●三宅安兵衛の碑

●京都市と南山城地域に広がる三宅碑

父、安兵衛さんの遺志をうけ、その子、三宅清治郎さんが建てた碑は、京都市内から八幡市、宇治市、京田辺市、精華町、井手町、山城町、加茂町に広がり、その数は400を越えるといわれています。

●八幡市内の三宅碑の所在を探す手がかりは

こうしたなかで、八幡市内に建てられた碑を探す手がかりとして、碑建立に協力した西村芳次郎氏の手による「八幡史蹟名勝誌」があります。三宅碑が記された「木の下陰」と西村氏の「八幡史蹟名勝誌」に記載された116の史蹟名の多くが合致しています。この中には「松井横穴古墳」「樟葉宮」「橋本砲台址」のように、八幡市外の地名や八幡市市域外に建立された碑もありますが、ここでは西村氏に従い、ここに掲載しました。これについては、今後整理することが必要と考えています。なお、掲載順序は「木の下陰」に掲載された順に従い、それに番号を振りました。
(この項の『八幡史蹟名勝誌』にかかる研究結果などについては、佛教大学非常勤講師 中村武生先生が2002年10月27日、八幡市文化センターを会場にして講演された「三宅安兵衛碑と西村芳次郎-忘れられた偉人の発掘」の資料から引用させて頂きました)

●八幡市内でも不明の碑は多い

八幡市内に建てられたと思われる三宅碑は、三宅安兵衛が生前に建てた碑、昭和5年に三宅清治郎自身の名で建てた碑を含めると約140基ありました。下表中「不明」とする碑は、八幡市郷土史会発行の「八幡の道しるべ」には掲載されず、また筆者も現存を確認していないものですが、今後も調査を行い、「不明碑」を減らしていきたいと考えています。また、碑のいわれは「八幡の道しるべ」(松花堂庭園のミュージアムショップで好評販売中)から引用しています。碑の大きさは、「八幡の道しるべ」とは異なるものがありますが、これは筆者が改めて実測した結果を掲載したものです。(写真も筆者撮影)

ただ今の紹介碑 70基/137基

三宅安兵衛さん名による清治郎さん建立の碑(八幡市域)

番号碑の名碑陽所在地
001●石清水八幡宮の碑官幣大社 石清水八幡宮八幡高坊(一の鳥居前)
002●航海記念大石塔の碑航海記念大石塔八幡高坊
003●善法律寺の碑善法律寺八幡馬場
004●水月庵の碑水月庵八幡女郎花
005○国分寺址の碑不明120番との関係?
006●八角院の碑西車塚跡 國寶乾漆阿弥陀像 同元横川元三大師像 八角院八幡女郎花
007●瀧本坊址の碑瀧本坊跡八幡高坊 石清水社前
008●涙川の碑涙川舊跡円福寺道 幣原道交差角
009○正平の役、高橋陣址の碑不明所在不明
010○大西坊の路の碑不明所在不明
011●豊蔵坊の碑豊蔵坊跡八幡高坊 八幡宮三の鳥居下
012●本妙寺の碑日門上人墓所 本妙寺 右 念佛寺二丁 左 園口半丁八幡城之内
013●九品寺の碑九品寺 左 巣林菴1丁 右 正法寺二丁八幡岸本
014●西遊寺の碑旧 橋本寺西遊寺 右 塩竃三丁 左 八幡常昌院八丁橋本 西遊寺内
015○放生川反橋の碑不明八幡高坊
016○一の宮入道塚の碑不明八幡女郎花
017○松花堂の碑松花堂旧跡八幡平谷
018●正法寺の碑尾張大納言義直御母堂相應院殿墓所 正法寺八幡清水井
019●円福寺の碑聖徳太子御自作達磨大師霊像安置 江湖道場 円福禅寺八幡南山
020○円福寺の碑 其の一不明不明
021○円福寺の碑 其の二不明不明
022●泉坊、松花堂址の碑泉坊松花堂跡八幡高坊 石清水社前
023●神宮寺址の碑神宮寺跡 東二丁 財恩寺跡 南一丁 引窓古蹟ふるさと学習館
024●引窓南邸の碑引窓南邸跡 西二丁 常昌院 南一丁 神応寺八幡高坊
025●護国寺薬師堂跡の碑護国寺薬師堂跡 南坂下 滝本坊 西 御本社八幡高坊 八幡宮東門下 太子坂
026●単伝庵の碑單傳菴八幡吉野垣外
027●薬園寺の碑国寶薬師像薬園寺 右 川口五丁 左 正福寺一丁八幡森垣内
028●正平の役城の内古蹟の碑正平役城之内古跡 左 山ノ井一丁 右 本妙寺前八幡城之内
029●水月菴の碑 其の二水月菴 是ヨリ二丁八幡福禄谷 円福寺山門横
030●湯沢山茶久蓮寺の碑湯沢山茶久蓮寺跡橋本 京阪橋本駅前
031●万称寺山の碑万稱寺跡 右 正平塚半丁 左 中の山一丁八幡中ノ山
032●岡の稲荷社の碑正平七年没 神器奉安所 岡の稲荷社八幡月夜田
033●神應寺の碑谷不動尊弘法大師作国宝行教律師之像 桃山御殿建築物 淀屋辰五郎石碑 神應寺八幡高坊 八幡宮一の鳥居横
034●小野頼風塚の碑小野頼風塚八幡今田
035●紅葉寺の碑紅葉寺宝青庵八幡月夜田
036●淀屋辰五郎居宅址の碑淀屋辰五郎旧邸八幡柴座
037○萩の坊址の碑萩坊跡八幡高坊 八幡宮参道太子坂
038●東車塚の碑應神帝前後 東車塚古墳八幡女郎花 松花堂庭園
039●洞ケ峠の碑洞ヶ峠登口 是東半丁ふるさと学習館
040○財恩寺の碑不明所在不明
041●源頼朝手植の松の碑源頼朝手植松 右 太子坂上二丁 大西坊 左 本道三丁 豊蔵坊八幡高坊
042●安居橋の碑安居橋 左 反橋跡半丁八幡高坊
043●戊辰史蹟念仏寺の碑戊辰史蹟念仏寺 右 八幡橋一丁 左前 正福寺八幡山路
044●山の井戸の碑山ノ井戸 八幡泉坊跡二丁 右 松花堂墓所十間八幡平谷
045○忍澂寺昌玉菴の碑忍澂寺昌玉菴 左 八幡宮 左 巣林菴碑の所在不明
046●正平役園殿口古戦場の碑正平の役園殿口古戦場 左 本妙寺半丁 右 法園寺二丁八幡菖蒲池
047●血洗池の碑正平役血洗池古蹟 右 八角堂 左 男塚八幡大芝
048○美濃山横穴の碑美濃山横穴跡美濃山大塚
049●東二子塚古墳址の碑車塚古墳八幡女郎花 松花堂庭園旧門前
050●巣林庵の碑巣林菴 左隣 忍澂寺 右 九品寺一丁八幡清水井
051○正平塚の碑不明不明
052○正平塚の碑 其の一不明所在不明
053○正平塚の碑 其の二不明所在不明
054●男塚古墳の碑 男塚古跡 右 血洗池前 左 入道塚隣八幡女郎花
055○佐羅志古戦場の碑不明所在不明
056○蛭塚古墳の碑不明所在不明
057○岩田社の碑岩田社 右 岩田渡船場三丁 左 内里五丁岩田茶屋ノ前
058○松井横穴の碑 其の一不明所在不明
059○松井横穴の碑 其の二不明所在不明
060○石城古墳の碑不明所在不明
061●和気清麿公旧蹟の碑和気清麿公旧跡 足立寺古跡西山和気 足立寺史跡公園内
062○如法塚の碑不明所在不明
063○橋本分水道の碑不明所在不明
064●新善法寺旧跡の碑新善法寺旧跡八幡
065○中ノ山古墳の碑不明所在不明
066●西二子塚古墳址の碑西二子塚跡ふるさと学習館
067○吾妻与五郎の墓の碑正平塚 吾妻与五郎墓 万稱山 右 男塚一丁 左 紅葉寺半丁八幡中ノ山墓地下
068○御幸谷古墳の碑不明所在不明
069○常昌院地蔵尊の碑不明所在不明
070●法園寺の碑法園寺 右 川口渡舟場五丁 左 園口一丁半八幡源氏垣外
071○高野及奈良街道の碑不明所在不明
072○宇智王子邸址の碑宇智王子古宮址の碑 王塚八丁内里古宮
073○荒坂古戦場の碑不明所在不明
074○王塚古寺址の碑不明所在不明
075●筒井順慶陣所址の碑筒井順慶陣所跡 右 西二子塚三丁 左 圓福寺三丁八幡南山
076○大芝古寺の碑不明所在不明
077●茶臼山古墳の碑茶臼山古墳跡 右 樟葉宮三丁 左 石城三丁男山笹谷
078○浄瑠璃姫墓の碑浄瑠璃姫墓 右 足立寺五丁橋本別峯 講田寺裏墓地内
079○塩竈古跡の碑塩竃古跡 右 南岩倉二丁 左 橋本三丁橋本塩釜
080●京街道里程標の碑左 東在所道 戸津八丁 内里十五丁 岩田渡船場廿五丁 寺田一里半八幡松原
081●正平役馬塚古墳の碑正平役馬塚古跡八幡市八幡長田
082●豊蔵坊信海墓の碑豊蔵坊信海墓西山和気 足立寺史跡公園内
083○王塚の碑王塚古墳 右 小塚二丁 左 宇智王子邸跡八丁美濃山大塚
084○円福寺分岐道の碑不明所在不明
085●弘仁時代一里塚の碑弘仁時代一里塚跡 右 正法寺隣 左 戸津道二丁八幡清水井
086○所天橋の碑不明所在不明
087○蛇塚古墳の碑不明所在不明
088○荒坂横穴の碑不明所在不明
089○小塚古墳の碑不明所在不明
090●洞ヶ峠古墳の碑洞ヶ峠古墳 右 太古山二丁 左 筒井陣所跡三丁ふるさと学習館
091○初陣塚古墳の碑不明所在不明
092○樟葉宮の碑不明所在不明
093●南岩倉の碑南岩倉 右 如法経塚五丁 左 浄瑠璃姫塚三丁橋本平野山
094●橋本、樟葉の道の碑橋本近道 西十五丁八幡市八幡清水井
095●八幡宮道の碑八幡宮道八幡神原
096●寝物語国分橋の碑寝物語古跡国分橋八幡神原
097●奈良街道巡検道の碑巡検道 洞ヶ峠圓福寺廿丁 岡の稲荷社十丁 京阪電車停車場十丁 八幡宮志水坂登六丁八幡馬場
098○善法寺旧蹟の碑不明所在不明
099●川口渡舟場の碑川口渡舟場 半丁ふるさと学習館
100●小野篁公作 十王像の碑小野篁公作 十王像 閻魔堂八幡松原
101●金剛律寺故蹟の碑金剛律寺故蹟 京都元標四里三十二丁八幡菖蒲池
102○経塚の碑経塚 八幡神原町十丁下奈良井関
103●男山八幡宮近道の碑八幡宮近道 御本社道八幡神原
104●ケーブルカー上石清水八幡宮の碑官幣大社 石清水八幡宮ケーブルカー男山山上駅 展望台広場前
105○双栗寺の碑不明所在不明
106○常昌禅院の碑不明所在不明
107●獅子塚の碑獅子塚跡下奈良榮 巡検道
108○志水町の碑不明所在不明
109○戊辰役古戦場の碑不明所在不明
110●松花堂舊蹟の碑松花堂舊蹟八幡平谷 泰勝寺
111○洞ヶ峠山上の碑不明所在不明
112●橋本砲台址の碑戊辰役 橋本砲臺場跡枚方市楠葉
113●志水月の岡前の碑東車塚 女郎花蹟 元八幡山泉坊書院 松花堂茶席 月の岡邸八幡女郎花
114○八角堂の碑不明所在不明
115○石清水社の碑不明所在不明
116○興聖谷不動尊の碑興聖谷不動八幡石不動
117○古寺の旧蹟の碑古寺古跡 右 王塚三丁 左 荒坂七丁美濃山古寺
118○十王像閻魔堂の碑不明所在不明
119○女郎花塚の碑不明所在不明
120○鳩ケ峰国分寺の碑鳩ケ峰国分寺跡八幡鳩ケ峰頂上
121○元三大師堂の碑不明所在不明
122○宇智王子陵墓の碑不明所在不明
123○西車塚の碑不明所在不明
124●長柄人柱地蔵尊講田寺の碑長柄人柱地蔵尊講田寺橋本平野山 講田寺門前
125●戸津道標の碑東 内里八丁 上奈良八丁 上津屋十五丁 松井二十丁 岩田渡船場三十丁 寺田一里半戸津東ノ口
126○岩田渡船場の碑不明所在不明
127○筒井陣所東二子塚の碑不明所在不明
128○美の山の碑不明所在不明
129●八幡橋の碑八幡橋 右 志水町十二丁 左橋本町十一丁八幡平谷
130○正平塚古墳の碑正平塚古墳八幡中ノ山
131○橋本道の碑不明所在不明
132○戻橋跡放生川の碑不明所在不明
133●如法経塚の碑如法經塚古跡 右 八幡宮七丁 左 塩竃五丁ふるさと学習館
134○神宮寺址の碑不明023と重複か
135○妙見宮 奮 常徳寺の碑妙見宮 奮 常徳寺橋本
136○山代之大筒木真若王命御墓参考地の碑山代之大筒木真若王命御墓参考地松花堂庭園・三宅清治郎建立
137○母泥之阿治佐波毘賣命御墓参考地の碑母泥之阿治佐波毘賣命御墓参考地八角堂前・三宅清治郎建立

石清水八幡宮の碑
●官幣大社 石清水八幡宮の碑(W575×D450×H3800+台座680)
【碑陽】官幣大社 石清水八幡宮
【碑陰】大正七戌午年一月建之 江上景逸敬書 京都市 吉村禎三 三宅安兵衛 内藤小四郎 澤田嘉兵衛 守本庄七 河野與右衛門 東山線通石匠 新谷重吉謹刻
【所在】八幡高坊 石清水八幡宮一の鳥居前


 京阪八幡市駅に近い石清水八幡宮一の鳥居前に立つこの碑は、三宅安兵衛が生前に立てました。これがきっかけとなって、息子清治郎が碑を建立することになったのです。



航海記念大石塔の碑
●航海記念大石塔の碑(W165×D125×H1000)
【碑陽】航海記念大石塔
【碑陰】昭和二年建之 京都三宅安兵衛依遺志
【所在】八幡高坊


 京阪八幡市駅から南へ5分程いくと、神応寺総門左の大きな五輪石塔の前に「航海記念大石塔」の碑が立っています。BR> この五輪石塔は重要文化財に指定されており、高さは6.08m、幅2.44mに及ぶ日本最大のもので、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪といいます。五輪石塔は、石清水八幡宮の宮寺だった旧極楽寺の境内に建立されたものですが、寺は廃寺となって、この石塔だけが残りました。石塔建立の起源や作者は不明ですが、石塔にまつわる多くの言い伝えが残されています。
八幡神を九州の宇佐八幡宮から勧請した大安寺の僧、行教の墓だといわれていますが、口碑によれば平安時代の末期に摂津国、尼崎の豪商が入宋貿易帰途の海上で大シケにあい、石清水八幡宮に祈り無事に帰国できたことを感謝し、1171〜1174年の承安年間に建立したものと伝えられています。以後、船乗りたちが航海の無事を祈願に訪れるようになったことから「航海記念塔」と呼ばれるようになりました。BR> また、鎌倉時代末期のこと、1274年と文永の役と1281年の弘安の役の蒙古襲来に際して西大寺の僧、叡尊が石清水八幡宮で祈ったところ、神風が吹いて元軍が敗れ去り、叡尊は彼等の供養をするため建立したともいいます。この五輪石塔の巨石を積み上げる際、石工が金テコを使ったところ、石の間から火が噴き出しました。そこで八幡の竹を使って無事完成したという伝説が残っています。


善法律寺の碑
●善法律寺の碑(W180×D180×H1000)
【碑陽】善法律寺
【碑陰】昭和二年建之 京都三宅安兵衛遺志
【右面】向て左 正法寺 八丁
【左面】向て右 頼風塚 二丁
【所在】八幡馬場


 南行する町道が、今田町から馬場町に変わる西へ入る筋の奥、山際に善法律寺があります。江戸時代は旧町道から善法律寺へ入った筋の南側に社務善法寺家の善法寺殿があったことが、当時の地図からわかります。付近を茶畑町といいました。
 善法律寺は男山と号し、本尊は僧形八幡です。寺域に楓樹が多いことから江戸時代から紅葉寺と呼ばれています。
 八幡宮27代検校善法寺宮清が、正嘉年中(1257-59)自身の私宅を僧房とし、宮清の家号と律宗とで善法律寺と称しました。善法寺家の西に位置したため、「西の寺」ともいいます。本堂は、弘安年中(1278-88)本宮の仮殿を移築したものと伝えられ、慶長5年(1600)以後、朱印地100石を領していました。


水月庵の碑
●水月菴の碑(W260×D245×H1680)
【碑陽】水月菴
【碑陰】昭和二年建立 京都三宅安兵衛遺志
【右面】向て右 北 八幡宮本社十丁 京阪八幡停留所廿丁 西幣原水月庵八丁 招提十八丁 枚方二里
【左面】向て左 美濃山八丁 長尾停車場一里 四條畷三里
【所在】八幡女郎花


 志水町の出口、東西両車塚の間を抜けて、東高野街道・河内道と幣原村(四手原とも)への分かれ道には「水月庵」の案内碑があります。案内にあるように、東の道を南行すれば、東高野街道をとって、美濃山洞ヶ峠を越えて長尾(大阪府枚方市)から四条畷(大阪府四條畷市)を通り、生駒山系沿いに高野へ至ります。
 右側面の案内は、町道を北へ戻ると八幡山下から京阪八幡市駅へ至ることを、また、南に向かって右の道をとれば西行して幣原村水月庵から河内・招提を通り枚方へ至ることを示しています。この道は、江戸時代の古図には「舟橋道」とあります。


八角院の碑
●国分寺址の碑(W   ×D   ×H   )
【碑陽】不明
【碑陰】不明
【所在】不明


 (120番で紹介の「鳩ヶ峯 国分寺の碑」と同様の所に建てられたものか、あるいは全く別の所のものなのか不明)


八角院の碑
●八角院の碑(W720×D170×H1160)
【碑陽】西車塚跡 国寶乾漆阿弥陀像 同元横川元三大師像 八角院
【碑陰】昭和二年建立 京都三宅安兵衛遺志
【所在】八幡大芝


 明治25年、山中の坊から三転した泉坊書院と松花堂が建てられて、この地を月の岡邸と総称したともいわれています。
月の岡邸と呼ばれる東軍塚跡に対して、西側、四手原村への別れ道の北にあった西軍塚は、西に連なる丘陵端部を切断して営まれた北面の前方後円墳です。全長は115メートル、後円部の径70メートル、後円部の高さは約8メートルあります。墳頂部は径約40メートルの平坦地になっており、明治元年の神仏分離によって、男山山上にあった豊臣秀頼寄進と伝えられる八角堂が移築されています。古墳の西側には幅30メートルにわたって丘陵を堀り割って造った周濠の跡が存在します。東側や南側には確認しにくいのですが、東側の府道八幡・長尾線(高野街道)や南側の樟葉道(四手原村への道)を外周と考えることができます。
 碑文にあるように、明治35年6月18日、八角院境内の土木工事を行った際、偶然に石室が掘り当てられました。石室は、長さ9尺、幅2尺、高さ3尺で、石材に扁平な水成岩を用い、横積上げの割石小口積形式のものでした。副葬品の大部分は東京国立博物館で所蔵されていますが、舶載・彷製鏡5面を含む、碧玉製腕飾など256点がありました。この古墳は、前期前半(4世紀)のものと考えられています。
 西軍塚下が、高野街道と四手原村を通る樟葉道との岐路に当り、河内や奈良からの八幡宮参詣の入口でした。このために茶所があったものと考えられます。なお、元三堂は八角院の前身としてあったものかは不明です。


瀧本坊跡の碑
●瀧本坊跡の碑(W165×D125×H830)
【碑陽】瀧本坊跡
【碑陰】昭和二年建之 京都三宅安兵衛
【所在】八幡高坊(太子坂・石清水社前)


瀧本坊は石清水社の東側にありました。もとは、瀧が落ちる元にあったことによる命名であったと伝えられています。別称、無動院と号しました。寛永4年(1627)3月23日、この坊の住職だった実乗が亡くなり、その後を継いで住職となったのが昭乗でした。昭乗は、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」に称せられた人でした。
 瀧本坊は一度焼失しており、焼亡前は客殿より北に鳴門の間、鳩の間などがありました。再興にあたっては九條殿から玄関を拝領したため、別に正面玄関を有していたようです。また奥小書院は小堀遠州好みで、旧松坊のものを移したとあります。寛永14年(1637)12月、昭乗は甥の乗淳に瀧本坊を譲りました。


涙川の碑
●涙川の碑(W210×D215×H970)
【碑陽】涙川舊跡
【碑陰】昭和三年 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】向て左 寶青庵一丁半 
【左面】向て右 圓福寺三丁半 
【所在】円福寺道 幣原道交差角


円福寺への道を少し入ったところにある涙川舊跡の碑は、涙川の水源を案内するものと考えられます。涙川はこのあたりの山地の水を集め、月夜田から北へ流れていました。碑は高野街道沿いの月夜田にありましたが、水路が暗渠となったため、この地に移動したのですが、碑の右面には「向って左」、左面には「向って右」の案内を刻印しているのは、碑作製の指示間違いでしょうか。
涙川といえば、平安時代、八幡に小野頼風を訪ね来た都の女性が身を投じた女郎花伝説に見える川です。


豊蔵坊の碑
●豊蔵坊の碑(W220×D220×H1020)
【碑陽】豊蔵坊跡
【碑陰】昭和二年 京都三宅安兵衛依遺志建立
【所在】八幡高坊 石清水八幡宮三の鳥居下


豊蔵坊は、徳川家康が江戸入府以前からの祈願所で、秀忠の代に寺領加増があって、朱印地300石を有する坊でした。
江戸期を通じて将軍家代参などの宿泊所で、毎年祈祷の神札を幕府に献上していました。文久3年(1863)孝明天皇の攘夷祈願がなされ、倒幕へ大きな影響を与えました。昭乗晩年の弟子、豊蔵坊孝雄(信海)で有名です。西山足立の足立寺史跡公園内の塚にあるのが豊蔵坊信海の墓だといわれています。


本妙寺の碑
●本妙寺の碑(W180×D165×H1280)
【碑陽】日門上人墓所 本妙寺 右 念佛寺二丁 左 園口 半丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡城ノ内





九品寺の碑
●九品寺の碑(W190×D170×H1220)
【碑陽】九品寺 左 巣林菴一丁 右 正法寺二丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡岸本


 九品寺は走上リから志水町大道を少し南、大道を東に入ったところにあります。 古図には、南参道山下の妙見宮と道を挟んで西側に位置しています。また、行教和尚の開基と伝えて、往古は山上にあったらしく、三の鳥居の西(元三堂や梅本坊のあった隣地)をその跡地であると伝えています。この碑は「忍澂寺・巣林菴」などと同時期の建立ですが、案内の左右は合っています。「男山考古録」によれば、「旧は真言宗、今は浄土宗、正法寺の末寺の内に加わる蓮台山」と号しています。また、「表門を入りて正面に観音堂があり、近此門外の傍に、里俗私に金毘羅祠を建てる」とあります。


西遊寺の碑
●西遊寺の碑(W240×D240×H1250)
【碑陽】舊 橋本寺 西遊寺 右 塩釜三丁 左 八幡常昌院八丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】橋本西遊寺内


 京阪電車橋本駅前に西遊寺があります。西遊寺境内に開設された保育所の駅前の道側に面したところに碑が建っています。フェンス越しにみるため、碑全体を確認しにくく、また、碑が深く埋もれているので距離が記述された碑の下部が確認できません。さて、碑陽には「舊 橋本寺」とありますが、江戸時代を通じてこの地にあった西遊寺とは別の寺です。山崎橋の由緒とは別に、橋本等安などで名のある町内社士の橋本氏の氏寺であった橋本寺は、町道の南側にあったとされ、江戸中期の寛保3年(1743年)の記述では、すでに橋本寺跡となっており、道標建立の際、混同されたようです。案内にある「塩釜」は、町道とは別の平野山、西山に通じる道の途中にあり、常昌院は山沿いを北へ、大谷町入り口にあります。


一の宮入道塚の碑(不明)
●一の宮入道塚の碑(W  ×D  ×H  )
【碑陽】不明
【碑陰】不明
【所在】八幡女郎花(碑不明)


 入道塚は八角堂に近い志水道と四手原村道との分岐点の西側にありました。そこに建てられたのが「一の宮入道塚の碑」であったと思われます。その根拠は、上表54番で紹介した
「男塚古跡の碑」で案内されている「入道塚」です。この入道塚は『男山考古録』で次のように紹介されています。
 ある時、この塚をあばこうとした人がいた。すると、この塚の霊が憤怒の形相で現れた。またある時、善右衛門という人が、この塚の樹木を切ったところ、この法師が現れ、これに恐怖した善右衛門は、まもなく死んでしまった。そして、程なくこの家族にも災難が降りかかり、一家は断絶した。このことがあってからというもの、この塚に足を踏み入れる人は無かった。
さて、この塚の主は何者なのか。その答えは『山州名跡志』の第十三巻にあるといいます。それによると頼風と女郎花の二人の入水を哀れんで、一人の僧が共に入水して死んだ。入道塚は、その僧の骸を葬ったものというのです。『男山考古録』の著者、藤原尚次は「これについては信じがたいことだ」といっています。

正法寺の碑
●正法寺の碑(W260×D250×H1650)
【碑陽】尾張大納言義直候 母堂相應院殿墓所 正法寺
【碑陰】昭和四年三月 稟京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】北 九品寺一丁 京阪電車一八丁
【左面】南 八角院四丁 圓福寺十五丁 
【所在】八幡清水井


 正法寺は浄土宗鎮西派の寺で、石清水八幡宮の社家志水氏一族の菩提寺として、建久2年(1191年)に開創されたと伝えられています。山号を「徳迎山」といい、後奈良天皇の勅額「徳迎山正法寺」が現存しています。志水氏は、もとは静岡県清水の住人高田(菅原姓)蔵人忠国が、右大将源頼朝の幣札使として当地に居住したのが始まりです。当地の新清水三昧地を京極殿御局より譲り受けて、正法寺の造営を計画し、その後、阿仏の子息円誓、国元によって正法寺は造営完成しました。さらに阿仏三代の孫宗久のとき、石清水の「清」の字を避けて「志水」と改称したと言います。鎌倉時代の末から堂舎仏閣を営み塔頭も増えました。天文十五年(1546年)11月には,住持伝誉が後奈良天皇の帰依を受けて勅願寺とされました。後に、志水宗清の娘亀女が徳川家康の側室となり、尾張徳川家の祖、義直を生み、落飾して後は「相応院」と号し、その死後は正法寺を墓所としました。相応院の縁で志水氏は尾張徳川家の国家老となり、志水甲斐守を称しました。相応院の口添えで八幡社領は指出検地のみで、358通の朱印状が交付され、検地免除の地になりました。なかでも正法寺は塔頭7か寺を含めて500石(正法寺120石)を領し、領内随一の朱印高でした。


円福寺の碑
●円福寺の碑(W320×D300×H2400)
【碑陽】聖徳太子御自作達磨大師霊像安置 江湖道場 圓福禅寺
【碑陰】昭和丁卯二年 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】向て右 洞ヶ峠二丁 圓福寺五丁 田ノ口三十丁
【左面】向て左 西二子塚三丁 美の山五丁 長尾三十丁 峠五丁
【所在】土井南山線 円福寺道交差角


 高野街道と河内道の岐路にある道標は、円福寺への入口案内でもあります。左を取れば、西二子塚を経て美濃山と国境の峠を越えて長尾へと続く河内通です。右は、洞ケ峠を越えて枚方の田口から津田を通る高野街道です。洞ケ峠から西へ入ること三丁で円福寺です。  円福寺は洞峠から四手原村水月庵へ至る途中にあって、達磨寺としてよく知られています。山号雄徳山、臨済宗妙心寺派江湖道場円福禅寺と称して、本尊は釈迦如来ですが、鎌倉時代の作である重要文化財の達磨大師座像が有名です。達磨大師座像は高さ82センチメートル、寄木造、正眼入りで独特の風貌を持ち、達磨像としてはわが国最古とされています。像は春秋2回(4月19、20日、10月19、20日)の万人講に公開されます。


泉坊 松花堂址の碑
●泉坊 松花堂址の碑(W155×D125×H950)
【碑陽】泉坊 松花堂跡
【碑陰】昭和三年建之 京都三宅安兵衛依遺志
【所在】八幡高坊(太子坂、石清水社の下)


 泉坊は「男山四十八坊」のひとつで、東谷道より東側、下坊の南隣にありました。この泉坊の名は、祓谷の飛泉があったことから付けられました。泉坊の西面には唐破風の玄関があり、客殿上壇の間には襖障子に数艘の唐船が描かれていたそうです。本堂に安置されていたのは三尊阿弥陀立像で、春日仏師の作で、この本尊をもって、泉坊は「阿弥陀院」とも呼ばれました。これらすべての建物は、小早川秀秋の寄進によるものです。また、「松花堂」は、松花堂昭乗が晩年、泉坊の横にかつて焼亡した瀧本坊の残木を集めて建てた方丈の勤行堂でした。のちに周囲の露地に待合や中門、灯籠、手水鉢を配して茶室風になしました。
 泉坊の石燈籠は4基が確認されています。奉献年月は古いもので萬治2年(1659)8月、新しいもので安永4年(1775)8月です。


神宮寺址の碑
●神宮寺址の碑(W200×D195×H1230)
【碑陽】神宮寺跡 東二丁 財恩寺跡 南一丁 引窓古蹟
【碑陰】昭和二年九月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】男山松里 ふるさと学習館内


 神宮寺跡の碑は、長い間、京阪電車八幡市駅の北側を流れる放生川の岸に横たわり半ば埋れていました。そして行き場所を失った碑は、現在、男山松里のふるさと学習館にあります。
『男山考古録』によると、神宮寺は男山の北麓、宿院の乾(北西)にありました。ただ境内地や伽藍は何度も替っているようです。  寛浩2年(1088)白河上皇の勅によって、大乗院が建てられた時、同地にあった神宮寺と紛れたようで、「大乗院傳来寺記」に「観応3年(1352)4月25日、合戦の時、宿院之餘焔及当寺之間、所謂金堂講堂楼門経蔵云々、悉成灰燼」とあって、神宮寺も同時に消失したといいます。もともと神宮寺の名は、総称のため特定したものを指さず、大乗院なども乗神宮寺と言ったとあります。神宮寺跡碑の案内にある財恩院は、財恩寺とも在応院ともいわれ、明治2年の木津川付替によって、その跡地は河床になってしまいましたが、木津川北岸に小字名にのみ「在応寺」と残しています。中世の頃は北からの八幡の入口にあって、『太平記』などにも度々登場します。


引窓南邸の碑
●引窓南邸の碑(W190×D200×H1170)
【碑陽】引窓南邸跡 西二丁 常昌院 南一丁 神応寺
【碑陰】昭和二年九月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡高坊


八幡市駅の駅前通りから一筋南の道は、古くは八幡宮一の鳥居前から科手町の岩神を経て、橋本町へ通じる山端の道であったと思われる。浄瑠璃「双蝶蝶曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわのにっき)」八段目の通称にもなっている引窓は、綱を引いて開閉する明り取りの窓であるが、開閉による明暗は昼夜を示すと同時に人の心の明暗をも示している。道に面してある引窓南邸跡は、この道が、かって八幡宮への参詣者の通り道であったことを示している。西へは大谷町入り口の常昌院、南へ廻れば一丁で神應寺山門である。


護国寺薬師堂跡の碑
●護国寺薬師堂跡の碑(W180×D165×H1200)
【碑陽】護国寺薬師堂跡 南坂下 滝本坊  西 御本社
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛井遺志建之
【所在】八幡市八幡高坊 八幡宮東門下 太子坂


 男山山中は、八幡宮が明治維新の神仏分離令までは神仏習合の宮寺であったため、僧坊が数多くありました。最盛期48坊とも称せられましたが、維新に際して全て取壊されました。その著名な坊の跡に碑が建てられています。
江戸時代の記録では、堂は赤塗り桧皮葺であり、内部は西側に大菩薩、東側に薬師如来が安置されていました。もとは石清水素山寺と号し、八幡宮が男山に遷座される以前よりあったと伝えられていますが、造立の願主及び創建は不明です。
貞観4年(862)八幡宮全体を護国寺と改められたので、素山寺を薬師堂と改められました。以後度々の大火に会い再建されましたが、明治初年神仏分離令により堂は取壊されました。


単伝庵の碑
●単伝庵の碑(W210×D210×H530)
【碑陽】單傳菴
【碑陰】昭和二年 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡吉野垣外


 単伝庵は、「男山考古録」によると、もとは神原町にあって、中絶した後、男山山中法童坊に預けられ、正徳2年(1712)本堂をこの地に再建して、以来禅宗としてあります。なお、この本堂は嘉永7年(1854)地震で倒れたとあります。


薬園寺の碑
●薬園寺の碑(W160×D180×H1280)
【碑陽】国寶薬師像薬園寺  右 川口五丁 左 正福寺一丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛井遺志建之
【所在】八幡市八幡森垣内 薬園寺前


 東山路通りは、正福寺から一丁で森之町薬園寺前に達します。奈良・宇治への道は、ここで南へ折れ、法園寺前からの道と合して、川口・下奈良・上奈良の各集落を抜けていくことになります。
 碑は、薬園寺山門右側に立っています。しかし、この碑、大きさ、刻み込まれた文字は同じなのですが、最近新調されたようなのです。三宅安兵衛の碑はどこへ行ったのでしょうか。
 碑に刻まれた案内は、薬園寺前から、中世環濠集落の名残をとどめる川口堀之内まで五丁の道のりだと伝えています。南北朝期、森之町は東から八幡への入口にあたり、『太平記』八幡合戦条にも「山名右衛門佐、財園院(北からの入口)二陣ヲ取レバ、左兵衛督猶守堂口ニ支テ防ガントス」と見える。守堂は薬園寺のことで、守堂口はこのあたりを指しています。薬園寺は、薬師如来を安置する薬園寺は森堂と称し、早くから開けた森之町の中心でした。行基建立と伝え、八幡四郷の「宗伽藍」であり、八幡での麹専売の森住人や刀禰らを掌握し、この利益を修二月会など寺役に充てていました。
 薬園寺の名は、薬草園からとも伝えられますが、建武4年(1337)の記録では、麹の他に湯屋湯井那職を支配し、薬湯などの関係も深かったからと思われます。本尊薬師如来立像(平安時代作、重要文化財)は、天部の姿をした善名称吉祥王如来と称する珍しいものです。  


正平の役城の内古蹟の碑
●正平の役城の内古蹟の碑(W180×D180×H1200)
【碑陽】正平役城之内古跡 左 山ノ井一丁 右 本妙寺前
【碑陰】昭和二年 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市八幡城之内


 碑は城之内町の日門上人墓所、日蓮宗本妙寺の門前にあります。写真手前が本妙寺の碑、奥が正平の役城の内古蹟の碑で、ともに三宅安兵衛建立の碑です。さて、碑陽に書かれた正平の役とは正平7年(1352)、南北朝の長い戦いを通じて、特に八幡を主戦場とした争いをいいます。北朝方の後光厳を始め三上皇を吉野に送った南朝後村上天皇は、八幡に行宮を定め、京への復帰を狙っていました。しかし、同年3月に始まる足利義詮の攻撃によって、洞ケ峠、財園院、森の薬園寺、園の法圏寺口、足立寺の佐羅科、如法経塚など、八幡・男山を囲む各所で戦闘がくりひろげられました。5月には陣中の兵糧が少なくなり、後村上天皇は八幡を出て再び賀多生に移りました。激戦場の一つ、園殿口を伝えています。しかし、東から八幡への入口として考えると園殿口は『男山考古録』のいう法園寺の東半丁、二の橋附近が妥当であると考えられます。同時に城之内府近も戦場となり、八幡山直下での激しい戦がありました。
 碑が立つこの場所は、南の志水町を抜けて、河内・奈良から八幡宮へ登る大坂道の入口に当り、同時に東の宇治道などからの入口にもなっていたため、八幡宮攻防の要の一つでした。碑の案内にある山ノ井は、大坂道登り口にあって、八幡五水の一つに数えられている井戸です。


水月庵の碑2
●水月庵の碑2(W190×D160×H950)
【碑陽】水月菴 是ヨリ二丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡福禄谷 円福寺山門左


 水月庵は西車塚下から舟橋道を通って、8丁あまり、円福寺の境内から2丁の距離にあり、皇女和宮ゆかりの尼寺と伝えられています。


湯沢山茶久蓮寺の碑
●湯沢山茶久蓮寺の碑(W320×D320×H1680)
【碑陽】湯澤山茶久蓮寺跡
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛遺志建之
【右面】京大坂街道 右 八幡御幸橋八丁 左 樟葉八丁 南 志水近道廿丁
【左面】橋本渡舟場三丁 山崎停留所十丁 柳谷観音一里廿丁 長岡一里 粟生一里半 善峯二里
【所在】橋本 京阪橋本駅前


 名号碑脇に立つ、妙見宮旧常徳寺の名は、西遊寺の西にあった曹洞宗禅寺のことで、現在の京阪軌道上にあたる。文化10年(1813)1月7日焼失の記録が残る。寺は秀吉の帰依を受けて、下奈良で20石を所領として賜ったという。秀吉が訪れた時、白湯を進上し、「湯たくさん茶ぐれん寺」といわれ、以後寺号としたとの伝説が残っている。江戸時代は、八幡内の禅宗5カ寺の一つであった。橋本駅前の湯津山茶入連寺跡の碑は、側面の案内に山崎停車所が加えられてあることから、橋本駅利用者のためでもあったとわかる。明治43年、京阪電車が開通し、さすがに京阪間の船便はなくなったが、橋本の渡船場は対岸の国鉄山崎駅や柳谷観音、さらに長岡天神や粟生光明寺、善峰寺などへの利用客で賑った。この碑は、翌年建立の上の碑とともに今は見る影もない往時の賑いを示している。


万称寺山の碑
●万称寺山の碑(W230×D200×H1080)
【碑陽】万稱寺跡 右 正平塚半丁 左 中の山一丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡中ノ山


万称寺の西の万称山(中ノ山)は古くから墓地として利用され、正平の役で敗死した四条隆資ほかの正平塚があります。


岡の稲荷社の碑
●岡の稲荷社の碑(W380×D320×H1600)
【碑陽】正平七年役 神器奉安所 岡の稲荷社
【碑陰】文学博士西田直二郎書 昭和二年七月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】右 高野街道峠十五丁 野崎四里 津田二里 柏原六里 従是高野山至ル 【左面】左 奈良街道 美の山十丁 大住一里 松井廿  薪一休寺 【所在】八幡月夜田


 岡の稲荷社は、正平7年(1352)5月、後村上天皇が、北朝足利方に攻められ大和賀多生へ落ちのびる際、この地に三種の神器を隠し置いたと伝えられ、それを狐が守護していたため、後に稲荷社が建てられたといわれています。しかし、『男山考古録』などに当該の稲荷社の記事はありません。また、碑の東南東200メートルの田の中に豊吉稲荷神社がありますが、関連は不明です。八幡宮門前の人家ようやく離れ、八幡出口の目印ともいうべき東西両軍塚を越えると、いよいよ本格的に高野への道です。河内国境の洞ケ峠まで15丁、河内を縦断する東高野街道の起点です。


神応寺の碑
●神応寺の碑(W320×D320×H1920)
【碑陽】谷不動尊弘法大師作国宝行教律師之像 桃山御殿建築物 淀屋辰五郎石碑 神應寺
【碑陰】昭和二年春 三宅安兵衛遺志
【右面】向て左 八幡宮本社六丁 圓福寺三十丁 松花堂墓所二丁
【左面】向て右 神應寺半丁 大石塔半丁 国分寺五丁
【所在】八幡高坊 石清水八幡宮一の鳥居右横


 一の鳥居前のひきめの瀧道への道標の奥にこの碑があります。谷不動を奥の院とする禅寺糸杉山神応寺の案内標です。
向って左鳥居をくぐれば山上まで六丁、町道を志水へ抜け、南山の圓福寺まで三十丁とあります。また右の道は神応寺山門前を通り、石造りでは日本最大で、建立にまつわる多くの伝説を残す大石塔(航海塔)を経て、鳩ケ峯の山頂近く国分寺跡と伝える場所まで五丁です。


小野頼風塚の碑
●小野頼風塚の碑(W200×D180×H700)
【碑陽】小野頼風塚
【碑陰】昭和二年建之 三宅安兵衛
【右面】向右 松花堂墓所
【左面】向左 善法寺
【所在】八幡今田


 金剛律寺前南頬は、小野上町(尾上町)と呼ばれ、「八幡名所記」と題する古本には、小野家町といい、町家の裏にある頼風塚の由来に関する小野頼風の名と関連させています。頼風塚は、金剛寺門前、南西側の町家の裏にあります。「拾遺都名所図会」には「頼風塔」として「八幡金剛寺前町人家の裏にあり」とあります。「山城名勝誌」には、頼風塚を女塚ともいい「今一所放生川河上土人涙川ト云、此川南端八幡山下町筋ヨリ東ニ又号女塚アリ」と記しています。しかし、「男山考古録」では、「山城名勝誌」の記述を批判し、頼風の住家跡が頼風塚で、悲恋のため涙川に身を投げ、頼風も自責の念にかられて後を追ったため、世人が頼風のために築いたもので、「此塚を女塚と云ハ証無し、男の誤か」としています。現松花堂の女郎花塚の対塚とみられます。現在、片葉の葦といわれ、葉が女郎花塚の方になびいて片方にしか生えないという葦の生い茂る中の小さな五輪石塔をそれと伝えています。


紅葉寺の碑
●紅葉寺の碑(W220×D220×H1020)
【碑陽】紅葉寺宝青庵
【碑陰】昭和二年 京都三宅安兵衛依遺志建立
【右面】向て右 涙川一丁半
【左面】左り 八角院一丁
【所在】八幡月夜田


 碑は生け垣に取り込まれ、判読ができないのが残念です。また、碑陽が道路側を向いていないのも気になるところです。さて、ここ宝青庵は、元禄年間に馬場町からこの地に移され、紅葉寺ともいいました。三宅安兵衛の碑建立に適切な言行で協力したのが宝青庵の西村芳次郎氏でした。三宅安兵衛さんによる建立碑は全部で約400箇所。その3分の1が八幡市に集中しているのは、西村氏の影響に寄るところが大きかったと考えられます。


淀屋旧邸跡の碑
●淀屋辰五郎居宅趾の碑(W210×D200×H950)
【碑陽】淀屋辰五郎旧邸
【碑陰】昭和二年建之 京都三宅安兵衛依遺志
【所在】八幡柴座


 闕所、所払いとなった淀屋辰五郎は宝永6年(1709年)、大阪の地を離れ、江戸に潜行します。そして6年後の正徳5年(1715年)、日光東照宮100年祭の恩赦で初代淀屋常安が徳川家康から拝領した八幡の山林300石が淀屋に返還され、その翌年の享保元年(1716年)に辰五郎は八幡に帰ってきて、八幡柴座の地に住まいを構えました。淀屋辰五郎旧邸跡の碑が立っている辻は「ドンドの辻」と呼ばれ、男山の谷水を伏樋して安居橋の裏に筧を通し、放生川を越えて居宅の庭に引いたのですが、その管を流れる水音がドンド、ドンドと聞こえたということからつけられたと言います。碑が立っているところの門は当時のままといい、ロマンをかきたててくれます。

東車塚の碑
●東車塚の碑(W250×D250×H1780)
【碑陽】應神帝前後 東車塚古墳
【碑陰】昭和三年秋 京都三宅安兵衛依遺志建之
【左面】世を捨てし身はすみわたれ月の岡 心にかかる雲もなかりけり 忠継
【所在】八幡女郎花


  高野街道を挟んで東側の古墳は、東車塚古墳と称し、前方後円墳です。
江戸時代すでに「八幡名所記」などに「在西車塚、東車塚、各其形為南円北角、地中在埴輪、謂雖似陵不知其傳記」とあり、両塚ともその所在をよく知られていました。とくに東車塚は、船載鏡や彷製鏡、刀剣、甲冑などが出土し、4世紀から5世紀初めの古墳と推定されています。年代的には、「古事記」に登場する開化天皇の皇子日子巫王子山代大筒真若王命とその妻丹波之阿治佐波毘売命の墓地と比定した碑も建てられていますが、不明です。
古墳の前方部はすでに削られてなく、後円部が松花堂庭園の築山として利用されています。


洞ヶ峠の碑
●洞ヶ峠の碑(W195×D180×H1460)
【碑陽】洞ヶ峠登口 是東三丁
【碑陰】昭和三年十月 京都依三宅安兵衛遺志建之
【所在】八幡市男山松里 ふるさと学習館


 碑は国道1号が通過したため、行き場を失ったのでしょう。現在は男山松里のふるさと学習館にあります。しかし、残念なことに上から42センチのところでポッキリと折れています。
 洞ヶ峠は筒井順慶が日和見したとの伝説があり、日和見することを「洞ヶ峠を決め込む」という言葉を生みました。  


源頼朝手植の松の碑
●源頼朝手植の松の碑(W180×D180×H1280)
【碑陽】源頼朝手植松 右 太子坂上二丁大西坊跡 左 本道三丁豊蔵坊跡
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛建之
【所在】八幡高坊


 太子坂への登り口にある源頼朝手植松は、石清水下り坂と表参道の合流にあるかげきよ塚と関連づけて伝えられています。
かげきよ塚は、石清水の下流襖谷が表参道を通る人の眼に触れる地点であるため、参詣人がこの流れに影をうつして、不浄を清めた跡と伝えています。
元文2年(1737)3月、大坂住人の日野屋某が、景清塚と書いた石碑(六寸角、高さ五尺)を仕丁座の取次で立てたといいます。『男山考古録』では、「景清塚と大書したため平家武士の景清と関係つける者がいるため、斯る物は取棄べき」と非難していますが、源頼朝手植松と関係をつけて、景清が頼朝を待伏せたともいいます。


安居橋の碑
●安居橋の碑(W210×D200×H1250)
【碑陽】安居橋 左 反橋跡半丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】右 淀屋旧邸 單傳菴
【所在】八幡高坊


八幡宮山下を巡り、その昔、放生会が行われた放生川には、下流の全昌寺橋から買屋橋までの間に4つの橋がありました。
一の鳥居の横に高橋、反橋また輪橋ともいい、太鼓橋で神橋ゆえに通行禁止であったために脇上流側に添橋がありました。これが六位橋です。名は、この橋が紺屋町横町から田中家表門通へ至る道に通じており、紺座支配は六位神人が掌ったためです。
 六位橋の上流にかかるため五位の名を負う五位橋は、現在の八幡橋の位置にありました。この間にかかる橋は、町場から八幡宮参道への利便から、利用者が多く、相五位橋との名から安居橋とつきました。江戸時代、五位、六位橋はなく、安居橋、高橋ともに青銅の宝珠を持つ幕府修復の橋でした。
現在、安居橋を太鼓橋に造り、高橋の名をしのんでいます。安居橋筋と常磐道が交差する南西の三角地をドンドの辻と呼んでいます。「淀屋辰五郎旧邸」はここにあったと伝えています。


●戊辰史蹟念仏寺の碑
●戊辰史蹟念仏寺の碑(W180×D200×H1160)
【碑陽】戊辰史蹟 念仏寺  右 八幡橋一丁 左前 正福寺
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡山路


 八幡橋から東山路通りを東へ一町にあるのが念仏寺です。碑は寺の門前に立っています。碑上部は、棒を固定するため、ヒモで巻かれているのがとても残念です。道の北側対面にあるのが正福寺です。念仏寺の東側にある青林院も加えて3寺とも江戸時代浄土宗36ヵ寺組でした。戊辰史蹟とあるのは、慶応4年(1868)正月の官軍の砲火で炎上したためです。

山の井戸の碑
●山の井戸の碑(W180×D170×H1140)
【碑陽】山ノ井戸 八幡泉坊跡二丁 右 松花堂墓所十間
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡平谷


下馬碑北にあるこの井戸の前に「山ノ井戸」の碑が立っています。井戸は、「寛保3年注進記」によると、元禄9年(1696)9月幕府御金銀改役の後藤庄三郎長春が石井筒を組み「藤木井筒」と銘が入れられました。その後、寛保3年(1743)には刀工小鍛冶宗近が焼刃の水に用いたといいます。八幡五水のひとつといわれる山ノ井は、『山城名勝誌』に「山井今荘園町南」とあって、場所も定かではありませんが、『男山考古録』の作者は、この藤木井を山井としています。他に高良神社前に「藤井」、一の鳥居内に、「筒井」があり、山上供御所の水に供せられたといいます。「竹の下の井」と「桜井」は山腹にあったといいますが不詳です。

正平役園殿口古戦場の碑
●正平役園殿口古戦場の碑(W170×D170×H1570)
【碑陽】正平の役園殿口古戦場 左 本妙寺半丁 右 法園寺二丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市八幡菖蒲池


 碑は八幡市民図書館入口左側に立っています。正平の役園殿口古戦場の碑は手前、奥に見えるのは金剛律寺故蹟の碑でともに三宅安兵衛の碑です。
碑にある「正平の役」とは正平7年(1352)、南北朝の長い戦いを通じて、特に八幡を主戦場とした争いをいいます。北朝方の後光厳を始め三上皇を吉野に送った南朝後村上天皇は、八幡に行宮を定め、京への復帰を狙っていました。しかし、同年3月に始まる足利義詮の攻撃によって、洞ケ峠、財園院、森の薬園寺、園の法圏寺口、足立寺の佐羅科、如法経塚など、八幡・男山を囲む各所で戦闘がくりひろげられました。5月には陣中の兵糧が少なくなり、後村上天皇は八幡を出て再び賀名生に移りました。
碑は、その激戦場の一つ、園殿口を伝えています。しかし、東から八幡への入口として考えると園殿口は『男山考古録』のいう法園寺の東半丁、二の橋附近が妥当です。同時に城之内府近も戦場となり、八幡山直下での激しい戦がありました。  


血洗池の碑
●血洗池の碑(W180×D180×H1310)
【碑陽】正平役血洗池古蹟  右 八角堂 左 男塚
【碑陰】昭和二年七月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡大芝


 近くにある西軍塚古墳の周濠の一部と考えられますが、周囲の開発によって池となって残ったものです。血洗池の名は、池に茅原が茂っていたため、茅原(チハラ)が訛ったと伝えられますが、他の多くの血洗池と同じく、池の水の色からの連想だろうと思われます。近辺が南北朝期正平7年(1352)5月の後村上・足利再軍の戦乱の場となったため、より強く関連づけられたものでしょう。江戸時代の寛保3(1743)の「注進記」は、往古死罪人御成敗の時、大刀取刀をすすぎ候池也、との説を伝えています。

東二子塚古墳址の碑
●東二子塚古墳址の碑(W180×D175×H1200)
【碑陽】車塚古墳
【碑陰】昭和三年秋 稟京都三宅安兵衛遺志建之
【所在】八幡女郎花 松花堂庭園旧門前


 碑は、高野街道に面する松花堂庭園旧門前(女郎花塚横)に立っています。車塚古墳は、高野街道を挟んで東側の古墳を東軍塚、西の古墳を西車塚古墳といい、合わせて車の両輪に見立てられています。
この碑は、東車塚古墳側にありますが、両古墳を紹介するものでしょう。なお、松花堂庭園内の東車塚古墳の最頂部には東車塚古墳の碑が立っています。


巣林庵の碑
●巣林庵の碑(W190×D170×H1160)
【碑陽】巣林菴 左隣 忍澂寺 右 九品寺一丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡清水井


 巣林菴の開基は、室町時代の永正15年(1518)と伝えられ、河内から川口、家田などを移り、江戸時代に当所に定まりました。明治維新後、京都洛西桂へ移ったため、現存は無縁仏と数個の五輪塔のみとなりました。この碑の案内も、忍澂寺と同じく左右逆になっています。


男塚古跡の碑
●男塚古跡の碑(W200×D175×H1200)
【碑陽】男塚古跡 右 血洗池前 左 入道塚隣
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡女郎花


 男塚古跡の碑は八幡女郎花、四手原村道の南、志水大道より西側で血洗池の碑の近い塚の中にあります。元は、この場所ではなく、移設されたものと地元の古老は言っています。しかし、碑が案内する
「血洗池前」が近くにあることから、そう遠くない地から移設されたものと推測されます。ここにいう「男塚」とは女塚の「女郎花塚」に対峙して使われています。男塚の主は小野頼風といい、「小野頼風の墓」とも呼ばれていたと寛保3年の『注進記』に見えると『男山考古録』は伝えています。
さて、女塚の女性は泪川に身を投げましたが、一方の男塚の男性(小野頼風)は放生川に身を投げたといわれています。しかし、放生川はこの碑が建っているところより1キロ以上も北にあります。また、男塚といわれている「小野頼風塚」はその地に存在しています。では、この地に建つ「男塚」とは何を意味するのでしょうか。さらに言えば、小野頼風が身を投げたのは放生川。承知の通り、放生川とは生きとし生けるものを解き放つ神事が行われる川です。八幡で生まれ育った頼風が、そんな川に身を投げるとは考えられません。謎は深まるばかりです。なお、碑に案内されている「入道塚」は、頼風と女郎花の二人が入水して亡くなったのを憐れんで、一人の僧が共に入水、その骸を葬った塚であると伝えています。(この碑の紹介は小山記)


和気清麿公旧蹟の碑
●和気清麿公旧蹟の碑(W200×D180×H1450)
【碑陽】和気清麿公旧跡 足立寺古跡
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】右 茶臼山二丁
【左面】左 浄瑠璃姫墓五丁
【所在】八幡市男山足立 足立寺史跡公園内


 樟葉から八幡宮への近道にあった足立寺跡は、志水廃寺などと並ぶ古代寺院跡の一つと考えられます。古くは、甘南備山系(京田辺市)の東側を通る奈良から丹波への古道が、南山の志水廃寺から、この足立寺跡を通り、樟葉、山崎さらに乙訓へと続いていました。
 近辺の北を足立寺村といい、和気清磨ゆかりの足立寺跡と伝えています。寺名は、弓削道鏡に謀られ切られた足が仏の加護によって、元どおりになったためつけられました。和気氏は宇佐八幡神と関係が深く、和気氏の氏寺神護寺(高雄)は宇佐八幡の神託によって建立されたと伝えています。また、和気氏が清和天皇の即位(858年)に際し、宇佐使として派遣されましたが、従僧として行教が随伴したといいます。行教は、当時いとこの神護寺別当真済やその出自の紀氏一族によって中央と結ばれていました。八幡神勧請の足がかりに、和気氏の足立寺が利用されたとも思われます。  


新善法寺旧跡の碑
●新善法寺旧跡の碑(W200×D185×H1000)
【碑陽】新善法寺旧跡
【碑陰】昭和二年 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡


 九品寺の石標の少し北を西へはいる筋があり、その奥100メートルほど入った南側に、新善法寺旧跡の標があります。その西側一帯は空き地ですが、その奥の窪地に3メートル近い宝篋院塔や五輪塔、卵塔などがまとまってあります。これが志水円満寺(円満院)と呼ばれた寺の跡であろうと考えられています。円満寺は室町時代を通じてその名が登場します。
 新善法寺は、八幡宮社務家のひとつで、寺院ではありませんが、江戸時代末に社務新善法寺祐清が神拝所七宝院を造立し、八幡宮に伝わる応神帝の産着や行教の袈裟などを納めたといいますが、現在は礎石跡のみが残っています。また、新善法寺は鎌倉時代の終わり、善法寺尚清の九男、康清が、善法寺家から分かれて一家となしました。康清の子永清が、応安5年(1372)以後、新善法寺と称しました。
 室町時代、田中、善法寺、新善法寺の三家が社務家として順次主務検校に就きました。その後、慶長5年(1600)、徳川家康の廻職定書によって、田中、壇、善法寺、新善法寺の4家が将軍代替毎に社務当職に補されました。


西二子塚古墳址の碑
●西二子塚古墳址の碑(W200×D195×H930)
【碑陽】西二子塚跡
【碑陰】昭和二年九月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】右 筒井陣所跡三丁
【左面】左 東二子塚一丁
【所在】八幡市男山松里 ふるさと学習館内


 元は八幡市美濃山西ノ口に立てられていました。今は、ふるさと学習館にあるのは、開発等に伴うものでしょうか。
 河内道が奈良街道から分岐して美濃山の竹林にさしかかるあたり、西二子塚跡があります。このあたりの字名を美濃山西ノ口といい、名前の通り美濃山の集落、西垣内への入り口にあたります。古墳は、美濃山丘陵沿いにあり、塚は葺石、埴輪、礫石などで囲まれていました。出土品は、直刀、鉄斧頭、須恵器、土師器、練り玉、砥石などが報告されています。碑の案内にある東二子塚は、さらに東100メートルほどの竹藪の中です。また、筒井陣所跡は洞ヶ峠のことで、さらに南西へ3丁とありますが、500メートルほど分け入った地です。  


法園寺の碑
●法園寺の碑(W200×D210×H1280)
【碑陽】法園寺 右 川口渡舟場五丁 左 園口一丁半
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市八幡源氏垣外


 法園寺は雄徳山と号し、律宗、園寺ともいいます。八幡宮28代別当田中勝清が当地に房舎を造り、多年居住して園殿と号し、嘉応3年(1171)没しました。その後、三代の別当もこの地に住居し、建保5年(1217)に至り、34代別当田中宗清が、三代の墓所の傍らに堂を建立し、三尊像を安置し、僧侶を定置し不断念仏を唱えさせたのが法圏寺です。
宗清の子、行清によって堂宇一層整備されましたが、南北朝期にたびたび戦場と化し堂宇も修造変遷がありました。江戸初期朱印地90石を所持しました。


筒井順慶陣所址の碑
●筒井順慶陣所址の碑(W190×D170×H1410)
【碑陽】筒井順慶陣所跡 右 西二子塚三丁 左 円福寺三丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡南山



筒井順慶陣所跡の碑の所在地は、秀吉、光秀の天王山の合戦に際し、筒井順慶が日和見をしたという伝説が残っています。このことから日和見をすることを「洞ヶ峠を決め込む」という言葉を生みました。しかし、それは史実にはなく、謎の多い伝説です。
碑は山手幹線が開通したことにより、国道一号との交差、南東角に移設されました。碑の向きから見ると、「右 西車塚、左 圓福寺」の案内は方向が違い、道しるべの役目を果たしているとは言えないのが残念です。

茶臼山古墳の碑
●茶臼山古墳の碑(W200×D190×H1320)
【碑陽】茶臼山古墳跡 右 樟葉宮三丁 左 石城三丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】男山笹谷



足立寺古跡碑の案内にある茶臼山は、ここより南へ2丁の茶臼山古墳のことです。茶臼山古墳は、現在、男山第三中学の校庭になっていますが、もとは男山丘陵の標高88.49メートルの高位置に築かれていました。古墳の最初の調査は大正4年に実施され、直径18メートル以上、高さ4.5メートルの円墳で、埴輪が二重にめぐらしてあると報告されています。また竪穴式石室から石棺、その他石釧、刀身、鉄鏃(やじり)などが出土しました。
その後の調査で、墳形は円墳でなく、北方にのびる前方後方墳であると確認されました。その規模は全長50メートル、後方部の一辺33メートル、高さ5メートル、前方部幅10メートル、高さ3メートルであり、埴輪も後方部頂部を方形にめぐっていたと確認されました。男山団地の造成により、完全に消滅し、現在、石棺その他出土品は京都大学にあります。碑の案内にある樟葉宮は、西へ3丁坂道を下った地、照葉樹の自然林を残している交野天神社境内地にあります。越前三国から出て、奈良への入京に長年月を費した継体天皇即位の場所と伝えています。樟葉からの道は、茶臼山古墳の南側、切通しと呼ばれた30メートルにもおよぶ崖を抜け、志水町へ通じていました。江戸時代を通じて、八幡の人々が河内や大坂へ出て行くための所用の道でした。なお、案内の石城は、現在は地名でしか残っていませんが、京を見はらす地の名残として、南北朝時代を再現させています。

京街道里程標の碑
●京街道里程標の碑(W300×D200×H1650)
【碑陽】左 東在所道 戸津八丁 内里十五丁 岩田渡船場廿五丁 寺田一里半 下奈良渡船場廿二丁 宇治二里
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛遺志建之
【右面】左 京街道 御幸橋廿丁 鳥羽三里 淀一里半 伏見二里半 東寺四里廿丁
【所在】八幡市八幡松原 内藤精肉店前


「東在所道」はここを起点に、戸津を抜け、内里を越え、上奈良で川口を通ってきた奈良道と合流するまでをいいます。案内の戸津へは一本道で、当所から江戸時代松原と呼ばれた堤道を下ると「渡ル瀬」で、御幸谷川(大谷川)を越え(現在地より西)戸津の集落へ入ります。戸津を出て、すぐ北へ曲り蜻蛉尻川に架る戸津道石橋を渡ると下奈良渡船場への道で、佐山・大久保から宇治に至ります。まっ直ぐ進めば右方に内里の集落です。
 内里を通り蜻蛉尻川を渡れば、野尻の集落、岩田の集落を通って木津川堤に上ると岩田渡船場があります。渡船を利用して対岸寺田へは一里半の距離。岩田の渡しが、八幡内では木津川の最も上流にありましたが、順に上津屋の渡し、下奈良の渡し(奈良浜渡しとも)、川口・生津の渡し、狐川の渡し(淀川)、橋本の渡し(燈油の渡し)、三国の渡しと、多くの渡船場が記録に残っています。
 ちなみに平成14年までの架橋は、京田辺市の山城大橋から下流に、上津屋の流れ橋、国道一号線の木津川大橋、明治2年の木津川付替時からの御幸橋の八幡市内三橋のみで、いかに渡し船が有効に利用されたかがわかります。
 道標にある「東在所道」の東は「東在所道」という名の一部か、「東は在所道」と方角だけを示すのか不明です。ただ、他にも町道から直接他領の在所へ通じる道はあります。また「京街道」とありますが、町道は、志水大道、河内通、東高野街道などと称されはしますが、京街道ではありません。大坂から橋本を通り、淀川堤(北堤)を淀へ至る道が京街道です。
 町道を北へ20町、御幸橋から京街道になります。東在所道の起点から少し南、西へ入る筋があります。江戸時代から田町と呼ばれ、志水町横町のひとつです。この道は、隅田口から切通しを越えて、楠葉へ15町で至ります。また切通しから西山を通り橋本への近道でもあります。江戸時代から橋本町と志水町住人の交流で頻繁に利用されています。


正平役馬塚古跡の碑
●正平役馬塚古跡の碑(W180×D170×H1160)
【碑陽】正平役馬塚古跡
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市八幡長田


 碑は高いコンクリート擁壁の下に立っています。同地域は住宅地として再開発され、碑はこの場所に追いやられたようで、時代の移り変わりを感じます。また碑陰は壁が接近しているので読みにくい。(この道しるべは、井上進さんから情報提供をいただき、掲載することができました。)


豊蔵坊信海墓の碑
●豊蔵坊信海墓の碑(W185×D170×H1070)
【碑陽】豊蔵坊信海墓
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】西山足立 足立寺史跡公園内


 足立寺史跡公園内の小高い塚の中に、八幡宮社僧の豊蔵坊信海と伝えられる墓があります。豊蔵坊信海は孝雄ともいい、佐川田昌俊の子で男山山中の徳川家ゆかりの豊蔵坊に住し、覚華洞信海とも名乗っていました。もともと画が得意で、晩年の昭乗門人として書を学び、また狂歌に堪能で、昭乗の交友小堀遠州について茶道をよく知る者として世間に名声を博しました。元禄元年9月13日没し、54歳でした。


弘仁時代一里塚の碑
●弘仁時代一里塚の碑(W193×D195×H1220)
【碑陽】弘仁時代一里塚跡 右 正法寺隣 左 戸津道二丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡清水井 安心院境内


 八幡清水井の安心院境内に「弘仁時代一里塚跡の碑」があります。この碑は、弘法大師高野山開基と東高野街道とを牽強付会したものだろうと考えられます。江戸時代の古図には、馬場町の北口、今田町境に一里塚松の名残と伝えるものを記しています。『男山考古録』にも、「馬場町北の口大道の西側、道祖神社の北傍にて、旧在し松ハ枯たるか、今は植継にて一株あり、一堆の墳も近来迄在しか、今ハ無くなりたり、橋本町に在も同じ、河内街道の標なり」とありますが、八幡清水井の一里塚の記述はみられません。案内にある「戸津道」は、ここから更に南へ200メートルほどにある道標を起点とする「東在所道」のことです。「東在所道」は、ここを起点に戸津を抜け、内里を越え、上奈良で川口を通ってきた奈良道と合流するまでをいいます。


洞ヶ峠古墳の碑
●洞ヶ峠古墳の碑(W170×D170×H1570)
【碑陽】洞ヶ峠古墳 右 太古山二丁 左 筒井陣所跡三丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市男山松里 ふるさと学習館


 写真右側が洞ヶ峠古墳の碑です。碑は国道1号が通過したため、行き場を失ったのでしょう。現在は男山松里のふるさと学習館にあります。
洞ヶ峠は筒井順慶が日和見したとの伝説があり、日和見することを「洞ヶ峠を決め込む」という言葉を生みました。  


南岩倉の碑
●南岩倉の碑(W200×D180×H1500)
【碑陽】南岩倉 右 如法経塚五丁 左 浄瑠璃姫塚三丁
【碑陰】昭和二年 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市橋本平野山


南岩倉の碑は、橋本平野山の猿田彦社境内にあります。杜の東の石は、高さ1メートル、長さ約2メートルあり、西の石は少し小さい。それぞれ石垣で囲われ、安永元年(1772)12月4日小西長左衛門と銘の入った鳥居があります。二石合せて夫婦石ともいいます。かつての如法塔石とも伝えられており、その訛から名づけたともいわれています。『男山考古録』によると寛文元年(1661)当地開拓の折、銅板経などが発掘されています。このため、大石と合せて磐座と混同されたものでしょう。案内の加法経塚は、『男山考古録』によると当地附近と比定しているが、当地からさらに山手(東)へ上った濁池の東側辺と推測される。南岩倉から南へ3丁行ったところに講田寺があります。道を東にとれば、5丁で足立寺跡へ出ます。ここから足立寺への登り道は、「佐羅科」と伝え『太平記』などにも登場します。淀川を見下す高台で河内への要であり、要害男山を攻める背後からの要路でした。  


橋本、樟葉道の碑
●橋本、樟葉道の碑(W225×D215×H1480)
【碑陽】橋本近道 西十五丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】樟葉道 停留所 西十五丁
【所在】八幡市八幡清水井157(民家の敷地内)


 橋本近道の碑は、東在所道(内藤精肉店角)の起点から南へ少し下がったところ、西に入る細い露地の入口、南側民家の敷地内にあるので気を付けてみないとよくわかりません。
 この地域は江戸時代から「田町」と呼ばれ、志水町横町のひとつです。この道は隅田口から切り通しを越えて、樟葉へ15丁で至ると案内しています。また、切り通しから西山を通り、橋本への近道でもありました。江戸時代から橋本町と志水町住人の交流が、この道を使って頻繁に行われていたそうです。


八幡宮道の碑
●八幡宮道の碑(W200×D205×H540)
【碑陽】八幡宮道
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛
【左面】興聖谷不動 三丁
【所在】八幡市八幡神原


 碑は、石清水八幡宮へと通じる八幡神原の路傍にひっそりと立っています。半分近く埋まっているらしく、碑下部に刻まれた文字を読むことはできません。碑陰の「京都三宅安兵衛」のあとは、「依遺志建之」と続くはずです。この道は、石清水八幡宮への散策コースとして道しるべ、手すり、階段などが整備されました。


寝物語国分橋の碑
●寝物語国分橋の碑(W210×D200×H1160)
【碑陽】寝物語古跡国分橋
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡神原


 碑の前の溝川の橋を「かへらずの橋」と呼び、慶長以来、家康の朱印状で安堵された八幡領内一円を綴喜郡としますが、古来、この川で綴喜と久世を分けていたといいます。『男山考古録』にも、「半時の発句に『山ハ久世里ハ綴喜のこほり(郡と氷)かな』とあり、久世郡ならでは古記合ず」と記しています。他の多くの郡や村境の伝承にみられる「寝過したため、境界が減じた話」と同様、江戸以前の郡境の伝承を、寝物語として仕立上げたものでしょう。


奈良街道巡検道の碑
●奈良街道巡検道の碑(W225×D245×H1330)
【碑陽】巡検道 洞ヶ峠圓福寺廿丁 岡の稲荷社十丁 京阪電車停車場十丁 八幡宮志水坂登六丁
【碑陰】昭和二年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】右 宇治近道 奈良濱十五丁 佐山廿五丁 宇治町二里 【所在】八幡馬場


 町道の馬場町と神原町境に巡検道の標碑が立っています。
巡検道は、当所から東へ、平田を抜け、「榎シヤウジ」と江戸時代呼ばれた所で涙川を越え、さらに東へ(文化センターの南側の道あたり)進み、蜻蛉尻川を「コンゼンポウ橋」で渡り、川の北辺を下奈良まで続く道です。古くは、この道を境として南を綴喜郡、北を久世郡としたとあって、丁寧にも、道の起点である神原町には、国郡境界の伝説に数多く残る寝物語古墳まで創作されています。
この道は、江戸時代の八幡宮社領を形成する社務僧坊や住人である社士・百姓の朱印地を、巡検することに利用されました。
 社務家領や僧坊領などは、所司・法眼が検見の役に当り、修理科米などの役米は郷当役が担当、さらに社士たちが共有する社米地などは、社士中の当番役などが、検見や収穫の管理に当りました。このため、所司・法眼などが下役の巡検衆などを連れ、この道を社領の東の端である下奈良村まで、行進する光景が見られたのです。
 道標の正面は巡検道の基点を示し、右側面にある「宇治近道」は、巡検道を下奈良まで2キロ足らず行き、下奈良から木津川の堤上に出て、対岸下津屋へ渡り、さらに佐山を経て大久保から宇治への約7キロメートルの道のりを言います。
正面の案内は方向が書かれていませんが、「洞ケ峠圓福寺」と「岡の稲荷社」は、碑に向って右、すなわち町道を南下します。反対に「京阪電車停車場」(八幡市駅)へは、北へ取らねばなりません。また「八幡宮志水坂登」はここから西へ神原町と馬場町の境筋を山下まで入ります。そこから山道を登りつめると三の鳥居神馬舎横に出ます。江戸時代の地図には、山下の妙見宮までを谷畑町として120間、妙見宮から南坂門(三の鳥居前)まで267間とあります。


川口渡舟場の碑
●川口渡舟場の碑(W190×D170×H1270)
【碑陽】川口渡舟場 半丁
【碑陰】●
【所在】八幡市男山松里 ふるさと学習館


 男山松里のふるさと学習館に保管されています。下部12センチのあたりでポッキリと折れています。碑陰は読むことができません。  


十王像 閻魔堂の碑
●小野篁公作 十王像の碑(W210×D175×H1180)
【碑陽】小野篁公作 十王像 閻魔堂
【碑陰】昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市八幡松原 民家の敷地内


 民家の敷地内にある碑は、小野篁(おののたかむら)が刻んだという十王像が安置されていること伝えています。
 篁は平安時代初期の文人・貴族で、延暦21年(802)に生まれました。父は参議岑守。野相公、野宰相とも称され、あの小野小町の祖父でもありました。弘仁13年(822)、21歳の時に文章生の試験に及第。その後東宮学士などを経て、承和元年(834)、33歳で遣唐副使に任命され、承和14年(847)に参議に就任しました。その篁は、もう一つの顔を持っていて、毎晩冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていたといわれているのです。
 それは、篁が若かりし頃、罪を犯したのを藤原良相が弁護。時を経て参議となった篁と大臣になった良相がいました。その良相が病のため他界。あの世にいった良相が閻魔王の前に引き出され、罪を定められようとしていたとき、閻魔のかたわらにいた篁が閻魔王に「この人は正直者です。私に免じて許してくれないか」と言いました。閻魔は「篁がそうまで言うのなら許そう」といい、良相は、生き返りました。この世に戻った良相が篁に閻魔王庁でのことを尋ねると、篁は「昔、私のために弁護をしてくれたお礼をしただけです。しかし、このことは決して人に話されないように」と言いました。これを聞いて、良相は「篁は普通の人間ではない。閻魔王庁の臣であった」と恐れおののきました。このことがやがて世間に聞こえるようになり、人々は、「篁は閻魔王宮の臣として冥途に通っている」と恐れたといいます。(「今昔物語集」)
 また、篁が乗る車の簾を、藤原高藤という人が切るという事件が起こり、篁は高藤の祖父になる冬嗣の家で、事情を話していると、突然、高藤が気を失いました。しばらくして息を吹き返した高藤は、庭に降りて篁を礼拝し、「気を失って閻魔の庁へ行ったが、篁が閻魔庁の第二冥官として座っていた」と語ったといいます。(「江談抄」)篁が裁判を毎晩手伝いに行った閻魔庁の入口が、京都の六波羅蜜寺近くの六道珍皇寺境内の井戸だと言われています。
 また、篁は才知のある人物であったといわれています。あるとき、「無善悪」という落書を嵯峨天皇が、篁に「読むように」と命じました。篁は「読めますが、さしさわりがあるので言えません」と一向に読もうとはしません。そこで嵯峨天皇は「命令だ」と無理矢理読ませ、篁はやむを得ず「悪(さが=嵯峨天皇を指す)無くば善けん」と解読したといいます。これを聞いて嵯峨天皇は「このようなことを書けるのは、その方しかおるまい」と篁を攻めると、篁は、自分が犯人でないと言い張ります。そこで嵯峨天皇は、「子」という字を12書いて、これを篁に読めと命じました。篁は、「ネコノコノコネコシシノコノコジシ」(猫の子の子猫、獅子の子の子獅子)と読んで、罪とされるのを免れたといいます。
篁は、仁寿2年(852)、従三位となりましたが、同年12月22日に亡くなりました。51歳でした。  


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金剛律寺故蹟の碑
●金剛律寺故蹟の碑(W330×D320×H2080)
【碑陽】金剛律寺故蹟 京都元標四里三十二丁
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市八幡菖蒲池 八幡市民図書館前


 江戸時代の金剛律寺は、律宗朱印五カ寺の一つとして、朱印地をもち、寺の門は西向きに寺は南面していました。門のみは長く小学校の門として利用されてきましたが、現在は高野街道に面する松花堂の門となっています。
建武年間(1334-37)、赤松円心などの建立と伝えています。寺記は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の折、徳川家康に忠節を奉ったため、伏見城内殿館(学問所)を拝領したと伝えていますが、江戸時代末に堂坊大破して散乱したといいます。廃寺のあと、大正3年12月、町役場とともに八幡尋常小学校が科手から移りますが、これによって八幡から京都市までの距離の計測基点となりました。跡地を示す碑には、京都までの四里32丁(約18.456キロメートル)とあります。


金剛律寺故蹟の碑
●男山八幡宮近道の碑(W200×D180×H900)
【碑陽】八幡宮近道 御本社道
【右面】八幡宮近道
【碑陰】昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市八幡神原


 電柱に寄り添うように立つ碑は2つではない。ぽっきりと二つに折れている。


石清水八幡宮の碑
●ケーブルカー上 石清水八幡宮の碑(W355×D350×H2420+台座W730×D730×H190)
【碑陽】官幣大社 石清水八幡宮
【碑陰】京都三宅安兵衛遺志建之 西村閑夢書之
【所在】八幡高坊 展望台前


 三宅安兵衛の遺志を受け、その子、清治郎が現在の貨幣価値にして1億円を投じて建てた道しるべ。343の碑が掲載されている「木の下陰」には、この碑が載っていないのが不思議です。碑に刻まれた字は、西村閑夢とありますが、これは三宅清治郎が碑を八幡市内に建てるにあたって、意見を聞いた西村芳次郎さんのことです。  さて、男山山頂にある石清水八幡宮は、応神天皇、神功皇后、ヒメ大神(八幡三所大神という)をまつる旧官幣大社です。八幡宮の遷座以前は、男山山中から湧き出ずる清泉を神としてまつっていたと伝えられています。
 859年(貞観元年)、奈良大安寺の僧、行教(俗称紀氏)が、九州・豊前国(今の大分県)の宇佐八幡の神託をうけ、八幡神をこの地に勧請。時の清和天皇の命を承け、木工寮権允橘良基が宇佐宮に准じて、本殿三宇、礼殿三宇からなる神殿六宇の造営に着手し、翌860年(貞観2年)4月3日に「石清水八幡宮」は完成しました。以来、朝廷の崇敬を得て、伊勢神宮に次ぐ国家第二の守護神と崇められ、源氏もまた八幡神を氏神として仰いだため、八幡信仰は全国に流布しました。
 現在の社殿は、1631年から34年(寛永8-11年)にかけて三代将軍徳川家光の造営によるもので、桜門、舞殿、幣殿、外殿、本殿、回廊からなっており、すべて重要文化財に指定されている。桜門は、入母屋造り、桧皮葺で、左右に回廊を出して外囲いを作り、前方に唐破風の向拝(ごはい)をつけた珍しい建築です。
 本殿は八幡造りといわれる建築様式で、外陣(外殿)と内陣(本殿)とに分かち、両方の屋根の接する谷の部分に織田信長の寄進した
黄金の雨樋を通しています。これは、万一、本殿消失時においても、この黄金によって新しく本殿造営ができるといわれていますが、純度は低く、疑わしいものがあります。建築の細部にわたっては、桃山風の華麗な彫刻が多数施されています。


獅子塚の碑
●獅子塚の碑(W200×D170×H1280)
【碑陽】獅子塚跡
【碑陰】昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市下奈良榮 巡検道


 巡検道を少し西へ戻った所に獅子塚跡の碑が建っています。下奈良に居住した八幡宮獅子座神人ゆかりの獅子降りたる跡と伝えています。碑の傍らには小さな石仏がありますが、どういういわれがあるのかは分かりません。


松花堂舊蹟の碑
●松花堂舊蹟の碑(W230×D210×H1030)
【碑陽】松花堂舊跡
【碑陰】昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】向て右 神應寺二丁
【左面】向て左 頼風塚
【所在】八幡市八幡平谷 泰勝寺山門前


 平谷町泰勝寺内にある松花堂旧跡は、「男山考古録」にある「新坊」のことと比定されています。新坊は、松花堂昭乗が小堀遠州へ送った消息文中に「新坊の所へ里坊を営」とあって、新坊の跡に滝本坊の里坊が造られたとあります。


橋本砲台址の碑
●橋本砲台址の碑(W223×D220×H1380)
【碑陽】戊辰役橋本砲臺場跡
【碑陰】昭和三年十一月稟 京都三宅安兵衛遺志建之
【右面】
【左面】
【所在】枚方市楠葉


この碑は、八幡市に隣接する枚方市樟葉にありますが、「橋本砲台址」と八幡市の地名をつけているため、あえて紹介します。(以下、枚方市教育委員会高札から)
元治元年(1864)、徳川幕府は大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて淀川左岸の橋本(樟葉)と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には樟葉関門を設けました。高浜砲台にはカノン砲4門が設置されていたので、樟葉砲台にも同様に設置されていたと考えられています。
慶應4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利を見て官軍に内応し,小浜藩酒井家が守る橋本(樟葉)砲台に砲撃を加えました。このため、淀川を挟んで両台場は交戦状態になりました。そして樟葉砲台は、伏見、淀から敗走してきた幕府軍で混乱を極めたといいます。やがて砲弾が底をつき、橋本砲台の砲門を破壊し退去しました。
久修園院の南西方には、明治末期まで砲台跡の土塁が残っていましたが、京阪電車の敷設に伴い、土塁の土砂は運び去られました。


志水月の岡前の碑
●志水月の岡前の碑(W570×D100×H1050)
【碑陽】東車塚跡 女郎花蹟 元八幡山泉坊書院 松花堂茶席 月の岡邸
【碑陰】昭和二年建之 京都三宅安兵衛依遺志
【所在】八幡女郎花 松花堂庭園旧門前右側


 明治25年、山中の坊から三転した泉坊書院と松花堂が建てられ、この地を月の岡邸と総称したとも伝えられています。月の岡邸と呼ばれる東車塚跡に対して、西側、四手原村への分かれ道の北にあるのを西車塚といいます。


講田寺の碑
●長柄人柱地蔵尊講田寺の碑(W240×D200×H1770)
【碑陽】長柄人柱地蔵尊講田寺
【碑陰】昭和三年 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】南 樟葉 十三丁
【左面】北 橋本 三丁
【所在】橋本平野山 講田寺山門前


 南岩倉から南へ三丁行ったところに講田寺があります。道を東にとれば、五丁で足立寺跡へ出ます。ここから足立寺への登り道は、「佐羅科」と伝え『太平記』などにも登場します。淀川を見下す高台で河内への要であり、要害男山を攻める背後からの要路でした。室町時代に、淀川の治水工事で沿岸の人々が人柱となり、多くの犠牲者が出たといいます。この犠牲者の家族がこのため尼となって長柄の橋の古材で地蔵尊を彫って供養をしたと伝えられています。また講田寺内に、小さなお堂があり、その中に古木の微笑をたたえた地蔵尊が安置されています。この地蔵尊を人々は、笑地蔵尊と呼び、水難除け、交通安全、安産などの御利益があると伝えられています。  


戸津道標の碑
●戸津道標の碑(W250×D250×H1770)
【碑陽】東 内里八丁 上奈良八丁 上津屋十五丁 松井二十丁 岩田渡船場三十丁 寺田一里半
【碑陰】昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】西 八幡志水八丁 八幡宮十六丁 京阪電車停留所二十丁 橋本一里 京阪電車樟葉乗場一里 山崎一里半
【左面】北 下奈良渡船場十丁 下津屋十二丁 田井十五丁 宇治一里半 川口渡船所十丁 淀一里
【所在】八幡市戸津東ノ口


 西は男山、南は美濃山、北と東は木津川に囲まれた八幡平坦部のほぼ中央に在する集落である戸津は、志水町から東へ通る在所道の各集落への分岐点でもあります。
案内にあるように、八幡山下の町場から在所道を東へ取ると極楽橋に当ります。左手は上奈良の集落、.右手は内里の集落へとそれぞれ八丁です。内里を通り抜けてさらに南へ進むと二十丁で松井の集落です。上奈良から東へ道を取れば十五丁で上津屋。内里から東へ岩田を抜けると木津川堤は対岸寺田への岩田渡船場に至ります。
戸津から北へは下奈良の集落を越えると対岸下津屋への渡しがありました。そのまま北へは田井、東へ向うと一里余で宇治に至ります。戸津から北へ下奈良への途中、字井関にあるのが経塚です。当所の北側を下奈良まで巡検道が通じています。西へ戻れば神原町まで十丁の距離です。  


八幡橋の碑
●八幡橋の碑(W330×D330×H2100)
【碑陽】八幡橋 右 志水町十二丁 左 橋本町十一丁
【碑陰】昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
【右面】右 奈良街道 川口五丁 下奈良二十丁 上奈良二十五丁 内里三十丁 上津屋一里 岩田一里六丁 大住二里 田辺二里半 木津五里 奈良六里半
【左面】左 宇治街道 奈良濱廿丁 下津屋廿五丁 佐山三十丁 宇治新田二里 宇治町二里半
【所在】八幡市八幡平谷 八幡橋たもと


  安居橋の上流にかかる八幡橋は、室町時代から江戸初期にかけて五位橋のあった位置にあります。
 橋の直前で放生川は、西から北へほぼ直角に流れを変え、橋のすぐ下から川幅は急に広くなります。これは室町時代、橋の南側にあたる平谷町の家並が二の鳥居あたりまででしたが、応永12年(1405)9月焼失のあと取壊し、二の鳥居近くに馬屋などがあるため、川幅を広げて人家をなくしてしまった結果です。
 『宮寺旧記』に次のような記述が見えます。応永12年9月12日夜子刻焼失ス、干時社務田中融清之時、件ノ社家ハ御馬屋并宿院近シ、向後火難在恐トテ、社家奉行飯尾美濃入道ヲ以テ、被申上之間、被成御教書被停止、在家焼失以後、少々造私屋破却之、放生河ヲ広ケラル、境内郷人諸神領ノ人夫牧交野以人夫被致其沙汰了
 江戸時代、ここに橋はなく、東岸に地蔵院がありました。『男山考古録』は地蔵院について、山路町大道(常磐道から続き、買屋橋を渡り、町中を抜けて志水町から東高野街道となる道)の西側にて、放生川東岸也、往昔此辺に-東山路の通り也-宿院より橋をかけたり、此処より東の方森之町に到る道を東山路といふ、当寺浄土宗三十六ケ寺の内本尊地蔵菩薩-立像なり、開山不知、今郷内惣集会所とす、此会所ハ元今の寿徳院の地ニテ、社士富森又兵衛なる者譲り受で住居とす、己来当寺を用ふ。といっています。
 碑の案内にある宇治街道は、橋から東山路通りを東へ、森之町から堤道を上奈良と下奈良の中間にある奈良漬から対岸下津屋へ渡る道です。現在の国道1号木津川大橋のあたりで川を渡ったのです。奈良街道は従来の志本町から先で東高野街道と分れて、美濃山を経て田辺へ至る奈良道と異なり、現在の府道八幡木津線を示しています。  


橋本道の碑
●橋本道の碑
【碑陽】
【碑陰】
【右面】
【所在】所在不明


 先に紹介した「橋本、樟葉道の碑」と「橋本道の碑」との関連が明らかでありません。よって、同じ写真を添付していますが、所在は敢えて「不明」としました。これは、碑の名称(必ずしも碑陽の刻印と一致しない)が明らかなものの、所在地を記載した文献がないためによるもので、その名称から場所を推測するしかないためです。


如法経塚の碑
●如法経塚の碑(W190×D170×H1270)
【碑陽】如法経塚古跡 右 八幡宮七丁 左 塩竃五丁
【碑陰】●
【所在】八幡市男山松里 ふるさと学習館


 写真左の碑が如法経塚の碑です。男山松里のふるさと学習館に保管されています。碑陰は読むことができません。  


妙見宮  奮  常徳寺の碑
●妙見宮 奮 常徳寺の碑(W220×D220×H1500)
【碑陽】妙見宮 奮 常徳寺
【碑陰】昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
【所在】八幡市橋本


 この碑は三宅安兵衛建立の碑を記載した「木の下陰」には名が見あたりません。それは「其他略之」とあり、掲載されなかった碑の一つのようです。  


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