■三宅安兵衛 (1842年〜1920年) (みやけやすべえ)
八幡市内の道標の多数を占める三宅安兵衛氏銘の道標は69基ある。ほとんどは1927年(昭和2年)で、84%が集中している。その建立時期の内訳は下表のとおりで、1930年(昭和5年)の2基は浜田青陵氏の書で、三宅安兵衛氏長男清治郎氏銘となっているが、1927年(昭和2年)10月が32基と最も多い。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
特に、史跡松花堂庭園内にある東車塚の被葬者を推定した「山伏大筒木真若王命御墓参考地」と、「母泥之阿治佐波毘賣命御墓参考地」の2基は、事業の完成を期す意味もあって、浜田青陵博士の書で、三宅清治郎建立者銘で建てている。 建碑にあたっては、その該地の比定などに浜田博士門下の助言もあったであろうし、『男山考古録』をも参考にしたであろうとも思えるが、おそらくは八幡市での協力者である宝青庵の西村芳次郎氏の適切な言行が功を奏したといえる。ただ惜しむらくは、石工への指示に齟齬があったのか、案内の左右の異なるものや「正平役園殿口」のように符合しないものもある。建碑の過ぎた例に、八幡宮宮大工職で男山周辺の地理・歴史に精通していた社士長浜尚次は、その著『男山考古録』で、1737年(元文2年)3月の大坂日野屋某の建碑について、 碑名に景清塚と大書して建たるに因て、景清平家武士塚、神山に在るを不審する事あり、斯る物は取棄べき事なりかし、又上経塚の転訛るかと思へる事あり、又祠官の内に景清あり、伶人山井氏にも同名あり、此事別に論あり、又石清水雑記に、平家武士悪七兵衛景清右大将家(源頼朝)をねらひて、此処に隠れ居しを察して、佐殿(頼朝)の上の石橋の処より馬を返し給へるなとといへるは、何の証も無き妄言なり。 と、禊谷の清水に自分の影を写して不浄を清めるための、影清めの名のある場所に、景清塚と書いた碑が建てられたため、後世 平景清の伝説がねつ造されるに至ったことを示して、建碑の慎重を説いている。三宅安兵衛氏の遺志を生かして道標建立に努められた三宅清治郎氏の功は、八幡を知ろうとする我々にとって、長浜尚次著『男山考古録』とともに、有難い手掛りである。 平安時代の八幡宮鎮座の860年(貞観2年)以後、男山は信仰の地として、京・大坂・奈良からのみならず、全国的な規模で参詣者が集っている。しかし、参詣者の多き故か、あまりに有名な由か、徒然草の仁和寺にある法師の失敗をまつまでもなく、参道や山上の本宮などへの案内表示は少なかったようだ。八幡市内にある道標で古いものは、1666年(寛文6年)12月、滝本坊の取次でなされた鈴木氏銘のものである。これは平谷町下馬碑から本宮馬場前道まで、途中の丁数のみのもの6基を含めて都合8基がセットである。 江戸時代の道筋、今に伝える碑 次いで1697年(元禄10年)5月、八幡嶋村吉太郎銘の山上本道と西谷橋本道への分岐にある「つのくにそうじ寺みち、大坂下りふ禰のりば」の案内標である。以下、1754年(宝暦4年)、1755年(同5年)のもの、1809年(文化6年)、1819年(文政2年)のものと続く。そのほとんどが八幡宮参詣の道案内であるが、1819年(文政2年)初冬、伊佐氏建立になる堤道の道標は、市内東部上津屋浜垣内にあって、江戸時代の道筋をよく伝えてくれる唯一のものである。 明治以降の道しるべ 明治維新の神仏分離を徹底的に行ったため、男山山腹の僧坊や塔などを破却撤収した際山中・山下の道標なども破壊されたようである。明治になってからの道標建立は、1903年(明治36年)の西軍塚上、1904年(同37年)のひきめの瀧道(2基)および1907年(同40年)春の女郎花蹟の4基のみである。(木久浦) *本ページは、1982年(昭和57年)10月発行の八幡市郷土史会発行の「やわたの道しるべ」から転載しました。また、本稿の「八幡市域の道標について」を執筆された故木久浦勝先生に心から哀悼の誠を捧げます。 目次へ |