オストラッハの戦い 共和国暦7年芽月1日



(以下の文章はgoogle bookに収録されている"Memoir of the Operations of the Army of the Danube, Under the Command of General Jourdan"を日本語訳したものである)


 [芽月1日、3月21日]午前5時、私はルフェーブル将軍からの手紙を受け取った。彼は自分の前哨線があらゆるところで攻撃されたと知らせた。そして彼が受け取った報告によると我々は本格的交戦を予期しなければならなくなった。

 私はすぐ第2師団を指揮しているスーアン将軍に、半旅団1個と軽砲兵1個中隊を前衛師団増援のため派出するよう命じた。そして、オストラッハ川及びアシュ川の水源間の隘路を突破し我々の右側から我々の陣を迂回することで、全面的な交戦を起こすのが敵の計画であると予測した。私は同将軍[スーアン]にこれらの隘路を防御するため部隊を派遣するよう命じた。彼はこの作戦をデカーン准将に委ね、第2戦列半旅団、第1竜騎兵連隊、そして大砲2門がその麾下に入った。この縦隊はプフルーゲンとヴァルトボイレンへ向かった。

 必要とあれば前衛部隊の退却を守るため、予備騎兵をプフレンドルフの平野に集めるようオープール将軍に命じた。川、沼地、森が錯綜したこの地の地形は騎兵の交戦にはとても不向きで、この軍団をより効果的なやり方で使うことを許さなかった。

 私はサン=シール将軍に、師団を集め戦闘に備えるよう命令を記した。右翼にある森を守るために特段の労力を使うことでルフェーブル将軍の師団から離れてしまうことがないよう、そして敵がルフェーブル師団を我が物としてしまうことを防ぐよう特に命令した。彼は、攻撃の準備をしているオーストリア軍を有利に迎え撃つため必要な配置をしていると返答した。彼はまた、左翼の部隊が彼らに割り当てられた目的地である、ジグマリンゲンの下流でドナウ河へ流れ込んでいる小川へ到着することができなかったため、その陣を守るため、及びジグマルドルフへと兵を派出することを余儀なくされたとの理由で、彼の師団の戦力が大幅に減少したことについて言及した。

 私はまたその時点での状況についてフェリーノ将軍とも連絡を取ったが、彼の司令部はマルクドルフにあり、結果として迫りつつある戦いでとても活動的な役割を果たすには場所が遠すぎた。彼の師団は軍から派出されており、ある程度区別された軍団を形成していた。彼は状況に応じて行動するよう命じられており、彼に特別な指図をすることは私の権限には含まれていなかった。

 おそらく、私の兵力の少なさを考えるなら、オストラッハの戦いにおけるあらゆる作戦を視野に入れて、私はこの師団を軍から離れたところに置いておくべきではなかったと思われる。しかし一方で彼らは最も重要な街道を確保しており、それがラーフェスブールからマルクドルフ、ザルスメンスファイラー、さらにはプフレンドルフまで通じていること、そしてまた敵が私の右翼に大軍を展開しているとの極めて確かな情報を受け取っていたことを踏まえるなら、それを放棄することはとても軽率である。その軍団を見張り、側面を守ってエルヴェティー軍との連絡線を保持するために1個師団を充当することを、どうしてやめられただろう。

 これらの様々な命令を出したうえで、私は軍の参謀部を指揮するエルヌフ将軍と伴に前衛部隊の宿営地へと前進した。午前7時頃に到着したところ、ルフェーブル将軍はそこで起きた事件と彼が行った布陣について正確に説明した。

 フリートベルクの向こう側にある前哨地点は午前1時に赤い外套の群れに襲撃され、ダヴィズファイラーの森の上流部分へ後退することを強いられた。同時に義勇兵6個大隊がボルシュテルンの背後に布陣していた夜警部隊を攻撃した。これらの街道を守っていた第25軽歩兵半旅団は引き続いてダヴィズファイラーへ退却し、その後で一部はオストラッハへ、一部はイッコーゼンへ、そして他の一部はアインハルトへ、この重要な3拠点を守るため後退した。

 この半旅団は、午前2時に始まり7時までかかったこの退却時に成し遂げた目覚しい活躍で名を馳せた。

 第25半旅団と同じ部隊を組んだ第1猟騎兵連隊と第4ユサール連隊は、軽歩兵を支援しながら、最高の秩序をもってその作戦行動を実行した。

 この移動の後、第25軽歩兵半旅団の大半は陣地につき、ルフェーブル将軍の師団の前面に展開した。ドルーアン少佐麾下の4個中隊は、敵の接近から守るためにオストラッハ橋とその村の先頭に配置された。他の10個中隊はオストラッハ左岸に沿って展開し、ファンゲンとアインハルトからモーゲンブーフへ通じる道路を守るため、同時に左翼へと伸びていた。

 第4ユサール連隊、第1猟騎兵、及び第17竜騎兵はオストラッハの背後から右翼側に配置された。これらの兵はクライン将軍が指揮した。――第57半旅団の1個大隊は密集縦隊を組み、軽歩兵4個中隊を支援するためオストラッハの背後に置かれた。同半旅団のもう一つの大隊はイェッカセンの村を守るため、その向かいにある森の位置に戦闘隊形で整列した。第53半旅団の1個大隊は森の近くに予備として配置され、布陣を延ばした。軽砲兵とその輸送部隊はいくつかの砲列を敷き、オストラッハ村に接近する敵の側面に位置することで村への接近路を守った。

 ルフェーブル将軍は陣を守るため、第53半旅団の1個大隊、第25軽歩兵半旅団の4個中隊、第5ユサール連隊の3個大隊、第5猟騎兵の1個大隊、第17竜騎兵の2個大隊も当てにしていた。

 参謀副官フォンテーヌが指揮するこれらの兵は、[前日]夕方にホスキルヒへと送られていた。彼はオストラッハへ後退するよう命令を受けた。しかし敵が村の入り口で割り込んできたため、彼はフランス軍とオーストリア軍双方の射撃に挟まれた。自身を完全な敗北に晒さずに通過することを企てられなかったため、彼は自らの縦隊を敵から隠してくれる霧を利用し、オストラッハ川を右岸に沿って遡ったが利用可能な開口部がなく、リートハウゼンまで前進することを強いられた。そこで敵の一縦隊と交戦した後で、私が朝方道路を守るため派出した第2師団の兵と合流した。危険で困難、そして尋常ならざる冷静沈着さと偉大な勇気を必要としたこの退却は、参謀副官フォンテーヌと第1猟兵半旅団の将軍である市民サユーク、第53半旅団の指揮官である市民ヴァンデルマンにとって無限の名誉となった。しかしながらこの事件はルフェーブル将軍の師団を弱体化させ、我々の防衛手段を低め、敵の成功を助長した。

 以上が、私が戦場に到着した時になされていたルフェーブル将軍による見事な配置だった。敵の圧倒的優勢にもかかわらず、もし深い霧がその全ての動きを隠して彼らが攻撃を差し向けた地点に対する時宜を得た支援ができる力を我々から奪っていなければ、我々はおそらく陣を持ちこたえることができたに違いない。

 敵は活発な砲撃に直面しながら3個から4個大隊でオストラッハ村を攻撃した。村に配置された軽歩兵4個中隊は、味方の砲兵の恐ろしい砲撃に守られながら、英雄的な勇気をもってその衝撃を持ちこたえ、3時間にわたってオーストリア軍を撃退し続けた。この戦闘でドルーアン少佐は栄光に包まれた。

 同時に敵は大砲を伴ったいくつかの大隊でその右翼へと分列行進した。そして彼らは、その地点でオストラッハの小川に存在する様々な浅瀬を通ってモーゲンブーフまで突破する目的で、ショーペン村に積極的な攻撃をしかけた。

 この動きを見抜いたルフェーブル将軍は即座に予備としてとどめ置いていた第53半旅団の大隊をファンゲンの背後に派出し、騎兵に自軍の右翼側から左翼へ移動して小川の渡河点を守っている歩兵を支援するよう命じた。

 射撃は恐ろしく、絶え間なかった。そしてオストラッハの確保が最も重要だと考えた敵は、増援として新たな兵を送り出し、遂にそこを守っていた4個中隊を圧倒して橋を放棄し村へ後退することを強いた。この村の背後で第57半旅団の大隊と伴にいたボンタン准将は、同時にその拠点を奪い返し維持するよう命令を受けた。彼は即座に攻撃の合図を発し、何よりも称賛に値するしっかりとした勇気と伴に命令を実行した。

 ルフェーブル将軍は敵がモーゲンブーフへの街道を奪うのにあらゆる努力を傾注していると知らされ、彼が命じた配置がなされているか自ら納得するためイコーゼンへ急いだ。いくつかの移動を指図している時、彼の左腕に銃弾が当たった。彼は可能な限り彼を取り囲む士官たちからその怪我を隠そうと努力した。彼が遂に戦場から離れることを余儀なくされた時、私は彼の師団の指揮をスールト准将に委ねた。

 この時、私がプフレンドルフを出発する前にスーアン将軍に下した命令に従い、第2師団の一部を構成している第7半旅団が前衛部隊を支援するため到着した。この半旅団の1個大隊がオストラッハ村の背後に配置された。私はモリトール参謀副官に、最も激しく攻撃されている街道を押し進みそこを守る兵たちを支援する状況にになるように、他の大隊をモーゲンブーフへ導くよう命じた。しかしこの大隊の到着は遅すぎた。モリトールはファンゲンとアインハルト方面の多数の敵を相手に後退を強いられた兵たちの中に飛び込み、前衛師団の方へ退却した。彼は攻撃再開を試みたが、敵は既に森の中に散開していたうえに数も多く、一方で我々の兵は苦しみ疲労困憊しており、また弾薬も欠乏していた。敵はこの優位を生かしていくつかの騎兵部隊で我々の砲兵に圧力をかけたが、クライン将軍麾下の2個騎兵大隊によって撃退された。メルラン、サン=ディジェの両准将とデュボワ=クランセ騎兵将軍は彼らの兵を大胆さと判断力をもって率いた。

 この時点で霧は散り散りになり、我々は騎兵と歩兵から成る夥しい戦列を見た。誇張なしに言って、我々の前衛部隊と交戦していた敵は2万5000人に及んでいた。今や私はこれだけ数の多い部隊を相手に、そしてまた敵が左翼で得た優位によって師団を脅かしている危機を前にして、これ以上の抵抗を続けることは全く不可能だと見抜いた。かくして私はスールト将軍に師団と伴にプフレンドルフ前面の陣まで後退するよう命じた。

 特に敵の射撃下でオストラッハの橋を切り落とし、さらにその後も擲弾兵のように戦った土木工兵第7中隊に支援されて、退却は完璧な秩序を持って実行された。同中隊の中尉であった市民クレテは私の称賛に値するやり方で名を上げた。スールトとラヴァル両准将は勇敢な奇跡を演じてみせた。前者はルフェーブル将軍の負傷後に引き継いだ師団の指揮において真に見事な平静さと軍事的才能を示した。准将である市民ボンタンと、第67歩兵半旅団の大隊を指揮していたショーサルは、最大限の賛辞に値するやり方で振舞った。我々の砲兵は敵の兵たちに大いに損害を与えた。砲兵も士官たちも、ある者はその活気と態度で、他の者は思慮深い指図によって同様に名を上げた。ルフェーブル将軍の近くに仕えていた参謀士官たちは著しく有用だった。ある時にはあらゆる危険を冒して霧に隠された敵の動きを発見しようとし、またある時は将軍が行動させようと望んだ地点に優れた才能と伴にいくつかの縦隊を向かわせた。要するにこの忘れられない闘争において、フランス人の勇気はあらゆる輝きを放ったのである。士官と兵たちはその圧倒的な戦力ゆえに手強い敵に対し、大胆に戦った。彼らは勇気の才によって、数の重みによって彼らを圧倒している敵を打ち砕かなければならないと自らを鼓舞した。彼らの前に広がっているのが見えるこれらの分厚い部隊も、彼らの情熱を抑え込むどころかむしろそれを倍加しているように見えた。英雄的行為によって高く称賛されたこの日は、私の記憶の中に永遠に宿るだろう。これらの尊い親愛の証は私の記憶から決して消されることなく思い出されるだろうし、そして私の執念深い敵が飲ませた苦杯の中でも絶えず私を慰めるだろう。どうすれば兵士たちの尊敬に値するかを私が常に知っていたことを証明する数多い事例の中で、一つの出来事に触れることを許してほしい。この小さな出来事を振り返るのは、私自身の自己愛について提供することを意味しているのではなく、私の心の感受性に接してもらうためである。

 ルフェーブル将軍が負傷したしばらく後に、弾丸が私の乗馬に命中し、私は戦場に投げ出された。『将軍が殺された』というとても悲しげな突然の叫びが、私に従っていた兵士たちからすぐに発せられた。私が立ち上がり、他の馬に乗ると、喜びが皆の顔に浮かんだ。勇敢でやさしい戦友たちよ! 私の深謝の気持ちを受け取ってほしい。諸君の私に対する愛着の証は、どれほどの敬愛に値することか! 諸君の隣で私が戦闘に危険に身を晒している時に諸君が寄越した親切な叱責を、私は決して忘れない。――諸君の栄光を分け合っている私が、どうして諸君の危険に加わらずにいられるだろうか? 何と! これほど多くの大胆な戦士たちが千回もの死に遭遇しているのを見ている私が――その一撃から隠れていられるだろうか? 否。我が義務は私に対し、諸君の熱烈な勇気を導くことだけを命じてはいない。それは私自身が勇気を示すよう求めている。――諸君がより愛情を込めて私を尊敬してくれるほど、私は諸君を大事に思う。そして私は、自らの熱意と勇気と諸君への献身によって、自身を諸君にとってより価値あるものにしなければならない。

 敵がルフェーブル将軍の師団をかなりの激しさで攻撃しているのと同じ時、彼らはサン=シール将軍の師団の正面でも同様の攻撃をするべく前進し、そしてルフェーブル将軍への攻撃の直後にそこでも戦闘を始めた。午前6時にかけ、交戦は深刻化してきた。サン=シール将軍が師団の正面を守るためオストラッハ右岸のホーエンデンク、フェルコーゼン、ライスカーン、及びウルゼンドルフに置いた兵を、敵は全力で激しく攻撃した。彼らに対して使われた兵力の優位性ゆえに、彼らは[師団]主力へと後退することを余儀なくされた。

 1000から1200の騎兵、2個歩兵大隊、及び数門の大砲で構成されている敵の軍団がヘルベンティンゲンにいた。彼らはライトリンゲンの1個歩兵大隊及びいくつかの騎兵大隊に支援されていた。

 サン=シール将軍は参謀副官ドビリーに2個騎兵大隊と伴にドナウ左岸のリートリンゲン近くへ前進するよう命じた。この地点にいる敵を警戒させ、接近してきた部隊がリートリンゲン攻撃を企んでいる我が軍団の側面部隊の前衛であるかのように見せかけることが、この移動の狙いだった。

 ジグマリンゲン、ジグマレンゲンドルフ、そしてシェーアを占拠していた第108半旅団の1個大隊が同時にドナウ方面軍の左翼を支援し、参謀副官ドビリーの退路を確保した。この半旅団の第2大隊と軽砲兵3門、及び第2竜騎兵連隊の3個大隊は、ワルテル将軍の旅団を構成していた。この部隊はモンゲン前面のウルム街道上に、その街道を守るため布陣しておりヘルベンティンゲンの[敵]軍団を見張っていた。

 参謀副官ドビリーの移動はサン=シールがそれに期待していた効果を引き起こした。敵は敢えてリートリンゲンを失う危険は冒さず、ヘルベンティンゲンの軍団は動かなかった。私からオストラッハ前面で起きたことを全て伝えられ、敵が[サン=シールとルフェーブルの]2個師団の間を突破するのを妨げるべくルフェーブル将軍を支援するため可能な限り多くの戦力を右翼へ移動するよう命じられていたサン=シール将軍は、ルグラン将軍の旅団を動かして我々の兵が数時間前に撤退を強いられた村々からすぐにオーストリア軍を追い払った。この優勢を活用しようと切望した彼が、[敵の]側面を攻撃し、可能ならルフェーブル将軍の師団の前にいる部隊を迂回するためフリートベルクへ行軍する準備をしている時、彼はこの[ルフェーブル]師団がオストラッハの陣を放棄することを強いられ、プフレンドルフへ退却したことを知った。

 この情報は私の副官の一人によって確認された。副官は、サン=シール自身が右側から包囲されるのを防ぐよう布陣する必要性があることを指摘した。同時に彼に対し、メスキルヒを通ってシェーア下流でドナウ河に流れ込んでいる河の背後に退却せよとの命令を渡した。

 ルフェーブル将軍の師団の退却によって生まれた優勢を得た敵は、サン=シール将軍の右翼に数多くの増援を送り込んだ。我々の兵はオストラッハ川右岸にある村々から再び撃退され、将軍はその小川の左岸に彼の師団を集結させた。オーストリア軍はオストラッハ強行渡河のため準備をしたが、その準備は彼らの最初の移動にかかっており、加えて我々の兵たちの頑強な様子もあって、彼らはその企図を諦めた。そして彼らは左へ前進し、オストラッハの小川を彼ら自身で確保した渡河点で渡り、 サン=シール将軍の師団全てを迂回して彼のメスキルヒへの退却を遮断することを試みているように見えた。将軍はルグラン将軍にこの動きに追随するよう命じ、同時にワルテ将軍の旅団を支援するため右翼へ分遣隊を送り出した。

 にもかかわらず敵はサン=シール将軍の右翼への前進を続け、メスキルヒ街道上にあるフルピンゲン村を経由してその背後へと浸透し始めた。その時、将軍は第50半旅団の1個大隊と伴に参謀副官サリニーを派出し、その地点まで急ぎ移動し敵をそこから追い払うよう命じた。この士官はこの作戦を大いなる活力と判断によって実行し、師団の退路を確保した。退却は夜が近づいた時に素晴らしい秩序をもって行われた。

 サン=シール将軍がこの日の出来事に関する報告を提出した時、彼は師団の兵たちに大いなる賛辞を贈った。そして特に第8猟[騎兵]連隊と第5半旅団が名を上げたと付け加えた。彼はまたルグラン准将の才能と勇気について名誉となる言及をなした。ただ彼は、ルグランがサンブル=エ=ムーズ軍に仕えていた際に私に見せていた才能、武勇、そしてつつましさに関する好ましい見解を確認しただけだった。

 オストラッハの戦いの間、私は前衛師団の退却を守るためエルヌフ将軍をプフレンドルフの陣に送り出し、予備騎兵をその町の前面の平野に、砲兵を様々な陣に配置させようとした。オープール将軍にその命令を伝えた後で、彼は私の右翼、プルールゲンとファルデンブーレンの側で何が起きているか知るためリートハウゼンへ進んだ。そこで彼は、そこを通れば軍が完全に迂回されてしまうこの街道の重要性に気づいていたスーアン将軍がそこへ進んで朝からずっとそこに配置されていたデカーン将軍の縦隊に合流してしたことを発見した。

 プルールゲンに接近したデカーン将軍は、彼の部隊の一部をエフェンハウゼンの隘路へ派出した。彼はそこでオストラッハへ退却することができなかった前衛部隊の一部と合流し、これを保護した。この部隊は、虚しくもこの通路を手に入れようと試みた敵の縦隊に対し、この地とファルデンボイレンで抵抗した。夕方には彼らはプフレンドルフの宿営地へ退却した。

 この時点で私はフェリーノ将軍が攻撃されたかどうか知らなかった。しかしオストラッハ放棄を強いられたことにより、私は彼の師団をアシュに残しておくのが適切だと考えなくなった。そこにいたら彼らは左翼を迂回され、コンスタンス湖に追い落とされることすらあり得た。そこで私はオストラッハで何が起きたかフェリーノ将軍に伝え、他の軍と戦線を構築できるようザルスメノアイラーへ退却することを命じた。極めて多くの敵戦力と直面しながらも、この将軍は攻撃を受けなかった。敵はおそらく、翌日に正面と側面から彼を攻撃することでより有利な状況で戦闘をするべく、彼をひきつけ今の陣にとどまらせることを視野に入れて、成果のないいくつかの移動を行っただけだった。アシュ川とオストラッハ川を水源で通過した後に彼の軍をプフレンドルフ右翼数リーグのところに宿営させた大公の行動によって、この推測は正当化されるように思える。

 この日の敵の損害は極めて大きかった。捕虜と脱走兵の証言によれば、死傷者と捕虜は4000人にのぼる。我々の損害は1400人から1500人を超えることはなかった。その大半は負傷者で、すぐにライン左岸へ運ばれた。我々はまた、砲車が破壊され移動させることができなかった大砲1門を失った。

 以上がこの記憶すべき日の実際の結果である。そして敵戦力の優位性を考えれば、これは名誉の点では最も輝かしい勝利と同等だと見なしてもいいだろう。また帝国軍兵士が既に我々の武勇を身をもって味わったと考えられることも付け加えざるを得ない。共和国兵はその勇気と大胆さにおいて優位にあることに気づいており、この交戦のあらゆる部分において最も尊敬すべき英雄的行為を成し遂げる能力があるとあまりにも確信していたため、ほんの些細な落胆すらおよそ感じることなく、その直近の努力によって恰も輝かしい勝利を得たかのように自らを祝福した。

"Memoir of the Operations of the Army of the Danube, Under the Command of General Jourdan" p147-170



――1799年ライン戦線に戻る――