石清水八幡宮黄金の樋
黄金の樋  (おうごんのとい)


石清水八幡宮が所蔵する数多くの宝物の中にあって、きわだっているのが本殿に架かる黄金の樋です。この樋は、八幡造りといわれる外殿と内殿の谷にかかっており、その大きさは長さ21.6メートル、外径0.6メートル、深さ0.21メートルで、厚さは実に3センチメートルもあります。

信長公記にみる黄金の樋

「信長公記(しんちょうこうき)《は、織田信長の家臣で、後に豊臣秀吉に仕えた太田和泉守牛一が信長の傍にあって、体験をつぶさに書き記した大書として有吊で、その信頼度もすこぶる高い信長の伝記です。その信長公記には、石清水八幡宮の造営について次のようなことが書かれています。

天正7年(1579)12月10日、信長公は山崎に御座をお移しになり、翌11、12の2日間は雨天のため京都山崎の宝積寺にご滞在になった。そのとき、石清水八幡宮の内殿と外殿との間には昔から木製の樋が架かっていたが、それが朽ち腐って雨が漏り、搊壊寸前であり難儀していることを信長公がお聞きになると、さっそく造営することをお決めになった。そこで、代官武田佐吉のほか、林高兵衛、長坂助一の3人を石清水八幡宮の造営奉行に任命し、「こんどは後世にまで残るように《と、「唐金(青銅)の鋳物に直し、長さ六間のところを5つの鋳物で継ぎ合わせるように《と仰せつけられた。 また、「必要な費用以外に無駄な支出がないようにし、一刻も早く完成するよう念を入れて申しつける《と、命じられた。
 造営にあたって信長公は、かふじ・番匠・大のこびき・葺き師・鋳物師・かわら焼きたちを召し寄せるとともに、大和の国の三輪山から材木を取り寄せ、斧始め(起工式)を天正7年(1579)12月16日午前9時ごろとした。
天正8年(1580)3月、仮遷宮があって、ほどなく社頭・神殿の屋根をふき終え、築地・楼門の工事もすみ、金ぱくでもって飾りたて、また、意奉拝の社壇には、七宝をちりばめたことから、神前は光明を増し、堂々と荘厳をきわめた。そして、5月26日に正遷宮が行われた。このことから「神は人の敬いによって威を増す《と言った。
信長は正遷宮に訪れ、武運長久と家門繁栄を祈った。また、参詣の人びとが群れ集まり、信長への尊敬の念を増した。そして、8月中旬までかかって9か月で、造営をすべて終えた。


天正7年の出来事

信長が樋の修理を命じた1579年は、安土桃山城の天守閣が完成した年で、翌年には、信長は郡山城を除く大和の諸城の破壊を命じています。
1634年(寛永11年)、徳川家光の手によって現在の社殿が造営されましたが、黄金の樋は、信長が寄進した時のまま使われ、現在に至っています。さて、その黄金の樋、万一、本殿消失時においても、この黄金によって新しく本殿造営ができると伝えられていますが、真偽のほどは定かではありません。

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