熊本県の玩具

01. 木の葉猿(玉東町)
02. 泥面子(玉東町)
03. 熊本のボシタ馬(熊本市)
04. 熊本の横綱人形(熊本市)
05. 日奈久の板角力(八代市)


06. 日奈久のおきん女人形(八代市)
07. 人吉のキジ馬(人吉市・湯前町)
08. 人吉の花手箱(人吉市)
09. 青井阿蘇神社の守護獅子(人吉市)
10. 人吉の張子虎(人吉市)

01. 木の葉猿(玉東町)



九州もいよいよ熊本県を残すのみとなった。その熊本県は今月14日から大地震に見舞われ、各地に甚大な被害が出ている。被災者の皆様には心よりお見舞い申し上げたい。鹿児島本線に「木葉」というゆかしい名前の駅がある。ここの木の葉猿は日本最古の玩具ともいわれ、手捻りで作られる原始的で信仰色の濃いものである。養老(717724)年間、この里へ落ち延びた都人が奈良・春日大明神を勧請した折、木葉山の赤土で平盆(ひらか、供物を盛る器)を作り、残った土を捨てたところ、猿の形に変じてどこかへ消えた。その後、天狗に似た霊が現われ、木葉の土で猿を作れば良いことがあると告げたので、祭器のほかに猿を作って神に供えるようになったという。以来、木の葉猿は悪病災難除け、子孫繁栄のお守りとして愛玩されている。飯喰い猿(左)や大きな陽物を抱えた原始猿(右)のほかにも様々な木の葉猿がある02031012。硯屏三猿(中)の高さ16㎝。(H28.4.29)

02. 泥面子(玉東町)



木の葉猿の作者による泥面子(めんこ)。泥面子は型抜きで作る素焼きの面子で、元禄時代から明治初期まで子供達が遊んだおもちゃである。熊本地方では「打ち起こし」とも呼ばれ、交互に相手の面子に打ち当てて裏返せば勝ちとなる。遊び道具としては廃れたが、今では寺社の授与品や観光土産として美しく彩色された泥面子に人気がある福岡07。一方、泥面子は子供の墓に副葬品として入れられたり、豊作を祈るマジナイとして田畑に撒かれたりしたともいう。全国各地の発掘調査で古い泥めんこが出土することは珍しくないが、実際は都会から農村に肥料として運ばれた生ごみに混じった泥面子が畑にばら撒かれたものといわれる。それぞれの大きさ4cm程度。(H28.4.29)

03. 熊本のボシタ馬(熊本市)



熊本市は福岡市に次ぐ九州第二の都会。観光客がまず訪れるのは、加藤清正が実戦経験に基づいて築いた堅固な熊本城と、細川忠利が東海道五十三次を模して造った回遊式庭園の成趣園(水前寺公園)である。しかし、今般の大地震でどちらも大きな被害を被った。ボシタ馬は市内藤崎八幡宮秋の例大祭(通称、ボシタ祭り)の奉納馬を象った馬玩具。明治期以降、祭りには町内ごとに飾り馬を奉納するようになり、揃いの半被にわらじ履きの血気盛んな勢子(せこ)が、掛け声も勇ましく馬をけしかける。以前は馬に酒を飲ませ、鞭で叩いて無理やり暴れさせたのでヒンシュクを買ったらしいが、今ではそのようなことも影を潜めたらしい。また、“ボシタ“の名は、朝鮮の役から帰還した加藤清正を領民が「(朝鮮を)滅ぼした」「ボシタ」の声で迎えたのが語源とも云われ、これにも批判がある。これほど毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする祭りも珍しいかもしれない。左が土人形、右が木製のボシタ馬(高さ10㎝)。ともに紐を下に引くと馬の後脚が跳ね上がるからくりである。(H28.4.29)

04. 熊本の横綱人形(熊本市)



藤崎宮の鳥居をくぐり参道を進むと、かつて白壁の吉田司家があった。肥後の吉田司家は代々横綱の免状を許す家柄である。元来は行司の家元で、江戸時代に細川家に仕えて相撲司家となって以来、熊本にあって全国の力士・行司を支配し、相撲界の元締めとして隠然たる力を持った。将軍家の上覧相撲にあたっては横綱の土俵入りを演出したので、最近まで横綱に昇進した力士は吉田司家を訪れ、土俵入りを披露するのが慣わしとなっていた。写真は横綱土俵入りを象った張子人形。熊本の張子にはほかに節句人形、獅子頭、張子面などがあるが、何といっても有名なのはカラクリ人形の“お化けの金太”首人形01だろう。高さ13㎝。(H28.4.29)

05. 日奈久の板角力(八代市)




スモウは旧仮名遣いではスマフで、争うとか抵抗するという意味である。スマフの起源は個人と個人とが格闘することであったが、古代から平安朝になると公式の宮中行事となる。諸国から選ばれた力士が宮廷で勝負を争うのは一種の占いで、その勝ち負けで神の意志が表わされると信じられた。神聖な日に行われるスマフは、勝った力士の土地が今年は豊作になるということを神が示す信仰的な行事なのである。日奈久の板角力は地元温泉神社の奉納相撲に因んで売られた。相撲ではなく角力と書くが、角力とは“力くらべ“のこと。桐板を粗く繰り抜いて作った板角力はいかにも素朴で、古代の野性的なスマフを思い起こさせる。両者の腕は共通にしてあって、それに通した棒を捻ると様々な取り組みが見られる。むかし、吉田司家を訪ねる力士に付き従う褌(ふんどし)担ぎが、自らも出世を願ってこの板角力を買い、四十八手の技を学んだという微笑ましい話も伝わっている。高さ18㎝。(H28.4.29)

06. 日奈久のおきん女人形(八代市)



応永161409)年、厳島神社のお告げで日奈久温泉を見つけた浜田六郎左衛門が、戦で傷を負った父をこの湯で介抱したとき、里娘のおきんがこれをよく援け、のちに二人は結ばれた、という伝説がもとになった温泉土産。江戸時代に弁太という帰化人が作り始めたので“べんた人形“とも呼ばれる。一説に、おきん女人形のモデルはそのころ日奈久に居た湯女ともいう。当初は土で作られたらしいが、あとになって豊富な桐材を用いるようになった。東北地方のこけしを連想するが、ロクロ挽きではなく丸木を削って作り、細い手足が付いているところが大いに異なる。高さ22㎝。(H28.4.29)

07. 人吉のキジ馬(人吉市・湯前町)



人吉のある球磨地方は、九州山脈に抱かれ、球磨川の急流に遮られて、熊本県でも孤立した地域を成している。壇ノ浦の戦いを最後に没落した平家の落人がこの地に住みつき、都恋しさと生活のために、木地屋の大塚家からその製法を学んで無聊(ぶりょう)を慰めたものがキジ馬や花手箱と伝えられる。九州に三系統あるキジ馬(車)のうち、胴が細長く二輪で着色してあるのが人吉系の特徴福岡01。頭部に墨書した大の一字は、大塚家の恩を忘れぬためという。本体には雑木を用い、車は皮付きの松の木を輪切りにしたままである。人吉のキジ馬(左)を模して昭和初年に作られたのが湯前のキジ馬(右)。絵付けは泥絵具を使って淡く着色しただけで、極めて素朴である。湯前のキジ馬の長さ18㎝。(H28.4.29)

08. 人吉の花手箱(人吉市)



花手箱も球磨地方の辺地に隠れ住んだ人々が手作りし、里人と物々交換したり城下町の市で売ったりして生活の糧としたもの。キジ馬が男児の玩具なのに対し、花手箱は羽子板とともに女児の玩具として親しまれた。またの名を香箱、手箱、あるいは春の市で売られたので市箱と呼ぶ。山椿の絵柄が多いが、以前は身近な花を題材に連続模様が描かれていた。大の高さ8㎝。(H28.4.29)

09. 青井阿蘇神社の守護獅子(人吉市)



人吉郷の氏神、青井阿蘇神社の秋季大祭で、魔除けの陰陽一対の獅子に幼児の頭を軽く噛んでもらえば無病息災に育つという云い伝えがある。むかしから作られていた張子製の獅子頭に加え、昭和5年にはこのミニチュア獅子頭が考案された。プレス加工の張子で、下顎は厚紙で出来ており、大量生産できるよう工夫されている。高さ6㎝。(H28.4.29)

10. 人吉の張子虎(人吉市)



ピンと立てた尾の先まで含めても高さ僅か6.5㎝という首振り虎だが、小さいながらも尾は差し込み式で、髭も鼻と口辺に一対ずつ植えられているという本格派である。胴の黒い縞も流れ模様に描かれていて珍しい。熊本県では廃絶した宇土張子05に車乗りの立派な虎があった。(H28.4.29)

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