満蒙開拓団

殉難者拓魂 長野県 ・諏訪

 

温泉寺

長野県諏訪市

第七次両角中隊 少年義勇隊之碑

碑文

昭和十九年三月 当時国策の一環であった半軍半農の旧満州開拓青少年義勇隊 第七次郷土中隊として

諏訪 上伊那 下伊那三郡により 二百七十三名の当時十五才 十六才の少年隊員で結成され 茨城県内

原訓練所に入所 二ヶ月程訓練を受け祖国の為 大陸の荒野に立たんと胸弾ませ渡満したのも束の間 翌

二十年八月十一日関東軍の指令により出動 八月十五日終戦と共にソ連軍捕虜となり 捕虜生活中病死ま

たは栄養失調に臥し 七十六名の隊員を喪う 二十一年九月帰還の途に着き約一ヶ月かかり十月 日夜忘

れえぬ故郷の地に帰還出来ました

此の碑は 我等帰還者により亡き友の霊を弔う慰霊碑建立の声が盛り上がり 昭和五十年五月頃より隊員

から寄付を願い 町村より台石を寄贈頂き 尚温泉寺の御厚意により永代供養として建碑出来たものである

建立には諏訪隊員が主体となり 建設委員の奉仕により約七ヶ月かかり建碑の完成を得ました

昭和五十一年三月十四日  建立

 

貞松院

長野県諏訪市

満州開拓鳳鳴義勇団供養塔

碑文

昭和十五年三月 満蒙開拓を志す少年三百余名 第三次青少年義勇隊小林中隊を編成し 内地訓練を終えて

同年七月渡満 現地教育を修め十八年十月北満の鳳鳴に入植す 後多くは関東軍の軍籍に列し偉勲を挙げし

も ソ連参戦により戦死せし者 抑留中若しくは引揚途上にて病死せし者 少なからず ここに同志の霊を祀りて

供養せるものなり

 

富士見町老人集会室

長野県諏訪郡富士見町

富士見町元満州開拓団 拓魂

碑文

昭和十年代 満州開拓は国策としてされ その分村分郷計画は農村経済更生事業の最大の支柱であった これに

よって我等が渡満入植し建設した開拓団は次の通りであった

 

東安省密山県黒台信濃村へ        三戸    十九人

東安省密山県南五道崗信濃村開拓団へ  十七戸   八十八人

濱江省延壽県中和鎮信濃村へ       九戸   三十七人

三江省通河県張家屯信濃村へ       一戸     八人

濱江省木蘭県王家屯富士見分村へ  百九十六戸 九百三十三人

 

仝所 富士見在満報国農場へ            三十五人

北安省北安県孫船八ヶ岳郷へ       十戸   三十八人

北安省徳都県旭日落合分村へ     八十一戸   百十三人

仝所 勤労奉仕隊                 六十二人

青少年義勇隊                   六十六人

その他                 二戸     八人

 

合わせて三百十九個 一千四百七十七人であった

昿野に鍬を振るった苦闘の幾歳 開拓の成果は逐次挙り 理想郷建設の夢成らんとする時 昭和二十年八月

十五日太平洋戦争の終結は この一切を放棄した我等は老若男女を率い 一朝にして難民と化し大陸を放浪

すること1年 有余戦死殉難せる者五百五人を出し 故国に還り得た者九百七十二人であった 爾来二十余年

我等同胞相計りここに碑を建て 往時の事蹟を記し戦死殉難者を弔い その霊を慰めると共に 我等と中国の

人々との友好を築くものである

昭和四十三年十二月  富士見町元満州開拓団関係者一同建立

 

南原山

長野県諏訪郡富士見町

富士見拓友会 満州開拓殉難者供養塔

碑文

(碑文 判読不能)

昭和二十九年七月七日  富士見拓友会建立

 

殉難した子供達を浄土へ導く地蔵尊

碑文

昭和五十三年八月十五日  富士見分村拓友会 在満国民学校同窓会

 

北    信  東   信  中    信

諏    訪  上 伊 那  下 伊 那  木   曽

 

満蒙開拓団    拓魂・長野県

更新日:2011/11/03