福岡県の玩具 |
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九州地方は、東北地方とならぶ郷土玩具の宝庫である。しかし、しばしば言われることだが、両者には静と動、あるいは陰と陽ともいえる違いがある。その典型が東北の「こけし」であり、九州の「キジ馬(キジ車)」であろう。こけしは、手も足もない極めて単純化された人形で、もともと動く玩具ではない。また、その色彩には東北の風土にマッチした落着きがある。一方、キジ馬には車輪が付いていて、動かしたり曳いたりして遊ぶことが出来る。色彩も大胆で明るく、いかにも南国を思わせるものだ。こけしと同じように、キジ馬も形や描彩、師匠関係に基いて三系統に分類されるという。ごく大まかにいえば、1)車が四個でずんぐりなのが瀬高系(福岡県など)、2)車が二個で細長く着色してあるのが人吉系(熊本県など)、3)車は二個だが無彩色なのが北山田系(大分県、福岡県など)である(1)。写真は福岡県内のキジ馬。手前左より時計まわりに三池(大牟田市)、宗像(宗像市)、瀬高の雌と雄(みやま市)。宗像のキジ馬は四つ車だが無彩色で、1)と3)の中間型といえそうだ。このように麻のタテガミと尻尾を植えたものもある。高さ8p。(H27.11.25)
福岡県でも遠賀地方は鹿児島本線開通後に路線から外れたため、観光的には取り残された感があるが、古い歴史を色濃く感じさせる地域でもある。ここでは旧8月1日の八朔の節供に、その年に生まれた男児の家で藁馬を飾る習わしがある。藁馬には紙製の武者が跨り、子供の壮健や出世を願って英雄豪傑の名を記した旗指物が付けられている。いちばん大きな大将馬を真ん中に据え、その周りに親類縁者から贈られた沢山の藁馬を飾るしきたりである。一方、女児が初節句を向かえる家では団子雛(ダゴビイナ)を飾る。団子雛とは挽いた米を蒸し、いろいろな形に捏ねて彩色したもの。雛人形ばかりでなく、動物や花、果物、野菜なども作る(写真は保存用に紙粘土で作った椿の花)。八朔に贈答をするのは武家や商家で行われた習わしだが、農村の「田の実」の行事(船10)と習合し、このように藁馬や団子などを飾るところも多い。藁馬の高さ36p、花の径5p。(H27.11.25)
博多張子の代表作は各種のだるまと張子面、それに端午の節句に飾る張子の虎(虎01)である。左は“福おこし”と呼ばれる十日恵比須神社の恵比寿だるま。張子の目出鯛とともに神社より授与されるほか、小型のだるまは福引でも当たる。右は伝統的な博多だるま。西日本に多い目の入った鉢巻だるまだが、胴には金泥をふんだんに使った派手な模様が施されるのが特徴である。戦前は博多にも多くの張子職人がいたが、戦時中に製作の場を他所に移した家もあって、現在では博多に残るのは2軒のみとなった。だるまの高さ各30p。(H27.11.25)
博多では大晦日に、「オキャアガリエイ、オキャアガリエイ」と、縁起の女だるま(姫だるま)を売りに来る慣習があった。その声を聞くと、家のものは急いで飛び出し、競ってだるまを買い求め、神棚に飾って来る年の幸運を祈ったという(2)。左の高さ14p。(H27.11.25)
平板だが写実的で、色彩も鮮やかな鄙びた感じのする面である。博多の張子面はおもに5月の「博多どんたく」の仮装に使われる。「博多どんたく」は年の初めに神の依代としての松を曳いて、社寺や貴族の屋敷へ祝賀に訪れた「松囃子」が起源。後になって港祭りなどと統合し、「博多どんたく」と呼ぶようになった。ちなみに、“どんたく”とは元々オランダ語の“休日”を意味するという(3)。種類が多く、ここに紹介した以外にも鬼(表紙43)、恵比寿、大黒、おかめ、ひょっとこなど15種以上ある。また、「博多どんたく」にも出演する「博多仁和加(にわか)」(博多弁の掛け合い万歳)では、仁和加を演ずる人は必ず“ボテカツラ”と“仁和加面”という半面を着けるが、これらも博多張子である。面の高さ22〜25p。(H27.11.25)
玩具や祭りに使われる面は張子だが、寺社から授与される面の多くは土製であり、県内ではそのほとんどを博多人形師が製作している。左は水天宮(久留米市)の河童面。安徳天皇を祭神とする水の神様・水天宮は全国にあり(東京12)、久留米がその総本宮。古来水中にて禍をなすとされる河童は、水天宮の御神徳により除災招福のお使いになり、福太郎とも称され、この面を鬼門・悪方に掛けると魔除け、水災火難除けになるという。中央は大宰府天満宮(太宰府市)の魔除けの鬼面。ここでは正月7日に「ウソ替え神事」(表紙03)に続いて、炎と煙で鬼を退治する追儺(ついな、表紙43)の行事、「鬼燻(すべ)神事」が執り行われる。大宰府遺跡では日本最古の鬼面鬼瓦も出土しており、よくよく鬼に縁のあるところである。右は通称“庚申さん”と呼ばれる猿田彦神社(福岡市)の猿面。庚申(かのえさる)の日(京都09)に授与される縁起物である。家の外から来る魔を睨むように、玄関の外壁に掛けると厄除けになる。猿面の高さ8p。(H27.11.25)
筥崎宮は宇佐八幡(大分県)、石清水八幡(京都府)とならぶ三大八幡宮の一つ。春と秋の社日祭には「お潮井汲み」が行われる。左奥の竹籠は“てぼ”と呼ばれ、本宮前の海岸の真砂(お潮井)を容れるもの。お潮井は持ち帰り、起工式には敷地を祓い、田畑に蒔いては豊作・虫除けを祈願し、玄関に備えては除災招福を願う。古来の「みそぎ、祓い」に基づく習俗といえる。秋の放生会(ほうじょうえ)は、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式で、筥崎宮のそれは博多三大祭りにも数えられる盛大なものである。この日は“チャンポン”(右奥)や土製の“おはじき”(手前)が授与される。チャンポンはビードロと呼ぶ硝子細工のおもちゃで、管に息を吹き込むと底面の薄い硝子膜が振動してペコンペコンと音がする。おはじきのほうは各地にある泥面子(型抜きで作る素焼きの面子)と同じものだが、近年は博多人形の工房で作られており、縁起物に相応しく作りや彩色は洗練されたものになっている。絵柄には筥崎宮ゆかりの元寇鳥居や玉せせり、縁起物のお潮井てぼやチャンポン、吉祥物の鶴亀や鳩なども見える。直径約3p。(H27.11.25)
博多人形の歴史は藩祖・黒田長政の時代の瓦人形にまで遡ると伝えられ、きわめて古い。しかし、明治以後は次第に細工物人形の技術や色彩の影響を受けるようになり、いまや美術工芸品の域に達するものとなっている。一方で、量産化が可能になったこともあり、博多人形の工房では様々な観光土産や社寺の縁起物なども広く手掛けるようになった。写真もその一つで、博多三大祭りを表現した風俗人形。左より「博多祇園山笠」、「筥崎宮放生会」のチャンポン、「博多どんたく」の仁和加面である。高さ各8p。(H27.11.25)
江戸後期になると、博多人形には中興の祖といわれる中ノ子吉兵衛が現れる。吉兵衛は彫刻師に塑工の技術を学ぶ一方、伏見人形の技法も取り入れて、博多人形を節句人形を主力とする素焼きの土人形に大成させた(4)。むかしながらの素朴な博多人形は、今も中ノ子家によって守られており、その系譜は現代の博多人形と区別して“古(型)博多人形”と呼ばれる。写真は左が子供猿廻し、右が高札持ち。以前紹介した笹野才蔵(猿05)なども、いかにも土俗玩具に相応しい趣きがある。子供猿廻しの高さ13p。(H27.11.25)
古型博多人形のほか、伝統的な博多人形の流れを継ぐものに今宿土人形と津屋崎人形がある。とりわけ、今宿土人形は古型博多人形の衛星ともいうべき土人形(4)で、明治期に初代が博多人形職人に奉公したあと、のれん分けが許されて独立したもの。古風な人形に施された丁寧な彩色と熟練した筆遣いが、古型博多人形以上に鄙びた雰囲気を感じさせる。この“雪洞(ぼんぼり)手燭持ち娘”は、17年ほど前に引退間際の作者にお会いした時、「こんなもので良ければ」と、内裏雛(雛04)や笹野才蔵(猿05)とともに、奥から出してきてくれたものである。玄関先には以前作っていたという猿田彦神社(藤崎宮)の猿面が飾られていた。高さ36p。(H27.11.25)
やはり博多人形の流れを汲む土人形で、現在も玄海灘に面した漁港で盛んに製作されている。津屋崎では江戸中期より普段使いの焼き物が作られていたが、明治初期に博多人形の影響を受けて節句人形の製作に転じたもの(4)。種類も雛や天神(牛08)といった節句人形のほか、動物、貯金玉(水族館12)、土笛など多岐にわたっている。左より、もま(ふくろう)笛、福助の手踊り、明治の子供、兎。もま笛は宮地嶽神社の参道などで売られたもので、子供に与えてこの笛を吹かせると“疳(かん)の虫”が治るとされた(青森02)。ところで、この“虫”が今日の病名の何に当たるかは明らかでない。消化不良や腹部の腫れ、あるいは夜泣きや脚気など、小児が罹りうる病気を総じて呼んだものだろうが、医学の未発達な時代、土笛には親の切実な願いが込められていたのである(5)。高さ5p。(H27.11.25)
福岡県の土人形は博多人形の系譜に連なるものが多いが、それらとは別系統なのが赤坂土人形である。その起源は判然としないが、江戸中期の創始と云い、むかしから行商人などが山里などを「筑後のテテッポッポの鳩」といいながら売り歩いたという(4)。人形は型抜の後、成形もせずに釜に入れるため、合わせ目が食い違ったまま焼き上がっているし、彩色も胡粉を塗った後に食紅などで簡単に済ませてあるなど、素朴の極みである。現在も30種類以上あるが、そのうち10種類ほどは土笛。写真は左より招き猫、天神、裃猿、馬乗り鎮台、三番叟(高さ12p)。(H27.11.25)
土笛が盛んに作られたのは、子供に土笛を舐めさせると虫封じになるとされたからだが、色付けに食紅やクチナシの実を使うのも、笛を口に入れても害がないようにとの配慮である。作者の本業は代々「赤坂飴」の製造と販売。以前、大牟田の三池初市(表紙21)でお会いしたときの売り物は飴だけで、土人形や土笛が無かったのは残念であった。明治から大正にかけては、土笛も飴と一緒に村から村へ行商されていたらしい。あるいは、土笛は飴のオマケだったのかもしれない。左より、もま笛、兵隊笛、鳩笛、犬笛。兵隊笛の高さ15p。(H27.11.25)
名物の梅干や梅が枝餅を売る店が両脇に並ぶ参道を抜けると、壮麗な大宰府天満宮の社殿が見えてくる。ここは全国に1万3千あるといわれる“天神さま”・菅原道真を祀る天満宮の総元締めである。道真は藤原時平の讒訴(ざんそ)にあって、都から遠い大宰府に左遷され、この地で亡くなった。天満宮では正月7日に「ウソ替え神事」が行われる。“日頃の嘘を誠に替える”という千年以上前から続く行事で、今ではこれに倣う天満宮も各地にある(表紙03)。太宰府天満宮ではウソ替えに引き続き「鬼燻(すべ)神事」が行われる。これも「ウソ替え神事」に劣らない奇祭である。木ウソはホウの木を使い、削りかけの技法で作られている。大きいウソの高さ9p。(H27.11.25)
大宰府天満宮は学問の神様なので、受験シーズンともなると梅見の観光客とも重なって、10万人の人出となる。神社側でも授与する品々には工夫を凝らすようで、参拝するたびに新しい縁起物を目にする。ウソにも木ウソのほかに、このようなラインナップもあって楽しい。左よりウソ笛2種、ウソ土鈴、吊るし木ウソ、土ウソ2種。授与品ではないが、天神様ゆかりの筆独楽という珍しい独楽もあった(木地31)。ウソ笛の高さ5p。(H27.11.25)
鶏卵の殻に目鼻を描き、布の衣装を着せた玉子人形は各地に見られる(愛知15)。久留米の玉子人形は、昭和10年春に久留米の女性面目師(押し絵雛・羽子板作家)が創作し、板祐生(郷土玩具研究家、表紙16)にも絶賛されたという記録が残るので、どうやらここが最初のようだ。残念ながらいずれも廃絶してしまったが、最近になって竹田(大分県)や名取(宮城県)などで新たに見かけるようになった。高さ6p。(H27.11.25)
前列左は博多祇園山笠で有名な櫛田神社の銀杏(ぎなん)土鈴。樹齢千年以上とされる古木“櫛田の銀杏”にちなみ、イチョウの葉を象ってある。右は筥崎宮の神馬鈴。胴に金色の三つ巴紋を浮き出しにした美しいもの。後列左は博多仁和加(にわか)土鈴。博多仁和加は“ボテカツラ”と“仁和加面”を着け、博多弁で演ずる即興の掛け合いで、多くは地口で終わる。この土鈴は博多人形師の手になるもので、出来上がりも整っている。右は英彦山土鈴で、通称“がらがら”。英彦山(ひこさん)は福岡と大分両県の県境にあり、山伏修験の山として有名。ここには日本八大天狗の一人に数えられる彦山豊前坊という大天狗が住むという。がらがらは、ごく簡単に色を点けた素焼きの鈴を藁シベで束ねただけの素朴なもので、土鈴の古い形を今に伝えている。玄関や門前に飾る魔除けとして、また田畑の虫害よけとして重宝されてきた。銀杏土鈴の高さ6p。(H27.11.25)
九州には特色ある凧が多いが、長崎の「ハタ」と並んで特に名高いのは戸畑の「せみ凧」である。せみ凧は作り手の名前から「孫次凧」とも呼ばれ、黒線と赤・黄・緑が織りなす配色が南国的で美しい。せみ凧は福岡県ばかりでなく、大分県、香川県、愛知県、静岡県など各地に見られる。柳川の「目繰り出し」はカラクリ凧の一種。挙がると風を受けて眼玉がクルクル回る。長崎県の壱岐や平戸にも同種の凧がある(6)。目繰り出しの高さ67p。(H27.11.25)
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