1799年―ライン戦線



・オストラッハの戦い(1799年3月21日)

 3月12日、フランスがオーストリアに宣戦布告。この時点で事実上第二次対仏大同盟が成立した。総裁政府は攻勢の準備を何ヶ月も整えており、名目上は13万5000人の兵力を投入していた。ジュールダンの4万6000人がケールとフンニンゲンの間から先鋒として突出し、ベルナドットの4万8000人は北方のマンハイムを脅かすことになっていたが、実際にジュールダンの下にいたのは3万8000人であり、ベルナドットの部隊に至っては1万人ほどしかいなかった。他にスイスやオランダにも部隊が配置されていた。一方のオーストリア軍はカール大公が歩兵5万4000人と騎兵2万7000人(あわせて7万8000人の説もある)を擁していた。

 ベルナドットは宣戦布告の前3月1日にはライン河を渡り、2日にマンハイムを降伏させた。同じく1日にライン河を渡ったジュールダンは2倍の数を擁するカール大公の軍に向けて前進し6日にはシュヴァルツヴァルトに到着。さらに南翼のマセナが追いつくのを待たずに前進を続けた。カール大公はこれに対応して3日にはレッヒ河から前進を開始。ベルナドットに対応するためスタライ麾下の1万5000人を派出した上で自らはジュールダンの軍に向けて進んだ。両軍はドナウ河とコンスタンス湖(ボーデン湖)の間で接触し、フランス軍前衛のルフェーブルはオストラッハを流れる河の背後にある丘に陣を敷いた。ただ、この時点でフランス軍は広範囲に散らばっている状態にあった。オーストリア軍は部隊をフランス軍の左翼に集めて攻撃を集中しようとした。

 一日の準備の後でカール大公は3月21日朝からオーストリア軍7万人を3つの縦隊に分け、右翼の縦隊でフランス軍左翼のグーヴィオン=サン=シール師団を攻撃し、中央と左翼の縦隊でフランス軍前衛に襲い掛かった。フランス軍予備のスーアン師団がオストラッハを守るルフェーブルを支援し、丘を攻撃したオーストリア軍の2個部隊に大きな損害を与えたものの、ルフェーブルは負傷。スールトが前衛の指揮を引き継いだ。ジュールダンは退却した左翼サン=シールとの連絡を保つため、前衛部隊に対し午後の間にプフレンドルフへの退却を命じた。最初に退却したのは前衛部隊の方で、サン=シールは彼らとの連絡を保つため夜になって後退したという説もある。参加兵力はオーストリア軍2万6000人、フランス軍2万8000人という説もある。損害はフランス軍4000人(2300人の説もある)、オーストリア軍2300人(2900人の説もある)。フランス軍は秩序を保って退却し、オストラッハの橋を爆破。オーストリア軍の追撃を翌日まで遅らせた。ジュールダンはシュトックアッハを通り過ぎて退却し、部隊を再編した。

 この戦いに関するジュールダンの記述はこちらを参照。

・シュトックアッハの戦い(1799年3月25日)

 3月25日、マセナとの連絡を保つためジュールダンは夜明けからシュトックアッハの奪回を目指した。一方のカール大公はフランス軍が退却してコンスタンス湖南方でマセナと合流するものと想定し、メールフェルトの前衛部隊を偵察に出した。メールフェルトはエミンゲンまで前進したが、そこでグーヴィオン=サン=シール師団による攻撃を受けた。さらにメールフェルトは右側面からヴァンダンムの部隊に迂回され、やって来たスールトの前衛部隊にリプティンゲンを奪われた段階で退却した。この戦闘を完全な勝利と勘違いしたジュールダンは全軍にオーストリア軍の追撃を命じたが、カール大公は左翼をナウエンドルフに任せておき、自らはスールトを攻撃すべく全力を投じた。サン=シールがオーストリア軍を迂回すべくモスキルヒに向かっている間に、メールフェルトを追撃していたスールトはシュトックアッハから来たオーストリア軍増援の反撃を受けた。ジュールダンは騎兵を突撃させて反撃を行おうとしたが、ドープールの騎兵は突撃準備に時間をかけすぎたうえに突撃にも失敗した。この間、オーストリア軍左翼を迂回すべく行動していたスーアンとフェリーノは町のすぐ南で砲兵の待ち伏せにあって前進を止められ、夜には追い払われた。フランス軍左翼では最も遠方から回り込んだヴァンダンムが反撃を受けて後退。サン=シールはモスキルヒまで前進していたが、スールトの前衛部隊が破れたため後退を命じられた。フランス軍はドナウ南岸を通ってシュヴァルツヴァルトまで退却、最も突出していたサン=シールはドナウ北岸を経由して後退を行った。シュトックアッハの戦いの参加兵力はフランス軍3万8000人(3万5000人の説もある)、オーストリア軍4万6000人(7万2000人の説もある)。双方の損害は5000人(フランス軍4000人や3700人、オーストリア軍5800人や5900人の説もある)だったが、ジュールダンは南翼からホッツェのオーストリア軍に包囲される危険性に気づいており、翌日もシュヴァルツヴァルトへの退却を続けた。

 やがて敗北のためジュールダンは罷免された。カール大公はシュトックアッハで増援を待ち、4月3日に側面からの攻撃に対応するためその増援をアルプスへ送り込んだ。ジュールダンの後任であるアルヌール(アルヌーフ)将軍は4月5−6日に全軍をライン河の背後へ引き上げた。孤立を恐れたベルナドットの監視軍も退却し、総裁政府はこの方面で防勢を余儀なくされる。カール大公はスイスが重要だと判断し、ライン方面では積極的な攻撃をしかけなかった。

・マンハイムの攻勢

 しばらくライン方面では静かな状況が続いていた。一時的に指揮権を持っていたフランスのミュラー将軍は前線をわずか5万2000人で守っていたが、スイス方面で反撃に出るためカール大公の部隊をライン方面へひきつけるべく、8月26日にマンハイムでライン河を渡河した。彼らは退却するスタライ将軍のオーストリア軍を追ったが、9月11日にドナウ河沿いに展開していたカール大公が2万5000人の増援を率いてハイデルベルクでこの軍と合流すると、ミュラーは慌ててライン河へ後退した。ミュラーはマンハイムにラロシュの率いる1個旅団5200人だけを防衛に残したが、彼は9月18日にはカール大公率いるオーストリア軍2万2000人の攻撃を受け、降伏した。このマンハイムの戦いにはフランス軍1万8000人、オーストリア軍1万8000人が参加し、損害はフランス軍3500人、オーストリア軍1300人だったとの説もある。しかし、ミュラーの行動によってカール大公はスイスから引き離され、その間にマセナがチューリヒで勝利を得ることができた。カール大公は北部オランダへ上陸した連合軍を支援するため北へ向かうよう命令を受けていたが、スイスでの連合軍の敗北により動きを止めた。フランス軍側ではミュラーの後にルクルブが指揮官となって10月から再度攻勢に出たが、12月に入るとフランス軍はライン河左岸へと引き上げた。


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