟浄が見つけて連れ帰ってくれたのだろう。そう言えば斜陽殿にいた頃も同じような事があり、あの時は三蔵さんがいた。二人とも自分を責めたりせずに、ただ暖かい場所へと連れ戻してくれる。 「根が優しいんでしょうねぇ」 三蔵さんは好きにしろと言って自分を開放してくれたし、悟浄はここに住まわせてくれた。優しすぎる気遣いは時に苦しくなることもある。それを受ける資格が果たして今の自分にあるのだろうかと時に思う。いや、常にその考えは根底にあるのだが一方で、自分が行った行為への後悔が見当たらないのも確かだ。ただ一つあるとすれば、彼女を失わずに済む方法が今でも思い浮かばないという事だ。考えても仕方のない事だとは判っていてもループのように立ち戻ってしまう。けれど ――― お前が死んでも何も変わらない。だがお前が生きて変わるものもある ――― 三蔵さんの言葉が頭の中で甦ってくるのだ 生きていればいつか答えが見つかるのだろうか ずくりと頭の奥に痛みが走り、八戒は思わず目を瞑り衝撃をやり過ごす。右の瞼に軽く手を当ててじっとしていると、痛みが去ったのでそっと顔を上げる。するとカレンダーが目に入ってきた。明日は目の定期検診である。病院からの帰りがてら慶雲院へと寄って、経過報告をするのが常となっている。三蔵さんは義務付けなかったが、色々と世話になっている身として自分から言い出した。彼はいつものように好きにしろと言ってくれた。明日の予定を確認したところで八戒は現実に戻る。なめくじが這った後のように水浸しの床が目に入り、今度は盛大な溜息を吐く。そして雑巾を取りに行きながら悟浄に声をかけて何を飲むか聞いてから、次は食事の支度である。バスルームから返ってきた答えは、八戒の予想と違いコーヒーだった。 |
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2006/11/29