詫 間

 

詫間海軍航空隊

昭和18年 6月 1日 詫間海軍航空隊 開隊

昭和19年 9月  日 横浜海軍航空隊、主力を詫間へ移動

昭和20年 4月25日 全飛行艇部隊を統合して実戦部隊詫間海軍航空隊を編成

昭和20年 4月28日 神風特別攻撃隊琴平水心隊、出撃

昭和20年 8月15日 終戦

 

香田地区

香川県三豊郡詫間町

         

水上機スリップ(すべり)跡@

 

  

水上機スリップ(すべり)跡A                      水上機スリップ(すべり)跡B

 

          

防空壕跡                                    二式会の碑

碑文

昭和十九年建設された第十一海軍航空廠詫間工場で苛酷な作業の中 全員が信頼と連隊の強い絆に結ばれ

飛行艇を修理し戦場へ飛び立たせた 共に働いた方達と結成した二式会である

会員一同 思い出の地に平和を願って建立する

 

         

防空壕跡                               海軍少年飛行兵香川県雄飛会の碑

碑文

肌さす浜の滑走路 みたま安かれ 想ひさよざよ 碑を刻む

 

防空壕の内部

 

詫間海軍航空隊跡/神風特別攻撃隊出撃の地

碑文

詫間海軍航空隊の建設は昭和十六年十一月に発表された。香田・和田内地域の突然の土地買収は住民

にとって死活問題であった。また新浜に呉海軍軍需部詫間補給所が建設され、三地区で合計百三十六戸

(買収面積約三十七町歩)が立ち退くことになった。移転に伴なう労苦は筆舌に尽くし難いものであった。建

設工事は呉海軍施設部が担当し、地元の勤労奉仕隊員を加えて官民一体で行われた。

詫間空は昭和十八年六月一日に開隊され、水上機の実用教育を担当した。主要配備機は九四式水上偵

察機、二式飛行艇等であり、各地から二千余名の兵員が着任し、連日猛訓練が展開された。昭和十九年

九月、横浜海軍航空隊は沖縄攻防戦に備えて主力を詫間に移すことになった。この時点で、ここ詫間は大

型飛行艇隊を擁する水上機の一大作戦基地になった。

昭和二十年四月二十五日、第五航空艦隊は決戦態勢を整えるため、全飛行艇部隊を統合して実戦部隊

詫間海軍航空隊を編成した。詫間空配備の二式飛行艇は高速性能のうえ大型レーダーを装備しており、

米軍戦闘機と死闘を繰り返しながら、終戦の日まで第五航空艦隊の目となって活躍した。銀河爆撃機で米

軍機動部隊をウルシー泊地に強襲した第二次及び第三次丹作戦では、長駆進撃路の天候偵察や特攻機

隊の誘導で活躍した。これら作戦で二式飛行艇二十七機と二百五十名の精鋭を失った。

昭和二十年二月十六日、全小型機による特攻訓練の実施が発令された。詫間空では、水上偵察機によ

る神風特別攻撃隊琴平水心隊を編成した。同時期、茨城県北浦鹿島両海軍航空隊で編成された神風

特別攻撃隊魁隊が詫間空に進出、両隊は猛訓練の後、鹿児島県指宿を前進基地として沖縄周辺の艦船

に体当り攻撃を敢行した。指宿では先行した整備員が発動機調整・燃料補給・爆弾装着等の整備に心血

を注いだ上、断腸の思いで出撃を見送ったという。四月二十八日以降四次にわたる出撃で二十五機が米

軍艦船に突入し五十七名の若者が沖縄の空に散華した。

これら詫間空の戦闘を強力に支援したのは、第十一海軍空廠詫間工場である。昭和十九年十月から詫

間補給所の施設を利用して修理工場を建設し、基幹技術者に徴用工員・増川女子挺身隊員・女子年少

工・観音寺商業と善通寺高女の動員学徒等を加えた約八百名の陣容で、各種飛行機の修理に精根を尽

くした。被弾破損した飛行機を一刻も早く飛ばそうと、必死の思いで業務に邁進した若い力が、二式飛行

艇を決戦の空へ飛ばし続けたのである。

戦後五十有余年、詫間海軍航空隊跡地は国立電波高専と民間工場等に、十一空廠跡地は詫間中学校

に転用され、わずかに水際四箇所のスベリと横穴式防空壕を残すのみとなっている。我が国今日の繁栄

は祖国の防空に殉じた将兵や多くの人々の犠牲に負うことを銘記し、再び戦争の惨禍が起こることのな

いよう、恒久の平和を念願して、詫間海軍航空隊跡を詫間町の史跡に指定する。

 

神風特攻隊

更新日:2003/12/13