指 宿

 

略歴

昭和19年 1月 1日 開隊、第四五三海軍航空隊

昭和19年12月15日 第九五一海軍航空隊に統合、同空指宿派遣隊

.           配備機種 …零式水上偵察機、九四式水上偵察機、零式観測機

.           主要任務 …索敵訓練、対潜哨戒、船団護衛

昭和20年 4月29日 神風特別攻撃隊 琴平水心隊 出撃 (詫間空  5名、沖縄周辺艦船)

昭和20年 5月 4日 神風特別攻撃隊 琴平水心隊 出撃 (詫間空 27名、沖縄周辺艦船)

昭和20年 5月 4日 神風特別攻撃隊 第一魁隊  出撃 (北浦空 18名、沖永良部周辺艦船)

昭和20年 5月11日 神風特別攻撃隊 第二魁隊  出撃 (鹿島空  5名、沖縄周辺艦船)

昭和20年 5月25日 神風特別攻撃隊 琴平水偵隊 出撃 (福山空  9名、沖縄周辺艦船) 27日、28日

昭和20年 5月28日 神風特別攻撃隊 琴平水心隊 出撃 (詫間空  7名、沖縄周辺艦船)

昭和20年 5月24日 神風特別攻撃隊 第十二航空隊二座水偵隊 出撃 (天草空  3名、沖縄周辺艦船)

昭和20年 6月21日 神風特別攻撃隊 第十二航空隊二座水偵隊 出撃 (天草空 13名、沖縄周辺艦船) 25日、7月 3日

 

特攻訓練の開始

昭和20年 2月、米軍が硫黄島の攻略に転じた頃、海軍では戦況の逼迫と燃料の欠乏から練習航空隊の

飛行訓練を中止し、予想される沖縄戦に備えて3月に入ると各隊の保有する練習機をもって特攻隊を編成

し、特攻訓練を開始した。

水上機は北浦空詫間空の零式水債と九四式水偵の実用練習機を特攻機に転用し、隊員の構成は既に隊付

の予備学生十三期生出身者と実用機の訓練を中止して予備学生十四期生・予備生徒・予科練出身者に、こ

れらと出身が同じ偵察員と、3月半ばに偵察の訓練教程を卒業した偵察員が来隊し、ペアが組まれて特攻

隊が編成された。

水上機特攻の最大の狙いは、指宿基地を中継基地として月明の夜間に乗じて出撃し、沖縄周辺海域に侵攻

する米軍艦船、特に輸送船を撃滅して機動部隊の補給を断つことであった。

そのために零式水偵は800kg爆弾一発を、九四式水偵は500kg爆弾一発を零式観測機は250kg爆弾

一発をそれぞれ搭載し、350浬の飛行実験の結果、重量超過のために片道燃料ならば攻撃可能と断定され

出撃を敢行した。

 

第二魁隊(鹿島空 5名、沖縄周辺艦船)

 

琴平水心隊(詫間空 7名、沖縄周辺艦船)

 

指宿基地への空襲

指宿基地は沖縄の空母から発艦して約二時間、九州に達した艦載機の通り道であった。

昭和20年 3月18日、南九州を空襲した艦載機は母艦に帰投する途中、指宿基地をめがけて急降下し、機

銃掃射をしながら飛び去っていった。

昭和20年 5月 5日の昼頃、指宿基地はマリアナからのB29(11機)の報復爆撃をうけ、壊滅にちか

い打撃を被った。

いままで、鹿屋基地はB29に散々痛みつけられていたが、指宿基地への爆撃はこれが初めてで最後だった。

指宿に在隊していた八〇一空指宿派遣隊、九五一空指宿派遣隊、偵三〇二飛行隊、佐伯空指宿派遣隊の中から

も多数の死傷者を出した。

 

その尊い犠牲者の数は、特攻戦没者・訓練による殉職者・空襲による戦死者を含めて192名。

 

慰霊碑公園

鹿児島県指宿市

指宿海軍航空基地 愛惜の碑

碑文

君は信じてくれるだろうか

この明るい穏やかな田良浜がかつて太平洋戦の末期 本土最南端の航空基地として琉球弧の米艦隊に対決

した日々のことを

拙劣の下駄ばき水上機に爆弾と片道燃料を積み 見送る人とてないこの海から万感をこめて飛びたち遂に

還らなかった若き特別攻撃隊員が八十二人にも達したことを

併せて敵機迎撃によって果てた 百有余人の基地隊員との鎮魂を祈ってここに碑を捧ぐ

 

横たはる松は知らねど田良浜や つはものどものこの夢の跡

 

指宿海軍航空基地 愛惜の碑

 

海軍飛行予科練習生 特乙九期第一〇三分隊 訓練の地

 

  

コンクリート壕

 

コンクリート壕

 

コンクリート壕

 

水上機スリップ跡

 

水上機スリップと二式大艇

 

慰霊碑公園 入口

 

面たれて涙かくせる吾が妻の こころくみてぞ いざたち征かん 海軍大尉 石川延雄命

 

亡き夫の好みし博多の帯しめて 昏れなづむ門に迎火を焚く 岩城町子

 

神風特攻隊

更新日:2013/08/04