男山考古録 ■藤原尚次
(ふじわらなおつぐ)

寛政9年(1797)〜明治11年(1878)

藤原尚次は寛政9年(1797)、石清水八幡宮の宮大工直次の子として生まれました。そして、父の後を継ぎ宮大工となった尚次は、嘉永元年(1848)、「男山考古録(全15巻)」を著しました。
八幡の歴史を振り返るとき、そのバイブルとなっているのがこの「男山考古録」で、その解説文には「言わば石清水八幡宮並びにその付近のことも詳記した『石清水大観』」といって不可ないものである。だから石清水八幡宮や付近の事柄について何か理解し、あるいは研究しようとするならば、まず、この考古録に問うてみるのが順序であろう」と述べています。
事実、石清水八幡宮では、座右書のひとつとして、絶えずこれを見、社務運営の参考にされているといいます。

●原本は火災で焼失

この考古録、実はその原本は、石清水八幡宮社務所に秘蔵されていましたが、昭和22年(1947)2月12日の炎上によって灰燼に帰してしまいました。その後、有志らが諸本を探し求め、幸運にも山本九兵衛、辻村豊夫両氏の書架にその写本が見つかり、男山中学校の先生たちが中心となって昭和26年1月30日、復刻となったものです。
このように数奇な運命をたどった「男山考古録」ですが、その著者尚次は、姓を藤原、家名については長濱、號を徳甫といいました。祖父政次、父直次と、代々、石清水八幡宮の宮大工職で、棟梁の家系でした。この男山考古録の執筆には約半年を要したと尚次の記述が見えますが、その資料収集には数十年を要し、また、読破した諸文献は300余冊にも及んだといいます。
こうして著された男山考古録は、こういった諸文献と同じ傾向をもつ大観的記述で、男山を中心とする古跡、事物、行事がその由来とともに詳細に記載され、そのものによっては尚次自身の鋭い考察をもってその評価がされているのが興味深いものとなっています。
次に、尚次が「男山考古録」の編纂に寄せて、次のように記しています。

●尚次、編纂の言葉から

廣幡八幡三所皇大紳、貞観のむかし、わが石清水の所に大宮所敷坐しより、いやさかえに榮えて、峯に尾に堂杜いとなみ建られ、麓に里に軒をつらねて、名だたる所こそ多く成たりけるが、中津世の亂に焼亡壊顛なそして、今其蹟所さだかならぬがうへに、古記ともうしなはれ、たまたまに遺れるは寫誤あるがままに、狡意たちして己自恣佛さた、漢こころに解ひかめて、本の在りかたを損ひつるも少からず、おのれ年に月にそれの證を索めて、石清水のみなもとに遡に、中つ瀬の濁をなかし、本のこころを汲あげて、雄徳山の古今、有とある事實を、よどむくまなく清らにせまほしと、見るに搴し聞に録せし記とも、百の數をかさねぬ、それ皆ひとつにいひ出んのこころあれども、かにかく道にうとく、見る事の淺きから、おもひたとりて定めかねつ、さらばとてあらましのみにて閣むも朽をしく、今は老の心短く、おのがむねにはあらぬ事とも多かれど、先はし近き名所の由來の大概を其中より抜出て、千世のふる道猶問むにつきにもなれかしと、去年の秋より今年の春かけて、神仕の隙々思ひ出るまにまに、ついでをも分たず筆に任せて、とみに物せしに、三か一もいふべきを云はず、いかにも短みぢかくとど思ひ居れども、くだくだしさにや、かく十餘五巻にはなりぬ、かれ次々つづり出べきふみどもあれは、此ふみまたあらため書むのいとまなし、眞に下草の亂れたる儘なりけり、
さるをふみ分て見む人あらば、誤れるを正し、知ざるをさとし、もれたるは補ひてよ、今やふるきを温ねて、絶たるを興し給ふ大御代、かかる時をうしなひて、いたづらに在るものかは、其故、蹟をしのび、其神縁を仰ぎ、誠忠を憤發して猶ふたたびの営あらば、男山の昔にかへり、さらにさかえて道のためにこそ、
嘉永元年三月末の二日        石清水宮工司 藤原尚次 謹誌

●廃仏毀釈で男山は激変

尚次71歳の明治元年(1868)3月28日、神仏混淆禁止令をきっかけに、廃仏毀釈運動が広がり、男山の坊は次々と取り壊されましたが、男山を愛した尚次は、一体どんな思いでこれ見ていたでしょうか。その10年後、明治11年(1878)、尚次はこの世を去りました。82歳でした。
男山考古録は、市民図書館、松花堂美術館図書コーナーで閲覧することができます。  


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