オストラッハの戦い 1799年3月21日



(以下の文章はGemeinde Ostrachのページに掲載されている"Schlacht bei Ostrach"をBabel Fishで英訳したうえで、さらに日本語訳したものである。勝手翻訳なのでこのページは隠しページ扱いとしている)


第2次対仏大同盟戦争の政治的要因

 1789年、フランスで革命が起きた。革命は封建主義的な貴族の特権を一掃し、絶対主義を滅ぼして王政を廃止した。革命が掲げた民主主義的原則に伴い、フランスはさらに欧州の他の国々にも革命を普及し、その封建主義を根絶して君主たちを滅ぼそうとした。加えて、フランスの議会は軍事的手段を用いてライン河を「自然国境」とすることに賛意を示した。

 1792年4月20日、フランス国民議会はオーストリアに対し宣戦布告した。この「第1次対仏大同盟戦争」は1797年のカンポ=フォルミオ条約で終了。オーストリアはライン左岸の割譲に合意し、ベルギーとロンバルディアを譲ったうえでヴェネツィアを得た。

 イタリアにおけるフランスの勢力拡大とスイスにおけるヘルベティア共和国の建国とは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコ、ポルトガル、ナポリで構成する新たな対仏大同盟の成立をもたらした。1799年春、連合軍はオストラッハ、シュトックアッハ、チューリヒ、そしてイタリアで重要な成功を得た。秋に起きたロシアの同盟からの脱退と、ボナパルトのエジプトからの帰還により、続く1800年にはフランス軍はイタリアを回復(マレンゴの戦い)し、モロー将軍はミュンヘンを占領してホーエンリンデンで勝利した。リュネヴィルの和約が成立し、ベルギーとライン左岸は公式にフランスの手に落ちた。

1799年の両軍の状況

 1799年3月初頭、マセナ将軍率いるスイス方面軍3万人はスイスのライン河沿岸とボーデン湖を出発し、グラウビュンデンとティロルを征服せよとの命令に従って前進した。ベルナドット配下のライン方面軍4万8000人は、マイン河、ネッカー河、エンツ河の間に展開するドナウ方面軍を支援するためライン河を越えてマンハイムに向かった。ジュールダンのドナウ軍3万7000人はバーゼルとストラスブールでライン河を越えた。この軍は5個師団で構成されていた。

前衛部隊9000人(ルフェーブル将軍)
右翼の第1師団8000人(フェリーノ将軍)
中央の第2師団7000人(スーアン将軍)
左翼の第3師団7000人(サン=シール将軍)
予備部隊3000人(ドープール将軍)
左側面部隊3000人(ヴァンダンム将軍)

 この軍は4つの縦隊に分かれ、それぞれヴァルトシュテット、ヘレンタール、キンツィヒタール、オーベルキルヒとフロイデンシュタットを通ってシュヴァルツヴァルトを通過した。

 3月3日、フリートベルクの司令部にいたオーストリア軍総司令官カール大公は、アウグスブルクからドナウ方面軍がライン河を越えたとの連絡を受けた。翌日、オーストリア軍はすぐにバイエルンの状況に対応すべく出発した。彼らは以下のように分かれた。

ナウエンドルフ元帥指揮下の前衛部隊1万7000人。この部隊はレッヒ河を3つの縦隊に分かれて渡河する:第1縦隊はバーベンハウゼンからビベラッハへ、最も強力な第2縦隊はメミンゲンを通ってヴァルドゼーへ、第3縦隊はロイトキルヒからラーフェンスブルクへ向かった。主力軍はカール大公率いる5万3000人。この部隊はレッヒ河をアウグスブルク、ランズベルク、ショーンガウで渡る。6個大隊(6600人)はドナウ河をウルムへ進む。スタライ少将率いる1万3000人はノイマルクトからレートニッツへ向かう。かくしてフランスのドナウ方面軍3万7000人は帝国軍7万7000人に向かい、それをスタライの1万3000人が側面から包囲するような形になった。

 3月7日、最初のオーストリア軍がオストラッハを通ってプフレンドルフ方面へ向かった。

 3月17日、オーストリア軍前衛部隊の前哨線がブッヒャウ、アルツハウゼン、ヴァルドゼーに到達し、残りはビベラッハに布陣した。

 3月19日、ルフェーブルのフランス軍前衛師団のうち騎兵の大半と歩兵の半数がオストラッハに到着。3つの縦隊に分かれ、最も強力な縦隊がバート=ザウルガウへ、次の縦隊がアルツハウゼンへ向かう道路へ、第3の縦隊がフリートベルクへと前進を続けた。このためオーストリア軍の前哨線はバート=ザウルガウとラッツェンロイテへ退却。一方でオーストリア軍主力部隊はシュッセンへ進んだ。

 3月20日、フランス軍はジーセンまで突入したがオーストリア軍の砲兵によって撃退されバッハハウプテンまで後退。前衛部隊とともにいたスールト将軍がそこで再編を図った。ホスキルヒ方面ではさらに激しい戦闘が繰り広げられ、フランス軍は一時アルツハウゼンまで突入したがやがて押し戻され、夕方七時にはホスキルヒすら放棄することになった。

 会戦前日の夕方にはルフェーブル師団はケーニヒゼークヴァルドをボルステルンからフリートベルクへと移動しており、その後に続くサン=シール師団はドナウ河沿いをメンゲンまで進んでいた。ヴァンダンム師団はドナウ河左岸20キロメートルの場所からジグマリンゲンに至る場所を占めており、主力部隊からは遠く離れて連絡が取れない状態だった。同じく遠く離れていたのがフェリーノ師団でラーフェンスブルクへの接近路にいた。スーアン師団は予備となっており、ドープール師団はオストラッハ後方10キロメートルの場所にあるプフレンドルフの背後にいたため、どちらも戦闘には参加できなかった。オーストリアの主力軍はこの日、レンハルズヴァイラーとアルツハウゼンからラーゲルンへ行進。彼らは森の背後を通ったためオストラッハの丘に布陣した敵を発見できなかった。カール大公はラーゲルンとレンハルズヴァイラーからバート=ザウルガウへ移動。前衛部隊は会戦前日の夕方にケーニヒゼーク、ホスキルヒ、ヘラーツキルヒ、クロスター=ジーセン、フルゲンシュタット、そしてヘルベルティンゲンを通ってドナウ河に至る地域に布陣した。

1799年3月21日の会戦

 午前3時、夜と霧に隠れてオーストリア軍前衛部隊全軍が攻撃を始めた。フルゲンシュタットにいたフュルステンベルク率いる右翼の第1縦隊は前衛部隊を二つに分け、弱い方の部隊はホーエンテンゲンで戦闘に入り、強い方はフリートベルクとレッペルヴァイラーへ激しく突入した。ターフェルツヴァイラーとオストラッハの間にある森に覆われた丘は奪われ、オストラッハのフランス騎兵はオーストリア軍の圧力を受けた。サン=シールはジグマリンゲンとシェーアの間の道路を確保。残る兵でホーエンテンゲンを攻撃し、オーストリア軍を排除してレッペルヴァイラーの前面にある丘にまでやって来ていた敵縦隊の右側面に向かった。オーストリア軍による再度の攻撃でフランス軍はホーエンテンゲンから押し出された。両軍は何度もこの場所を奪い合ったが、最後はエンツコーフェンとブレーメンに対する同時攻撃によってフランス軍は退却を強いられ、バイツコーフェンを通ってオストラッハの背後まで下がった。ホーエンテンゲンの村と丘はオーストリア軍で溢れ返った。前衛部隊はオストラッハへの道路を押し通ってハプシュタールへの道を開き、ロスナを占拠してメンゲンとプフレンドルフの間の連絡を確立した。縦隊は主攻撃に参加すべくマーゲンブーフへ進んだ。

 第2縦隊も同様に午前3時、ジーセンから行軍を始めた。銃声はオストラッハからも聞こえた。部隊の先頭は道路を確保していたフランス軍の大軍とボルステルン前面で接触。長い戦闘の後、フランス軍はゆっくりと後退しターフェルツヴァイラーを通ってブーフビュールとガルゲンビュールの背後にある有利な丘を占めた。午前4時半ごろ、両軍に大きな損害を強いていたこの攻撃が終了した。第2次攻撃は5時半ごろ、ヴァーゲンハルトヴァルトを迂回するかたちで行われ、フランス軍はオストラッハとイェトコーフェンの背後まで退却を強いられた。ちょうどこの時、霧が晴れた。プフレンドルフからオストラッハへ攻撃が行われたとの連絡を受けて駆けつけたジュールダン将軍と、第2縦隊がいる場所まで前進してきたカール大公の眼前に戦闘の全貌が姿を現した。フランス軍はオストラッハを通る道路を守るために橋を破壊し、村の中、イェトコーフェンの対面にある森、プフレンドルフに通じる道路がある森の端に兵を配置した。全砲門は村への接近路をカバーするためオストラッハの背後にある高地に配置され、一部はアムツハウゼス近辺とオストラッハの頭上を越えて砲撃できるキルヒホーフの上に置かれた。午前6時半には砲撃は一段と激しくなった。オーストリア軍前衛部隊はオストラッハ前面の丘を占領し、ガルゲンビュール(ベニョフスキー連隊)とブーフビュール、及びそこから流れ出る小川に配置された大砲を押さえた。フランス軍はイェトコーフェンから追い出された。進撃するうえでの隘路となる川を通行できるようにするため橋は修復されたが、オストラッハの背後へと突破する試みは最初は失敗に終わった。

 ヴァリス率いる第3縦隊がカール大公の第2縦隊と合流した後、オストラッハ川の水量が多いうえに教会の下流にある渡河点が強力な砲撃を受けていたにもかかわらず、オーストリア軍8個大隊はブーフビュールから次々と川岸へと押し下っていった。3回撃退された後、オーストリア軍は午前10時になって渡河点を押し渡り、イェンザイティゲンの丘を征服した。イェトコーフェンへの攻撃が同時に成功し、さらに第1縦隊もマーゲンブーフへ前進。ジュールダン将軍を打ち破ろうと意図したオーストリア軍はさらに戦闘を継続するためプフレンドルフへと予備を急がせた。

 フランス軍はプフレンドルフ背後の森まで後退した。オーストリア軍の前衛部隊は森の中で第1縦隊と合流し、敵を追った。全軍は今やオストラッハへの道を取り、プフレンドルフへの主要道路、カルクロイテ背後にある丘への斜路、スペック、及びブルクヴァイラーへと4つの縦隊に分かれて前進を続けた。大砲3門が勝者の手に落ちた。

 カール大公はこの日のうちにプフレンドルフの陣を攻撃するつもりだった。しかし、アンデルスバッハ川にかかる橋が貧弱だったうえに、ルフェーブル、スーアン、ドープールの各師団がプフレンドルフ前面の丘に戦闘準備を整えて待ち構えていた。アンデルスバッハ川がオストラッハ川より幅が広く、しかも渡河点が狭かったため、カール大公はフランス軍の右翼を迂回するべく、より標高が高く川幅の狭いデンキンゲンへ向かうことを決断した。しかし、夜の訪もありこの企ては実行されなかった。オーストリア軍はマーゲンブーフ(フュルステンベルク率いる1万2000人)及びカルクロイテとブルクヴァイラー間にとどまることになった。前哨線はアンデルスバッハの川岸を占めた。

 この戦闘ではフランス軍約1万8000人と連合軍約5万2000人が戦った。

 戦闘における全損害はフランス軍側2257人に対し、オーストリア側が2113人だった。



――1799年ライン戦線に戻る――