頼風塚
頼風塚地図
よりかぜづか
空白線
頼風塚

所在地:八幡市八幡今田

 八幡市民図書館の南西、菓子店「志゛ばん宗」の横に頼風塚の碑が建っています。その1メートルにも満たない細い路地を行くと民家の南裏に小さな石塔「頼風塚」があります。その塚には、このような伝説が残っています。

 平安時代の初期にあたる806年から808年、平城天皇の時代に小野頼風という人が八幡に住んでいました。彼は京の都で仕事に就いていて、京の女性と深い契りを結んでいました。その後、頼風は八幡に帰ってしまうと、いつしか二人の間に秋風が吹くようになっていました。京の女性は思いあまって八幡へと頼風を訪ねてきました。しかし、頼風が他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり放生川の上流「泪川(なみだがわ)」に身を投げて死んでしまいました。やがて、川のほとりに彼女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲きました。

 頼風がこの話を聞いて、花の元に寄ると、花は恨んだ風情をたたえながら頼風を嫌うように遠退き、離れると元のようになるのを見て、頼風は「それほどまでに私を恨んで死んだのか」と、自責の念にかられ、同じように放生川に身を投げて死んでしまいました。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたといいます。

 男の塚である頼風塚の周りには、葦の生い茂っています。この葦は一方のみに葉をつけている「片葉の葦」で、遠くはなれた松花堂庭園の西隅にある女の塚「女郎花塚」に向かって今もたなびいていると言われています。この言い伝えは室町時代になって、世阿弥が謡曲「女郎花」に仕立てられ、一般に知られるようになりました。しかし、男山考古録の著者の藤原尚次によると、古史に「小野頼風」なる人は見えず、また、小野家の系譜にもないといい、作り話ではないかと言っています。

 長年の風雨にさらされて丸味をおびた石塔には文字は見えませんが、石塔の前に置かれた石を刳り貫いて作った線香立てには「溝口」の名が読み取れました。これは比較的新しいものでしょう。また、花筒にはきれいな花が手向けられ、地域の人々によって今も大切に守られていました。

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