干支の鶏 特集 |
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山形県も直き終了、というところでカメラが故障。少々気が早いが、撮り貯めておいた来年の干支「鶏」でお許しください。左は名古屋・三宝荒神の納鶏(雄鶏の高さ7cm)、右は神戸・長田神社の神鶏。鶏は夜には鳴かないので、古くから子供の夜泣き止めを祈願して雌雄一対の鶏を奉納する慣わしがあった。ところで、夜の終わりと夜明けの到来を告げる鶏は世界各国で予言、警戒、復活の象徴になっている。イスラム教では最後の審判の日に死者を目覚めさせ、キリスト教ではペテロの否認とキリストの復活に一役買っている。我が国においても天の岩戸開きで切っ掛けを作るのは鶏である。今も各地の境内で神の使いとして放し飼いにされた鶏をみることができる。(H16.
10.31)
北欧神話では、大樹の頂上に棲む金色の鶏が、天界からの啓示を告げる役目を果たす。一方、ガリア人は鶏に太陽を招く霊力があるとして崇め、鶏を勇敢さと誇り高さの象徴としていた。そのため、末裔であるフランス人は切手や貨幣、ワインのラベルなどに鶏のデザインをよく用いる(1)。我が国にも金の鶏を商標にした殺虫剤メーカーがあるのはご存知だろう。ただし、その由来は中国の故事「鶏口と為るも牛後と為る無かれ」だとか。さて、この土人形は親鳥の下からひよこが顔を出している微笑ましい構図。わが国では鶏はかくも身近な存在である。雄鶏の高さ15cm。(H16. 10.31)
今回は比較的新しく創られた郷土玩具をご紹介する。左は天然記念物の尾長鶏(高知県)。綿の骨格に羽根を貼って本物そっくりに作られている。尾長鶏は江戸時代以来土佐で品種改良されてきた鶏の一種で、大正時代は2メートル足らずだった尾の長さが現在では10メートル以上にもなるという。中は鹿沼(栃木県)で作られるきびがら細工の鶏。作者は江戸時代から続く箒(ほうき)編みの職人で、その技術を活かし鶏の雰囲気を良く捉えている。右は新発田(新潟県)の鶏で藁細工。こちらも素材の味が生きた玩具である。尾長鶏の高さ19cm。(H16.
11.3)
三春(郡山市の一部と三春町)の張子は江戸時代中頃の創始とされる。藩主が歌舞伎好きで人形師を江戸へ修行に出したのが始まりとする説、藩主が江戸の人形師を連れ帰って郷士の副業のために指導させたとする説、江戸の人形師が流れて着いて作り始めたとする説などあるが、いずれも確証は無い。三春張子の特徴は、扇子、刀、太鼓、傘、馬など本体と別に作られる数々の部品を組み合わせて、人形に一層の立体感を持たせたところにある。ここに紹介する張子も新作ではあるが鶏の量感をよく表わしている。太鼓鶏の高さ13cm。(H16.
11.7)
左は佐原(千葉県)の鶏。大雑把な造形と巧まぬ描彩があいまって雄鶏の逞しさを表現している。中央は倉敷(岡山県)の鶏で十二支揃いのうちの一つ。右は那覇(沖縄県)の鶏。南国の鮮やかな色彩とデザインが印象的である。“闘鶏(タウチー)”という玩具ではこの鶏が二羽向かえ合わせに台車に乗せられており、車を引くと首が動いてお互いに突っつき合うよう工夫されている。倉敷張子の高さ8cm。(H16.
11.7)
張子玩具の宝庫・福島県は磐梯熱海温泉(郡山市)で作られる面(高さ28cm)。どことなく南方系を思わせる装飾的な絵付けが雄鶏の力強さを引き立てている。余談だが、当地で作られる凧に“会津唐人凧”がある。やはり異民族臭の強い強烈な絵柄であるが、中国大陸が起源で九州地方一帯にみられる唐人凧がなぜ東北の地にあるのか。諸説あるものの、いまだに謎である。(H16.
11.18)
会津若松市と新潟市を結ぶ会津街道沿いに白鳥の飛来地として知られる瓢湖がある。また、当地水原(すいばら)町山口には古くから土人形があって、6代目今井徳四郎は平成7年101歳で亡くなる直前まで旺盛に人形を製作していた。新作にも意欲的に取り組み、98歳のとき酉年用に作ったのがこの作品である。少々長くなるが、作者の舌代をあげておく。「コケココー、コケコーコーと(四、五回くりかえし)オキテモイー(朝四時頃)ママタベヨー(朝六時頃)、この様に時をつくるといいました。今より、六十年か七十年前までは希望者は二三羽〜五六羽程度なら自由に飼う事が出来たものでした。今ではこの様なニワトリも茶坊鳥も各家庭では飼う事も見る事さえ出来ないような時世に変わりました。ところが最近、東京の民芸店より、前記のニワトリの注文がありまして、もっとも来年は酉年なので、不細工ながら作って見ましたら、なかなかの評判であります。」雄鶏の高さ12cm。(H16.
11.28)
最近まで我われにとって鶏は身近な存在であった。大方、卵は産むし、糞は肥料になるし、時には鶏鍋にでも、という実用的な理由からであろうが、一方では愛玩の対象でもあった。毎朝卵を採りに行く子供にとって、馴染みの鶏は可愛いものだ。漫画「サザエさん」には、来客のために鶏を絞めてご馳走しようとする父親に泣いて抗議するカツオ君が描かれている。中央はそのような子供の気持ちを表わした中湯川土人形(会津若松市)である。また、江戸時代の日本が海外に開いた唯一の窓は長崎であったが、そこに住む中国人が無聊を慰めるために愛玩したのも軍鶏(しゃも)であった。左は古賀人形(長崎市)の阿茶さん。阿茶さんとは“あちら(外国)の人”が訛った言葉といわれる。右はやはり古賀人形の鶏持ち猿で、鶏と猿の組み合わせは“病を取り去る”の語呂合わせから。こちらの猿はどうやら“俺様の獲物”を離すつもりはないようだ(高さ10cm)。(H16.
11.28)
左は伊勢神宮の土鈴(三重県)。神の遣いである鶏の鈴は、酉年に限らずいつでも授与されている。手前は下川原(青森県)の桶入り鶏。珍しい構図の云われを作者に尋ねたら、「黄色い桶を“黄運(きうん)”と言って、これを西の方角に置くと健康運がやって来る。福という字がまためでたい。めでたい桶に入るのは干支の動物だから鼠でも蛇でもなんでも入るもんだ」とのこと。小さな桶に馬や牛も入るのかしらと思いながら聴いたが、結局よく分からず終い。その隣りは附馬牛(岩手県)の鶏。中央は今戸(東京都)の“鶏のピイピイ”と呼ばれる笛玩具(高さ9cm)。最近復活したもので、台がアコーディオンの蛇腹のようになっており、空気を送ると土製の鶏が鳴く仕掛けである。右奥は高松(香川県)の鶏で、嫁入人形(嫁入の時に近所に配る小さい土人形)用の新作。(H16.
12.5)
山形県の内陸にある河北町谷地は、最上川の水運を活かし物資の集散地として栄えた町である。とりわけ特産の紅花はここから上方へ運ばれて当地の商人たちに大きな富をもたらした。上方との深いつながりを忍ぶものとして、今でも旧家の蔵には300年前の次郎左衛門立雛や数々の享保雛など、折り紙つきの逸品が所蔵されており、旧暦の雛節句(4月1〜3日)に公開されて我々の目を楽しませてくれる。9月になると谷地八幡宮の例祭 “どんが祭”がとり行われ、境内ではみやびな舞楽も奉奏される。さまざまな屋台が出店するなかに、毎年、近郷から自作の藁人形や姉様人形を運んできては店を出す老作者がいる。藁で作られたこの雄鶏の姿には、農民自らの誇りと逞しさが表現されているようだ。高さ36cm。(H18.9.18)
国語の教科書に「アユの話」というのがあった。内容よりも宮地伝三郎という厳めしい作家の名前が記憶に残ったのだが、宮地には「十二支動物誌」(2)という名随筆があり、十二支のうち鶏に最も多くのページを割いている。動物生態学が専門の著者にとって、鶏は身近で詳細に観察しうる対象だったのだろう。群れでのつつきの順位、メンバー交代による順位の変動、オンドリの順位と交尾の回数など興味深い話がたくさん載っている。よく物忘れする人を「ニワトリ」に例えるが、じっさい鶏の知能はそう高くないようだ。例えば、メンドリが自分の雛とよその雛とを区別するのもいい加減なものらしい。また、毎日の餌や水の世話をする飼い主でも、いつもと違った服装で現れると大騒ぎになるという。写真はいずれも弘前の下川原人形。作者二人は兄弟だったが、前列と後列とで作風は一見して異なる。いずれも土笛や土鈴にあつらえてある。中央の太鼓鶏の高さ6p。(H28.12.17)
鶏では雌よりも雄のほうが色もかたちも目立っている。鳥類にとっては卵を温め、雛の面倒を見る時間が最も危険なので、敵の目につかぬ地味な姿が有利なはずだが、オンドリはメンドリを助けて卵を抱いたり雛を育てたりなど一切しないので、これでいいのである。いっぽう、燕や雀の雄は雌にとても協力的な“イクメン”なので、雄と雌とで姿かたちに大きな差異がないのだそうだ。また、オンドリの立派なトサカは雄性ホルモンの量に比例するらしい。ホルモンを注射するとトサカは大きくなってピンと立ち、群れでの順位も高まるという(2)。写真は八橋人形の番(つがい)鶏。青森張子のチャボ(青森17)はこのオンドリ(高さ26p)をモデルにしたようだ。(H28.12.17)
鶏の鳴き声は音源的に世界共通なのに、国々により違って聞こえるらしい。中国では“ウーウーウー”とか“グーグーグー”、韓国では“コッキョクウークウコー”、フランスでは“ココリコ”、イタリアでは“キッキリキー”、そして英語では“コッカドウードウルドウー”、という具合である。日本では“コケコッコー”が一般的である。もっとも、これは明治36年に制定された小学読本に「ヲンドリハ コケコッコー ト ナキマシタ」と記載されてからのことで(3)、それまでは各地で様々に鳴いていたようである。南方熊楠は著書に“カケコ(ロ)”、“コケコ(ロ)”、“コウコウコキャコウ”などを記載したほか、「百姓が畑に鍬を忘れて帰ったら、カラスが“アホウクワ”と鳴いてそれを教えたので、家の鶏など何の役にも立たないと誹(そし)ると、鶏は憤慨して“トテコーカア”と鳴いた」という熊野地方の笑い話も紹介している(4)。三春張子(右)の高さ12p。(H28.12.17)
鶏の呼び名も国々で違う。熊楠によれば、呼び名も鶏の鳴き方が語源であるといい、古来の和名“カケ”、漢名“鶏(ケイ)”、梵語“クックタ”、英語“コック(雄)、チキン(雛)”、ラテン語“コックス(雄)”、仏語“コク”などは「いずれもクックやキックなる鳴き声に由来するもの」と述べている(4)。左が堤人形(高さ7p)の、右が今戸焼のオンドリ。今戸焼には数種の鶏がある(東京06・24、鶏09)。(H28.12.17)
天の岩戸の神話では、夜明けを告げる長鳴鶏を鳴かせ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を踊らせて大騒ぎすると、いぶかった天照大神がお出ましになって、世に再び光が差し込む。この長鳴鶏とはニワトリのこととされ、天照大神を祭神とする伊勢神宮では、神鶏が大事に飼育されている(鶏09)。また、神様が新宮にお移りになる遷宮(三重04)に際し、内宮では“カケコーカケコーカケコー”、外宮では“カケローカケローカケロー”と神官が三回ニワトリの鳴きまねをする「鶏鳴三声」という行事も今に残っている(5)。写真は能古見人形の鶏。左は土鈴で高さ8p。(H28.12.17)
戦前の話だが、不世出の大横綱、双葉山が安芸ノ海に敗れ70連勝が潰えたとき、「我、未だ木鶏(もっけい)たり得ず」と語ったという。木鶏は荘子や列子にみえる中国の故事で、鍛え抜いた闘鶏は最後に木彫りの鶏のようになり、どのような敵の出現にも動じなくなるという話。双葉山は稽古場に木鶏と墨書した扁額を掲げていたそうである(6)。郷土玩具には比較的木彫りの鶏も多い。写真は左より岩井温泉の挽き物十二支(鳥取県)、北方の杵島山一刀彫(佐賀県)、米沢の笹野一刀彫(山形県)、西尾の三河一刀彫(愛知県)。ほかにも、鶴岡八幡宮の神鶏(神奈川07)、名古屋の三宝荒神納鶏(愛知02)、高知の尾長鶏(高知07)などがある。杵島山一刀彫の高さ10p。(H28.12.17)
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